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映画『彼方のうた』の感想|天使のまなざし

 ポレポレ東中野での上映の最終日に、『彼方のうた』をすべりこみで見た。

 多摩川沿いの京王線沿線の風景も、キノコヤも、前作から続投した俳優たちも、ひとつの世界を完全に充足するかたちでなしていて、圧倒された。それは、さながら杉田協士ユニバースであって、画も、演出も、俳優たちの演技の間あいやテンポも、画面の中に漂い観客を包みこむ空気感も、すべてがどこまでも杉田の映画の世界だった。終映後のトークイベント(歌人で、『春原さんのうた』の原作を詠んだ東直子との対談)での杉田いわく、『春原さんのうた』の2年後をイメージしていた。まぎれもなく、『春原さんのうた』から地続きの世界だった。

 杉田の映画は、とても霊的だと思う。パンフレットに載っている編集の大川景子との対談では「スピリチュアル」という言葉が現れたし、TOKIONのインタビューでは「SF」についても語られている。なんというか、画や演技や音、観客の前に提示されるものすべてが、霊的なもの、この世ならざるなにかを、ふわっと纏っているのだ。霊的なもの、この世ならざるもの、目に見えないもの、そこにいない/ないなにかを、『彼方のうた』は、杉田の映画は、積極的に映そうとしている。

 それは、やはり、杉田が、「不在」を映す映画作家だからだろう。『春原さんのうた』にしても「喪失」について常に語られ、今回の作品にまつわる取材記事でもその2文字が何度も現れる。しかし、杉田の映画は、「喪失」の先にあるもの、「不在」を、あるいは「不在の存在」を映そうと試みているものだと、私は思う。なにかがそこにない、ことがある、というか。それは、『春原さんのうた』でとても顕著だったけれど、『彼方のうた』ではさらに洗練されているというか、映画に底流、伏流するものとして自然に、密かに、おし黙って映されている(ないし、映されていない、ことで映されている)。そのことこそが、拭いされない痛ましさ、かなしさ/かなしみをフィルムに宿らせている。『春原さんのうた』では「不在」の主が映されてしまういくつかの場面に不満があったものの、『彼方のうた』では「不在」が徹底されており、そこにいない/ないものは、ずっと、どこにもいない/ない。

 『彼方のうた』における小川あんは、天使である。これは冗談のような比喩ではなくて、小川は春という役として映画の中で労働や他者と会話をし、周囲の人々と関わり、社会の中で生きている。そこに、たしかに実在しているのだけれど、その姿や声はあまりにも清らかで、なめらかで、かすかに発光しており、現実から遊離していて、地面から浮かびあがっているように見える/聞こえる。どうしても実在感が希薄な小川は、虚構的な天使として映画の中にいる。その天使は、中村優子や眞島秀和を、ある時は遠巻きに、ある時は近くから見つめている、眺めている、ただ見ている。それは、事のなりゆきや時のうつろい、人が生きて死んでいくさまを、慈愛と庇護の思いを込めてまなざす、守護天使の視線である。というか、杉田映画で映される人々は、誰もが総じて天使であるように感じる。杉田映画の世界そのものが、霊性や非実在性を帯びている。

 天使としての小川は、中村や眞島としばしば直接的に関わり、ケアにも近いかたちで交わりながらも、その端緒、きっかけになっているのは、ただ見つめるだけのことだ。小川の守護天使の視線は、地縁や血縁のコミュニティが壊れて朽ちはてたこの国の、最後の頼り綱、セーフティネットである。「見守り」というケアや包摂の用語があるが、それに近いと思った。声や音に耳を傾けることも、ほとんどおなじ。ほどけた紐帯を結びなおすには、無関心を捨てて、ただ見ること、見つめること、視線を送ること、私たちはまずそこから始めるしかない、と『彼方のうた』は言っているかのようだ。だからこそ、杉田の映画におけるコミュニケーションは、常にどこかたどたどしく、よそよそしい。他者との間にある埋められないたしかな距離感、べったりと密着し粘着した関係ではないそれ、親密になりすぎないディスタンスがそこにあって、それこそが人々のちぎれた絆や縁を逆説的に繋ぎなおすことになる。

 だからこそ、『彼方のうた』は、視線の映画だった。メインビジュアルに写った3人がそれぞれ別々の方向を見ていることにも、それは表れている。カメラを見る(つまり、スクリーンの前にいる観客を見る)、フレームの外を見る、ある俳優がほかの俳優を見る、様々な視線が、見ることと見られることが、この映画ではきわめて重要だった。俳優たちがカメラを回して撮ったり撮られたりする場面、自己言及的な映画を見るシーンも、視線についての語りだ。見事だったのは、小川が赤子を見ている様子を真うしろから映した、頭だけのショット。小川のうしろ頭が、カーブした髪が、その先にある視線を力強く語っている。

 強烈なショット、記録された音が、たくさんあった。冒頭の、中村が虚空を見つめているショット。京王線の車内に薄暗い影が落ちる瞬間(ありふれた電車内を映しているだけなのに、どうしてこんなにも美しくて、胸に迫るのだろう?)。眞島がキノコヤで嗚咽する、泣き崩れるシーン。さらに、その直前の、小川が声を発するところ。オムレツやかた焼きそばがぐちゃぐちゃと立てる音と咀嚼音。劇伴の、ピアノの鋭い単音(ちなみに、この映画の英題は“Following the Sound”だ)。小川と中村が橋の欄干から川を覗きこんでいるのを背後から捉えたカット。一瞬、ロードムービーと化す中盤も、2人乗りのバイクをうしろから撮っているだけなのに美しい(相米慎二の『セーラー服と機関銃』や『お引越し』を想起させた)。小川が街中で立ちつくすミドルショット。そして、あまりにも印象的なラストカット。

 杉田は、先の対話で、「本当はあらすじを書きたくない。映画のコピーをなくす試みもしてきた。予告編にもテロップを入れないようにしている」と言っていた。それは自身がつくっている映画に対して、とても真摯な態度だ。なぜなら、『彼方のうた』では、映像に収められた時間の豊かさ、深み、そこに刻まれた空気と体温のユニークネスこそが、なによりも雄弁だから。

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