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【ショートショート】境目探し

子どもの頃、私は県境の近くに住んでいました。

今考えると別段珍しいものでも、特別なものでも、何でもないのですが、まだ何も知らなかった無垢な私には、とてもおごそかな神聖なもののように思え、私はなるべく県境に近づかないように登校していました。

そんなある日、同じ組のQちゃんという女の子が(Qちゃんは良家のお嬢様で、容姿端麗、成績優秀の絵に描いたような才色兼備の女の子でした)、突然、「アキちゃん、境目探ししましょ」と誘ってきたのです。

私は面食らいました。「境目探し」。私は、ぼんやりとですが、Qちゃんは県境のことを言っているのだと思いました。だから、驚きました。

私たちの住んでいたところは、紛れもない田舎でありましたので、県境と言っても当然舗装などされていない手付かずのケモノ道で、腐りかけの白塗りの看板に赤字で「此処ガ県境ナリ」と書いてあることで辛うじて県境だということが分かるくらいでした。

それに、県境に行くまでの道は常に陰で、どんなに空が青く澄んでいて、どんなにお天道様が私たちを明るく照らしていても、ぬかるんでない日はありません。

私はQちゃんがその道を歩いているのを想像しました。そして、血の気の引く思いがしました。Qちゃんのその白光りするお召し物に、土汚れが付いたなら、どうなってしまうでしょう。きっと私の中の小さなそろばんでは勘定しきれないほど、多くのお金が損失せられるに違いありません。

私はQちゃんの誘いを断ろうと思いました。それだけでなく、しっかりとQちゃんを嗜めようと思いました。それが私の責任とまで感じていました。

「Qちゃん、県境はね、ダメよ。あすこは、行ってはいけません。今日は、まっすぐ帰りましょう。」

少し、強い口調だったように思います。Qちゃんの方を見ると、笑っていませんでした。かといって、怒ってもいませんでした。Qちゃんは眉をハの字にして、口をつぐみ、首を傾げて、ただ不思議そうにしていました。

「どうして?どうして行ってはいけないの?」

「あすこはね、少し遠いし、昼でもく暗いし、何より汚なくって、ちっともQちゃんに似つかわしくないわ。」

「そうかしら。だって、私、何度も行っているわ。お父様に、よく連れて行ってもらうのよ、私。それでも、そんなに、変かしら。」

冷や汗がつっと首筋を伝います。まさか、Qちゃんが県境に行ったことがあったとは。想像もつきませんでした。よっぽどご立派なお父上です。

いよいよ、私は困りました。実を言うと、Qちゃんのお召し物など、どうでもよかったのです。いくら汚れようが私の知ったことではありません。

仮に私が付き添い人だとして、Qちゃんのお召し物が汚れても、どうして私の責任になりましょう。私は子どもなのです。私は貧乏なのです。そんなことは、みんな知っています。どうして、そんな子に責任を背負わせるなどというむごいことができるでしょうか。

その上、Qちゃんのお父上は立派なのです。この程度、どうってことない。お召し物の一枚や二枚、痛くも痒くもないようです。私を責め立てることなんて、絶対にない。

私はそれを承知の上で、けれどもあえてそれを理由にして、Qちゃんのお誘いを断りました。本当の理由を隠したかったからです。

白状すると、私は県境が恐ろしかったのです。それは、あの薄暗く、じめじめとした、おどろおどろしい風景のことではありません。

うまく言い表せないのですが、県境に行った時に感じる、ゾッとするほどでも、ビクリとするほどでもない、あのさわり(としか言い表せません)とした奇妙に冷たい感覚が、いやに不気味なのです。

けれども、そのことを言い出して私はろくな目に遭ったためしがありませんでした。ご友人たちに話すとみんな私のことを「臆病だ」と嘲ますし、大人の方はみな腫れ物に触るように私から目を背けます。

だから、私は困りました。他に理由も思いつかず、私たちの間には無言の時が流れていきます。Qちゃんは不思議そうなまなざしで、私を見つめ動きません。

「そうなの。私、知らなかったわ。だったら、行きます。」

気づくと、勝手に口が観念していました。私は、弱い人間です。追い詰められると、いけません。張り詰めた時をほぐしたい一心で、考えもなしにすぐにその場を取り繕って、そして、後悔します。

「本当?嬉しい。私、嬉しいわ。アキちゃん、ありがとう。本当にありがとう。」

私が後悔に放心している間、Qちゃんは大いに喜んでいるようでした。あまりにも大げさなくらいに。その時の私には、Qちゃんがどうしてそんなに喜んでいるのかを想像する余裕さえなかったのでした。

(*)

