目が光る(15)

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「ハァ......ハァ......」

ようやく修行場の前に着いた彼は、膝に手を置いて休んでいた。少し走っただけなのに、息が上がってしまう。

こんなに体力がなかっただろうか。確かに、最近運動不足だったかもしれない。思えば、ベルトの上に乗る下腹が学生の頃より多い気がする。

「運動......しないとな......」

乱れた息を整え、彼は扉を開いた。修行場の奥の時計を見ると、七時五十九分。ちょうど、修行の始まる時間だった。

しかし、彼は間に合ったことに安堵することはできなかった。というのも、修行場には誰一人いなかったのである。

茫然としていると、長針がカチッと動き、八時になった。けれど、誰かが来る気配はない。

仕方なく、彼は待つことにした。だだっ広い講堂の真ん中に一人座禅を組むと、なんだか心細い気がする。

彼は目をつむりたい気持ちになった。できるだけ、余計な思考を排除したかったのである。

彼は少年の頃のあの日を思い出していた。それは秋の風がもう少しで冷たくなろうという十月の末のことだった。

その日は学校の球技大会で、彼は朝早く家を出た。前日の帰りのホームルームでクラスの中心である盛山が呼びかけたのだ。

「明日、みんなで朝練やろう!やるからには後悔しないようにしようぜ!絶対一位とるぞ!」

これにヤツの取り巻きたちはこぞって賛同した。しかし、正直彼は気が乗らなかった。

こいつらはそりゃ少しくらい時間が早まったっていいだろう。学校は都市部にあって、ほとんどの生徒がその都市部出身であり、家は近い。

だが、彼は違った。都市から遠く離れた田舎に住んでいた彼は、毎朝学校までゆうに二時間はかけて通っていたのである。

通常の登校時間である八時半に間に合うためには、遅くても六時半前には家を出なければならず、そうなると五時半には目覚めなければいけなかった。

ただでさえ、毎朝苦しみながらそれだけの早起きをしているのに、単なる精神論で勝手に起床時間を早められたならたまったもんじゃない。

大体、毎朝練習してきたならまだしも、それまで一度も朝練どころか昼練すらしてこなかったというのに、一部のやつらの気まぐれで、当日の朝だけやったところで何の意味があるんだ。所詮、自分たちが中心だとか勘違いしている、ヤツらの心を満たすためだけの自己満じゃないか。

彼は憤っていた。しかし、当時の彼にはそれを言って流れを変えるほどの力はなかった。そして、臆病な彼が何もできないままでいるうちに、流れは最悪な方に傾いていった。

ヤツは女子からも人気だったのである。特に、女子テニス部の部長で、学年でも屈指の美人である東が盛山と非常に仲が良く、男子は盛山、女子は東を頂点としたカーストが暗黙のうちに存在していた。そして、盛山に続き、東が言った。

「もちろんみんな来るよね!私、楽しみになってきちゃった!明日絶対優勝しようね!」

当然、女子たちは従わざるを得なかった。それだけではない。他の男子たちも、逆らえなかった。東にではない。本能にだ。

それまで斜に構えていたような連中も、みんないい格好を見せようと、媚びるように賛同し始めた。実のところ、盛山との関係を見せつけられてほとんど諦めてはいたものの、クラスの男子の八割は東のことをどこかで好きだったのである。

そうして、クラス中にあのむわっとした、学校行事特有の生温い、作り物めいた「一体感」という名の馴れ合いの空気が広がり、彼はいよいよ逃げ出せなくなった。

きたる当日、彼は約束通り、普段よりも一時間早い七時半に教室に着いた。それでも彼は教室の扉を開くまで気が気でなかった。

あの濃厚な馴れ合いの空気にあてられ、自ら作り上げた甘美な物語に酔いしれた連中は、こういう時、普段はかざさないような正義を平気で振り回してくるのである。

もしかしたら、「やる気」だの「熱意」だのそんな言ったもんがちの精神論で、「いてもたってもいられないからきちゃった」とか「こういう時はフツー早くくるもんっしょ」とか言って学校が開く前なんかにとっくに着いてるかもしれない。

それだけならいいけれど、最悪「逆に早く来ないやつまじあり得ねえ」とか「やる気ないやつはほっとこうぜ」とか、連中の都合で勝手に早くきただけのやつらが、あたかも予定通りの時間に来るやつの性根が悪いみたいな雰囲気を作り出して、自らの優位性をふるっていたら。

そう考えると、恐ろしくてならなかった。けれど、彼には七時半が限界だった。そして、彼は祈るように扉を開いた。

教室には、誰もいなかった。

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