【ショートショート】風に乗って、綿毛は漂う
新しい火災報知器を買った。しかも、うんと安いやつを。
まさかこんなものを買うことになるなんて、思いもしなかった。
この部屋に引っ越して来たのは今朝のことである。
進学する予定の学部を考えても、どうせキャンパスは変わらない。
だから、引っ越すつもりなんてさらさらなくて、上京したタイミングで私は割といい家を借りていた。
といっても、別にお金があったわけではない。ウチの大学は地方の女子学生にだけ、支援として家賃の半額くらいを給付してくれる制度がある。
このご時世、女子学生が少ないというのは、あまり褒められたことではない。
体裁を保つためか、それとも本気で男女格差の是正に取り組んでいるのか、本当のところは一介の学生にすぎない私には分からないけど、それでも大学側は、何とか女子に向けて門戸を広げようとしているのだろう。
幸いそんな格差を思い知らされることもなく、すくすくと育った無知な私は、その制度のことなんて一切知らず、入ってみて気がついたらそんな恩恵を受けていた(手続きは親がしてしまったので、私は口座を見て驚いた)という感じで、どちらかというと棚ぼたのような感覚が強かった。
とりあえず、お金がもらえるならラッキー、そんな気持ちでいいところに住まわせてもらっていたのだが、どうやら引っ越してしまうと、支援が途切れてしまうということを私は引っ越しの直前に知り、困ってしまった。
といっても、それは別に私はいいところにどうしても住みたいんだ、というようなお嬢様めいたわがままなどではない。
問題はその引っ越しの理由の方にあったのである。
支援を受けているとはいえ、それは家賃の半分ほどしか占めておらず、残りの家賃とそれから食費や交通費、その他交際費等の雑費はみんな自分で稼がなければならなかった。
それで、大学に入ってからすぐ、私はバイトを始めた。都内近所の駅前にあるチェーンのカフェ。その故郷にもあるような、ごく普通のお店で、時給1000円というごく普通の給料をもらい、私はごく普通に働いていた。
それからも、ごく普通にお客さんと接し、ごく普通に先輩付き合いをし、ごく普通に友達を作り、ごく普通に遊んで、ごく普通に暮らしていた。
はずだった、と言った方が正しいかもしれない。私は普通に過ごしていたつもりだったけれど、それはまた別の誰かにとっては普通ではなかったのだ。
でも、別に私が悪いとかそういう話ではない。恥ずかしいのを承知で言えば、私はそれなりにいい女だったみたいだ。
私の普通は、少しズレていて、「彼」にはとても甘美に見えたらしい。早い話、私は優しすぎたということだ。
その男は、客だった。背の低い、小太りの、脂ぎった中年男性で、近づくと生乾きの臭いがするとして、従業員の間では有名だった。
なんでも、来るたびに片っ端から女の子に連絡先を渡すのである。流石の私も、それはキツいなと思っていたが、いざ、渡されてみるとなんだか拒むのも悪い気がして、ついつい受け取ってしまった。
そしたら、受け取ってくれたのは君が初めてだとか言って、妙になつかれてしまったのである。それから、毎日その男は私が出勤していないかを見にくるようになり、店でも大きな問題になっていた。
ある日、仕事も終わり、私が帰ろうとしていると、何やら視線を感じた。後で聞けば、振り返った先の自動販売機の陰に、男は隠れていたらしい。
そのときは気づかなくて、でもなんとなく気味が悪くて、私は逃げ帰るように小走りで家に帰った。これもいけなかった。あまり焦って帰ったから、かえって後ろをつけてくる男の気配に気がつかなかったのだ。
そして案の定、家がバレて、私は無事、家までストーカーされるようになってしまったというわけである。まったく困った話だ。
そのせいで、引っ越しせざるを得なくなってしまった。いくらセキュリティがしっかりしているからといって、家がバレてるってのは気持ち悪い。
何より、そのままでは出かけるのが普通に危ないので、私はついにあの良物件を手放すことになったというわけである。
貯蓄もろくにしてないものだから、当然新しい家は前よりもぐんと質が下がることになり、また急すぎたのでいい物件が空いているはずもなく、仕方なく私はこのボロ家を仮住まいとすることになった。
築70年。台所なし。風呂なし。トイレは共同。木造2階。部屋は4畳半。これで、1月25000円。