Qちゃんは、それはそれは立派な装いで来ました。

まるで舞踏会にでも行くのかしら、とでも言いたくなるくらい、「晴れの日」のような格好でした。

今から、汚れに行くのです。私は子どもの頃から着古して穴だらけのもんぺです。それとも、この格好はQちゃんにとって、もんぺくらいのものだとでも言うのでしょうか。

Qちゃんは自分が高価な衣服をまとっているなんて意識もしていないような振る舞いです。長い裾は地面に擦っています。腕白に振り回している腕には、ひっつき虫がくっついています。軽快に踏んでいる足下には、泥がこれでもかと跳ねています。

それを見るだけで、私は卒倒しそうでした。一体、この着物を一日着るだけで、私たち家族は何日生きられるのかを考えると、何だか爛漫に歩き回るQちゃんが、憎たらしく思えてきさえしました。

「アキちゃん、ついたみたい。」

私が醜い嫉妬心に身を焦がしそうになっている間に、身体は存外早く駆動していました。顔を上げた先には、あの白看板が不気味に佇んでいました。

「ほんとね。さあ、帰りましょう。もう、暗くなっちゃうわ。暗くなったら、私、叱られちゃうの。早く、帰りましょう。」

正直言うと、生い茂る木の葉に遮られ、辺りは常に薄暗かったので、正確な時間は分かりませんでした。けれど、そうでも言わないと、Qちゃんは帰らないと思ったのです。

私のねらいは失敗しました。それどころか、私は一つ大きな勘違いをしていたのでした。Qちゃんは帰るはずがなかったのです。まだ、目的を達していないのですから。

はやる私に、Qちゃんは落ち着いて言いのけました。

「何を言っているの。これからじゃない。」

「これから?Qちゃんこそ何を言っているの?県境は見つかったじゃない。」

「県境?あっはは、おかしい。ちがうわ、アキちゃん。県境なんて、分かるのだから探す必要ないじゃない。」

Qちゃんの言うことは至極当然で、しかし、それ故に腹立たしいものでした。私にだって、それくらい分かっています。分かった上で、飲み込んだのです。Qちゃんの体面を保つために、私は自ら進んでピエロになってあげたのです。それを笑われてはたまったものじゃありません。

「ひどいわ。Qちゃん。だって、境目探しなんて言うんですもの。それは、誰だって県境だと思います。」

「ごめんなさい。馬鹿にしたつもりはなかったのよ。気を悪くしたのなら謝るわ。お詫びにちゃんと説明します。境目探しはね、儀式なのよ。」

「儀式?」

何か、嫌な予感がしました。そういえば、やけに寒い気がします。気温が、というより、何か底冷えするような、ひんやりとした、気のようなものが、漂っている感覚。私は、さわりとしました。

「ええ、儀式。といっても、もう、ほとんどおしまいよ。」

「おしまいって、でも、さっき、これからっていったじゃない。」

「ええ、確かにこれからよ。まだ儀式は残ってるんだから。私、何か間違ったこと言ってるかしら?」

そう言って、Qちゃんは笑います。今度は、しっかりと私を馬鹿にしたように、鼻で笑いました。Qちゃんは続けます。

「あら、何も言い返せないの?そうよね。私とアキちゃんじゃ、話が合うはずもないわ。貧乏で、器量も良くなくて、頭も悪くて、ふふっ、釣り合う訳ないじゃない。」

視界の中のQちゃんが小刻みに震えています。それが私自身の震えだと分からないほどに、私は怒りに満ちていました。

少し、期待したのです。私がQちゃんに話しかけられたのは、この日が初めてでした。当然です。Qちゃんの言う通り、家柄も、容姿も、成績も、何もかも違うのですから。

そんな私に、Qちゃんが話しかけてくれたのです。頭では分かっていました。それでも、私は少し期待したのです。もしかしたら、友達になれるかもしれない、と。

自惚れ。それもほんの些細な。強力な毒は、ほんの少しでも身体を蝕みます。私にとって、自惚れは最も凶悪な毒でした。

「うるさいわねっ!そんなこと、そんなこと言われないでも分かっていたわよ!何よ、着いてきてやったのに。ひどいわ。本当、ひどすぎるわ。」

涙がとめどなく溢れてきます。私の小さな目では抑えきれなくて、次から次へと涙は地面にこぼれていきました。

「あははっ、ほんといい気味!さっ、もういいわ。目障りだから、早く帰ってちょうだい。」

Qちゃんは、まだ震えています。

「分かったわよ!あんたなんて、もう二度と顔も見たくない。」

「ふふっ、叶うといいわね、その願い。ありがとう、アキちゃん。さようなら。」

Qちゃんは、まだ震えています。私は、勢いに任せて、別れを告げました。

「さようなら。」

その瞬間です。私の前に、突如として、大きな水の膜が現れました。よく見てみると、それは地面から天に向かって流れているようでした。

「これは何」

戸惑う私には一切反応を示さず、けれども、Qちゃんは私の方に向かってきます。

「Qちゃん、何が起こっているの!」

膜の向こう側にいるQちゃんに向かって、私は大声で叫びました。すると、Qちゃんはさっきとはまるで違う優しい笑顔で、こっちを見やり、叫びました。

「......キちゃ......りが......う......げん.....ね」

水の音で、よく聞こえません。Qちゃんはそう叫び終えると、天を仰ぎ、その美しい裾で顔を拭いました。Qちゃんは、まだ震えていました。

そうして、Qちゃんは膜の中に足を踏み入れました。地面から流れる水が、Qちゃんを包みます。次の瞬間、Qちゃんも水の膜も全て消え去り、残っているのはあの白看板だけでした。

