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映画『春原さんのうた』の感想|「不在」を映す映画

 ない、ない、ない。

 いない、いない、いない。

 『春原さんのうた』は、端的に言って、「不在」についての映画だ。まかりまちがっても、「喪失」や「欠落」についての映画では、けっしてないはず。なぜなら、過去に「あったもの」の「喪失」や「欠落」は、いつか埋めあわせられないといけないのであり、回復されたり、癒されたり、忘れられたりしないといけないからである(それこそ、『ドライブ・マイ・カー』のように)。『春原さんのうた』という映画は、なにも回復しないし、忘却もしない(むしろ、忘れられない)。ましてや、欠けた部分を継ぎあわせたり、損なわれたものを癒したりもしない。

 以前は「いたひと」、過去に「あったもの」が、今、そこには「いない」、あるいは、「ない」。『春原さんのうた』は、そのことだけを語っている映画である。「ない」ことをカメラは捉えつづけ、俳優たちは演じつづける。「ない」ことがこの映画には常に「ある」のであり、「ない」ことが偏在し、敷きつめられていることによって、この映画は撮られ、さらに駆動している。「本当だったら、ここにあのひとがいたはずなのに」とか、「以前のとおりなら、ここにこのひとがいるべきだった」とか、そういうことですらない。今、ここには、「そのひと」や「それ」が、ただ「いない」、「ない」のであり、それ以上でも以下でもなく、映画は、「ない」ということを押し黙ったままに映しつづける。

 それにしても、「ある」ことよりも、「ない」ことは、なんと雄弁なことだろうか。「不在」は、強烈な、見逃せないほどに鮮やかな、刺すような存在感をスクリーンの上で放っている。今、ここに「存在しないこと」は、どこまでも痛ましく、(徴候ではなく)快癒されえない傷としてずきずきと疼きつづけ、荒⽊知佳に、荒木の周囲のひとびとや環境に、いや、この映画じたいに、追い払えないほどの濃い影を落とし、彼らに覆いかぶさっている。言ってしまえば、『春原さんのうた』では、「ない」ということ、「不在」が、「わたしは、『ない』のだ!!!!!」と、おそろしい、耳をつんざく絶叫を上げているのだ。しかも、その声は、過去からの残響でも反響でもなく、現在、荒木のすぐ隣で張り上げられている。そして、その叫びが、映画を最初から最後まで、残酷なまでに覆いつくしている。

 映画では、ひとびとがスマートフォンやカメラで写真ないし動画を撮る行為が、繰り返し映される(その被写体は、おもに荒木である)。なぜなのだろうか。おそらく、写真や動画は、かつて「いたひと」や「あったもの」を写しとるメディアだからだ(それゆえに、すべての写真は遺影にほかならない。映画という媒体だってそうだろう)。それらには、今、ここには「いないひと」や「ないもの」が、おぞましく、不気味なかたちで取り憑き、染みついている。写真や動画は、写されたものが今はそこに「ない」ことを、痛切に歌いあげる。「ない!!!!!」。それでも、『春原さんのうた』のひとびとは、何度も、飽きもせずに写真を撮る。なぜなら、今、ここで撮らないと、それは、すぐになくなってしまうからだ。

 何度か繰り返される、走るバイクを背後から映すフォローショット。フォローショットは、一瞬間、前に「あったもの」を捉えて、それを追いつづける(フォローショットだけでなく、『春原さんのうた』では、ひとの移動にあわせて、カメラがゆったりとパンすることが多い)。当然ながら、カメラは、いつまでたっても、永遠に被写体に追いつけない。カメラができることは、一瞬間、前に「あった」ことの痕跡や余韻、残り香のようなものを、ひたすら追いかけ、背中から捉えつづけることだけだ。

 だからこそ、「いないひと」であるはずの新部聖⼦がこの映画に映らなかったら、どれだけよかっただろうかと思った。新部が映画に「存在すること」は、過去に「いたひと」が、「わたしは、『いた』」と過去形で、直接的に語ってしまっている。新部の「存在」が、今、ここを支配している「わたしは、『いない』」という現在形の痛烈な叫びをかき消し、上書きしてしまっているのだ。あるいは、あまりにもわかりやすすぎる「喪」の作業や儀式が、この映画で映されていなかったら、とも思う。「喪」の作業や儀式は、過去を手前勝手に整理し、主観的な道筋をつけ、今、ここの「不在」の痛みを「喪失」へと還元させ、それを克服して、回復した未来へと乗り越えようとするものだからだ。『春原さんのうた』に、それは似つかわしくないと感じた。

 「不在」は、どこまでも間接的なものだ。間接的だからこそ、今、ここに存在しているものを絶えずつき動かしたり、おびやかしたりする。それに対して、「存在すること」は、あまりにも直接的にすぎて、わかりやすすぎる。「存在」は、条理にかないすぎており、安心感を与えてしまう。新部が映画に「存在すること」は、新部が「いたこと」、その過去形の時制を、観客にむりやりに理解させてしまう。「ああ、このひとは『いた』んだ」と。それによって、観客は、首ねっこをつかまれて、現在形から過去形へと引き戻される。『春原さんのうた』が「不在」についての映画であるのであれば、やはり、もっと、徹底して「不在」を描き、どこまでも間接的なものであってほしかった。


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