流石にキツいですって、不動産にも伝えたんだけど、「すみません、あとちょっとでいいとこが空きそうなんで、一旦ここでお願いできないっすかね?」と押し切られてしまった。
私は押しに弱いから、あっさり承諾しちゃったけど、それから電話しても一向に繋がらなくて、今では騙されたんじゃないかと後悔している。
まあ、仕方ない。とりあえず、今はここ以外に住めないんだ。そう割り切りながら、私は一刻も早く移れるように新しい部屋を探すことを決意した。
そして、最小限の荷物を持って身一つで引っ越したのが、今朝のことである。空っぽの部屋で荷物を整理していると、誰かが玄関をノックする音がした。
そうか、インターホンがないのか、不便だなと思い、「はーい、今行きます!」って声を張り上げて、かろうじて備わっているさびだらけのチェーンもかけず、私はドアを開けた。
開けて気づいた。あいつだったらやばいじゃんって。こういうところが、私はダメだなってつくづく思う。けれど、玄関先に立っていたのはあいつじゃなくて、うさんくさいセールスマンだった。
「あ、どうも、お久しぶりです〜」
「お久しぶりって、今日ここに越して来たんですけど」
「ああ、すみません!!癖でして、てっきり(笑)」
嘘が下手な人だ。どうせ、住民なんて覚えようともしてないだろう。
「まあ、別にいいですけど、何ですか?私、忙しいんですよね」
「ああ!お忙しいところすみません。せっかくですので、お話どうです?」
厚かましい。けれど、こんなんでもないとセールスなんてやってられないんだろう。そう思うと、かわいそうに思えてきて、話だけならと思い、私は聞くことにした。
「まあー、いいですけど、時間かかんないようにお願いしますね」
「ありがとうございます。では、改めまして、私、このようなものでございます」
差し出された名刺を受け取ると、そこには「来亜商事 営業 若狭義史」と書いてあった。
「ああ、ありがとうございます。えっと、らいあ、くるあ?、商事......」
「くるあ商事でございます。申し遅れました、私、わかさよしふみと申します」
「はあ」
「この度は、突然失礼いたしました。実はですね、こちらには毎月点検に伺っているんですよ」
「点検?」
なんだか、うさんくさい話だった。公的機関でもないのに、そんなにあるだろうか。
「はい〜。ずばり、申し上げますが、お宅、ついてませんね」
「ついてないって何がですか?」
「火災報知器です。知ってます?今、どこの家庭も火災報知器を設置しないといけないんですよ〜。これは法律でも決まってまして......」
スイッチが入ったのか、若狭のセールストークはそこから止まらず、そのまままくし立てるように危機感を煽ってきたが、私は別に家庭用の報知器は取り付け義務こそあれど罰則がないことを知っていたので、それほど動揺せず、話半分で聞き流していた。
「......というわけでして、今なら何とですね、この高性能火災報知器、たったの500円でございます。お買い得ですよ〜。今しかありません!後悔しないように、ぜひ!」
そんなもの買うはずない。普通なら。でも、私は買ってしまった。それは若狭のセールストークがうまいわけでも、ましてや商品に惹かれたわけでもなかった。
単純に、この炎天下汗だくで望みもないのに話し続ける営業マンに対して同情を抱いてしまったのである。そうなると、買わないわけにはいかない。私は、押しに弱いのだ。
ということで、今我が家にはロクに家具も揃っていないなか、火災報知器だけがポツンとある。まさか、まっ先に火災報知器を買うことになるなんて。
お金もないってのに、500円とはいえ変な出費をしてしまったものだ。どうにも、押しに弱いというのは面倒を呼び寄せてしまうらしい。
とりあえず、盗聴とかされていないか不安だが、いつの間にか夜もふけてしまった。今日はもう眠い。寝ることにしよう。
(*)
バチッ、パチッという音に目を覚ますと、やけに熱い。玄関の方をパッと見たら、なんと家が燃えている。
流石に夢だと思った。いくらなんでも、転居初日に家が燃えるなんて。でも、次第に汗が止まらないほど暑くなり、肌がひりひりしてきた。
これは、現実だ。私は飛び起きた。そして、ちょっと冷静になって、思い出した。
火災報知器鳴ってないじゃん!