(*)

次の日、学校に行くと、Qちゃんはいませんでした。先生が言うには、行方不明だそうです。

放課後、先生に呼び出され、私は事情を聞かれました。近くの席の子が、私とQちゃんとの会話を聞いていたようでした。

「アキさん、あなたは昨日どこで何をしていたのですか。Qさんをどこへやったのです。」

その声には、明らかな疑いが込められていました。当然です。最後に彼女を見たのは、何を隠そう私なのですから。先生は、何も間違っていません。

私がいけないのです。私が弱いから、いけないのです。私のせいなのです。

それからも、私は先生から詰められました。私は何度も先生に打ち明けようとしました。しかし、その度に、県境の話をした時のあの冷ややかな目線が頭をよぎるのでした。

とうとう私は、しらばっくれました。「Qちゃんはあの日待ち合わせ場所に来なかったから、そのまま家に帰りました」とその場しのぎの嘘をつきました。母は、私の帰りを覚えていませんでした。私の嘘は、本当になりました。

それから十数年のことです。私は大学で民俗学を研究していました。その日は、図書館でレポートの調べ物をしていたところでした。私は、民間伝承の項目に「境目探し」を見つけました。

その内容は、次のようなものでした。

昔々、あるところに、仲睦まじい親子がいた。子の幼い頃、母親は流行病に倒れ、それ以来父と子の二人でつつましく暮らしていた。しかし、ある日、父親も病にかかってしまう。親子には薬を買うだけのお金はなく、父親は命を落としてしまう。子どもは明くる日も明くる日も泣きくれ、遂にこの世に別れを告げた。「さようなら。」すると、地面から天に向かって滝が流れ出した。子は流れに乗って天高く舞い上がり、天国の父と再開したのだった。

私は、先生の話を思い出しました。

実は、Qちゃんにはあの時、すでにお父上はいなかったのでした。原因は、不明です。

そして、Qちゃんは失意の底にある中で図書館に篭りきりになっていたそうです。恐らく、その時Qちゃんは「境目探し」を知ったのだと思います。

「境目探し」、それは「生死の境目を探すこと」でした。Qちゃんは見事、生死の境目を探し出し、天国へと旅立ったのです。

しかし、ここで一つ疑問が残ります。どうして、私を連れて行ったのでしょうか。涙なら、Qちゃんが流せば、それでしまいだったはずです。

実は、この伝承には続きがあります。子どもは天界で勇敢に行動します。

父親と再開した子は、仏に感謝した。「仏様、本当にありがとうございます。」すると、仏は言った。「私はこれで力を使い果たしてしまった。お主をここへ呼んだのは他でもない。後を継いでほしいのだ。」そうして、子は仏となり、力尽きるまで、自分と同じく貧しさのせいで親と生き別れて涙を流す子を救済したのだった。

そうです。Qちゃんでは、ダメだったのです。「境目探し」には、貧しい子の涙が必要でした。

それで、納得がいきました。Qちゃんが、なぜ私を連れて行ったのか。なぜ突然私を罵倒したのか。

貧しい子が涙を流し、「さようなら」と別れを告げる。それが、「境目探し」の「儀式」でした。

そして、あの土地には今もまだ、私の涙が染み込んでいます。貧しい私の涙が。残る条件は、あと一つです。

しかし、これはあくまでも伝承です。そんなことは現実には起こり得ないことだと思います。

人の記憶ほど信頼のないものもなかなかありません。私のこの記憶も、捏造されたものかもしれない。

Qちゃんなんて人はもともといなくて、ただの私のイマジナリーフレンドだったのかもしれないですし、そもそも夢の話だったのかもしれません。

それもこれも、今は確かめようがないのです。私は今年で九十歳になります。当時を知るものは、もういません。

全て私の馬鹿げた妄想です。県境なんて、所詮珍しいものでも、特別なものでも、何でもないのです。ここまで根気よく読んでくださった方には申し訳が立ちませんが、これはそういう話なのです。

ただ、最後に一つだけお伝えすることがあります。

私の住んでいたあの村では、今でも一年に一人ほど神隠しに遭うようです。

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