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【ショートショート】人生、皆青春なり

人はいつまでも学生気分なものである。どんなに老いぼれようと、決してそれからは抜けられぬ。自分が学生気分から社会人気分に移行したというのは、甚だ勘違いである。

例えば、説教。人は説教をしたい生き物である。

よく、自分は本当はこんなことを言いたくないんだけど、などと甘ったれた枕言葉を抜かす者がいるが、とんだ嘘つきだ。本当に言いたくないことは、どんなに窮地に立たされようとも言わない。どんな社会的圧力があろうとも、口を滑らせたのであればそれは結局、どこかでそれを言いたい、誰かに教えたいという気持ちがあったに違いないのだ。

理由は様々であろう。面白いネタだったとか、自分には重すぎて耐えられなかったとか。それでも、言ったという結果には、必ず欲が滲み出て、おぞましいまでにその存在を主張している。

見え透いた嘘である。本当は言いたくないなど、そんなはずないではないか。

人は言いたいからものを言うのだ。裏を返せば、言ってしまったものは言いたかったことに他ならない。胸のどこかで、言えたらなあ、と拝んでいたことである。

説教など、どうしようもなくしたいからするのである。説教をしたくないなど、そんな汚いご自愛はおやめいただく。とにかく、人は説教をしたい。そういうものである。

また、同じく、人は説教をされたい者である。何を馬鹿な、と思われるかも分からぬが、しかし、事実である。それは怠惰と酔狂とに起因する欲であるが、詳しくは後述する。

閑話休題。

説教こそ学生気分の現れである。大抵、説教をするようなやつは繁忙期に現れる。忙しくて、上手くいかなくて、気が立って、そして説教をする。効率が悪いなど、やる気がないだの、もっともらしい理由をでっちあげて、しめたという顔をして説教を始める。もはや一服に他ならない。

なるほど重々しい神妙な顔もちを保ってはいるが、目の奥がほくそえんでいる。説教といえば、仕事をしなくても人は責めないのである。

人は、弱い。相手に降りかかる火の粉を自らの手で払いのける者などいない。

故に、説教はある結界として働き、独自の怒りの世界を作り上げる。説教は、免罪符なのである。説教をしている時、その人は無敵である。

しかし、その閉じた世界には、教示を受ける者が欠かせない。彼が甘んじて説教を受けることで初めて、説教は独立し、説得力を持つ。世界は完成する。他者の介入を許さない、二人だけの閉鎖空間がそこに生まれる。

そこで、説教される者は二つのベネフィットを教授する。成長と必要である。

どういうわけか、説教は人を成長させるために必要なものだという神話はこの二十一世紀においても信じられているようだ。まるで、何か露呈してはまずいものがあるみたいな美談である。

あまりに美しい物は、誓って偽物である。イデア。本物は目の前には存在しない。裏を見なければならない。つまるところ、この美談も免罪符に過ぎないのである。

何か、仕事をしないでいい理由として、ランダムに選ばれた手段の一つでしかないのである。別に、何でもよかった。病気でも、急用でも、なんなら本当の意味での一服でも、仕事を休めれば十分だった。説教は、あくまで無数にある方法の中から無作為に選びとられた一手段でしかないのである。

そのことを説教必要論という美談が巧妙に隠しており、実際に説教は社会的に正常に働くことに成功している。故に、説教をされている時、その人は無敵になる。

その外界と隔絶された怒りの空間では、時を踏みしめるように言葉がのろのろ渡り合う。まるで我こそが誠実だというふうにして、しかめつらの言葉がさぐりさぐり交わされていく。

ここでは、沈黙も無駄ではない。寧ろ、だらだらと時を過ごすことこそ正義である。それが結界を維持する唯一の方法なのである。

二人はあたかも精神を擦っているように、にらみ合って対峙している。もっともらしいことを言っているようで、その中身はあまりに普通である。

あまりに鬼気迫る様子で、てっきり何かとんでもなく逼迫した、重要なことを言っている気がする。しかし、その言葉はあまりに薄っぺらく、常識を今更確認し合っているだけなのである。

なんと姑息な演技であろうか。見抜いていないとでも思ったか。成長だ、これも必要なことなのだ、ええ、将来のために、今、必要です、などと思い上がって、閉じた空間で感傷に浸るセンチメンタリストたちめ。

大人ぶっては、気取っては、いけない。その外では、冷ややかにヒーロー気取りの君たちを眺めた観客がぽっかり口を開けて待っている。ああ、青春だなあ、と。

いいか、お前らのやっていることは、儀式だ。まるで、文化祭の一幕だ。幼い、薄っぺらい、形骸化したお芝居だ。

そうやって、ずっとシリアスにしていればいい。普通のことをもっともらしく語るが良い。さぞ、気持ちが良いだろう。

自分たちは高尚な議論をしているつもりだろうが、それは決して誤りである。議論であれば、必ず、他者の参画を免れまい!

外を拒絶し、結界の中で昂ぶっているだけのお前らのような内弁慶がいくらもったいぶっていたって、所詮それは、文化祭の劇の練習を最後の1週間毎朝しようなどといきりたった女子と、斜に構えることが最も美しいと信じ切って機械的に反抗する男子の喧嘩と何も変わらないんだ。朝練など、やった方がいい決まっているではないか!

女子は悲劇のヒロインみたいに、男子の冷めた(風に見せかけた)態度が気にくわないから改めるように、と説教する。そして、男子は変な意地を張って、そんなの意味ねえよ、と反抗してみる。女子はお得意の涙を使って、男子を糾弾する。

男は女の涙に弱い。本当かは知らないが、元来そうと決まっているのである。男子は胸を打たれたように(見せかけて)、女子に謝罪し、けろりとやる気を出し始め、クラスは一致団結し(たように振舞っ)て、劇の成功を祈る。時は、高校三年生の秋、ホームルームの時限のこと。

......とんだ茶番である。

だが、それでいい。それでいいじゃないか。これが、これこそが、青春である。衝突するという儀が大事なのだ。内容なんてどうでもいい。寧ろ、中身などあってはならない。

大事なのは、結果である。その分かりきった結果に、劇的に、壮大に、ドラマチックに、たどり着けばそれでいい。演技でもなんでもいいじゃないか。その儀式こそ必要なのだ。その儀式こそ青春なのだ。

大人ぶった気障な大人たちよ。認めるが良い。所詮、お前らはまだ学生気分なのだ。何をいかめしい面で、権威をかさにきている。

もっともらしい言葉でもったいぶるんじゃない。もっともらしいものはもっともではないのである。見せかけ。ただのハリボテだ。そんなものを、本物に見せようとしてはいけない。

皆、もう、分かっているんだ。見抜いているんだ。皆、そうやって逃げたいのさ。波立った大海原に夢を見ているんだ。皆、物語に憧れている。楽しい自己陶酔に溺れたいのである。

過去の、あの、宝物のように見える時にすがり、また、あの胸が締め付けられるような甘美な感興を求めて、勉強から逃げたあの日と同じように現実逃避をしているのである。ただ、それだけだ。

逃げるなとは言わぬ。演じるなとも言わぬ。ただ、気取るな。結局、いつまでも学生気分なのだ。ずっと自ら作り上げた物語めいたものに自己陶酔しているだけなのだ。

それを認めることである。そして、その浅ましさを恥じながらも、続けることである。それでいい。それでいい。

人生、皆青春なり!

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