安物だろうが盗聴器だろうが、いくらなんでもそれはないだろう。誤作動はまだしも、作動しないって、そんなもの火災報知器ですらない。
私は急いで報知器を確認しに行った。スプリンクラーでも作用してくれないかなと淡い期待をこめて。
そして、さっき取り付けたそれを外し、燃え盛る火をライトにまじまじと見てみると、そこには「火災放置器」と書いてあった。
私は思わずそれを火の中に投げつけた。火事とか、詐欺とか、もうどうでもいい。むしろ、このダジャレを面白いと思ってるというそのセンスに一番腹が立つ。
私はイライラしながら、開けっぱなしだった窓から飛び降りて外に出た。すると、人だかりができている。振り返ると、なるほど、火は結構大きい。
我ながらよく逃げ切れたなと感心していると、サイレンが鳴って、消防車と救急車が来た。今のところはピンピンしてるが、煙を多少吸ってるだろう。私は、救急車のもとに向かった。
そして、家の前に回り込んだその時だった。野次馬の一番端、白いタンクトップにベージュの麻の短パンを履いたおじいちゃんの、右隣にストーカーが立っている。
気がついたら身体が動いていた。1秒もかからなかったと思う。私はその男をボコボコにしていた。馬乗りになって、そりゃあもうボコボコに。
すると、まだ鳴っていなかったもう1つのサイレンが聞こえてきた。眩しいライトが私たちを照らす。思わず瞑ってしまった目を開けると、そこには警察がいた。
警察官はゆっくりと歩いてこっちに向かい、そして手錠をかけた。私は、連行された。
取調べ室で何とか誤解を解き、私は無事釈放されたが、その時聞いた話によると、ボコボコにしたストーカーは病院に運ばれた後、意識を取り戻し、罪を認めたらしい。
どうやら、最初は優しかったのにどんどん邪険に扱うようになった私を憎み、放火したという。しかし、どうして住所を知っていたんだろう。
......もしかして。
私の中に、嫌な想像が浮かんだ。私の今の、いや、今となっては一つ前の住所を知っているのは一人しかいない。不動産屋だ。
きっと、彼が教えたんだろう。そりゃ、電話もつながらないはずだ。そうだとしたら、早く警察に言わなければ。
警察署に戻ると、もう不動産屋は捕まっていた。やはり、推測はあっていたという。あーあ、無駄足だった。帰ろう。どこに帰ればいいか分からないけど。
とぼとぼと帰る場所を探していると、またも閃いてしまった。もしかして、犯人はまだいるんじゃ......?そう、若狭だ。あいつら3人は結託して、私を殺そうとしたに違いない。私はすぐに警察署に引き返した。
警察署には、すでに若狭がいた。しかも、普通に関係なかった。純粋に詐欺で捕まっていた。どうでもいいけど、名前も違うらしい。「若狭義史」は「わかさぎし」から思いついたんだと。上手くないし、若くもないし、本当にどうでもいい。
とにかく、災難続きだった。押しが弱いのも考えものである。これからは、もっと強い意志で「No!!」と言える人間にならないとな。
そう思いながら帰っていると、道端でキャッチのお姉さんに声をかけられた。
「オネエサン、カワイイネ。イッパツ、1500円ネ。ヤスイネ。ドウ?マッサージ、イコウ」
上目遣いの瞳がうるんでいる。この人も大変なんだろう。仕方ない。帰るところもないし、ついてってあげよう。私はうなずいて、お姉さんの手を握った。
その時、後ろから強く風が吹いて、私はよろけてしまった。態勢を立て直し、顔を上げると、季節外れのたんぽぽの綿毛がふわりと浮かんでいる気がした。
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