見出し画像

【エッセイ】幸福についての省察

幸福とは、他者からその生を十分に承認されていることだと思います。

幸福の反対は不幸で、じゃあ、最大の不幸って何かって考えると、それはやっぱり死です。

だとすれば、その裏返しで最大の幸福っていうのは、やっぱり生に行き着くのではないでしょうか。

けれど、人間、なかなか自分では生を承認できない。

どうしても僕らは人と人との関係の中に生きているので、他者を完全に排して一人で「自分は生きててもいいんだ」とは思えません。

すると、幸福にはどうしても、他の人の力が必要になるということになる。

他者から、「あなたは生きていてもいいんだよ」と認めてもらえることが、僕は幸福の定義の一つだと思うのです。

だけど、一口に承認といっても難しくて、求めると毒になります。承認は求めるんじゃなくて、気づくものじゃないでしょうか。探すものじゃなくて、見つけるもの。

承認って聞くと、褒めてもらうだったり、実力を認めてもらうだったり、それこそSNSで「いいね」をもらうだったりすると思うんですけど、実はそれだけじゃなくて、つまらないこと言っても笑ってくれるとか、無言で一緒にいてくれるとか、おならをしても無視してくれるだとか、そんなことでいいんだと思うんです。

「ただ、そこにいる」という何気無いことを受け入れてくれる、これはつまり、「あんたが何でもなくたって、生きてていいんだよ」っていうメッセージでもある。

こう考えると、最初に言った生の承認っていうのは決して積極的なものじゃなくて、寧ろ消極的な部分にこそあると言えます。

「私には生きる価値があるんだ」っていうことじゃなくて「とりあえず、まだ生きていてもいいんだ」っていう感覚こそが幸福で、それをはき違えて前者ばかり求めると、SNSでよく見る「承認中毒」みたいになっちゃう。

積極的な承認欲求は際限がないですから、一生満たされません。

それは不幸で、それに耐えられないと、どんどん気を引くための行為がエスカレートしていって、最終的には最大の不幸である死に近づいてしまうのかもしれない。

もしそうであるならば、やはり積極的な生の承認は危険で、僕らは消極的な生の承認を得るべきということになります。

つまり、何が言いたいのかというと、幸福ってのは何だか実現しなきゃいけないようなすごく遠くのもののように思えるけれど、意外に近くに転がっていて、そのことに気がついて自分の見方を変えることこそが、幸福の創出につながるんだということです。

人ってなんだかんだ「生きてるだけで丸儲け」なのであって、それに気づいて、身近な生の承認を見つけ出せるかどうかが、幸せの鍵になるのではないでしょうか。

少なくとも僕は日々、誰かからの消極的な生の承認を自覚するようにして、「あ、俺生きててもいいんだ」って思い直して、幸せを噛み締めています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?