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02.坤為地(こんいち)【易経六十四卦】

坤為地(地の包容性・臣下の道/母なる大地)


obedience:服従/receptive:受容・無事・誠実・生命・大地・安定受動

野心を抱かず、消極的に事に当たるべし。身辺難事多き時期なり。 目的控えめにすべし、されば達成されん。 良き助言者を得ることが肝要。物欲に走るべからず。

柔よく剛を制す道

地(坤)の働きは、万物を生み出し養い育てることにありますが、その力は地(坤)自体に存在するのではなく、天(乾)のエネルギーを受けて初めて万物を生み出し、養い育てることが可能となるのです。「坤」の卦は大地を象徴しています。大地は静かに存在しながらも、豊かな力を内に秘め、あらゆるものを生み育てる力を持っています。この卦はすべて陰爻で構成されており、「乾」の剛強、積極、男性的な性質に対し、柔弱、消極、女性的な性質を意味しています。もちろん、柔弱であることが剛強よりも劣っているわけではありません。天のエネルギーも地に受け止められてこそ発現するのです。男性の精気も女性を得て初めて新しい生命を生み出すことができます。陰陽は対立しつつも統一されているものです。この卦は、消極を守ることで積極を凌ぎ、遅れることで先んじ、柔軟さで剛強を制する道を示しています。

運勢から見れば最低の状態に見えるが、実際はそうでもなく案外平穏無事に見えることが多い。しかし、反面うだつの上がらぬことが多く、心は迷い勝ちで物事が優柔不断である。これから上向くか下向くかはその人の意志と努力次第で、ともすれば暖簾に腕押しのようなことになるから充分注意が肝要。 何事も控えめにして、人に従って自分が先立たないようにすること。現状維持を考えて深追いしたりしないことが大切。辛抱と忍耐。虚勢を張ったり不遜な態度をしたりして人に不快な思いをさせたりすることのないよう常に従順であるよう心掛けること。 運勢が弱いときには無理をせず流れが変わった時に進むことにしよう。

[嶋謙州]

乾の卦は各爻すべて陽であるのに対して、坤の卦はすべて陰である。 これを要約する言葉は『厚徳戴物こうとくさいぶつ~徳を厚くし、物を戴す~ これは乾の徳、すなわち天地創造のエネルギー、力を受けて万物を生成しこれを包容すること。これが坤の特徴であり、本当の意味である。乾坤二つの卦で、天地万物の生成化育の実体と原則、本質が要約されている。

[安岡正篤]

坤。元亨。利牝馬之貞。君子有攸往。先迷後得主。利。西南得朋。東北喪朋。安貞吉。

坤は、元いに亨る。牝馬の貞に利あり。君子往くところあり。先んずれば迷い、後るれば主を得。西南には朋を得、東北には朋を喪うに利あり。貞に安んずれば吉なり。0413


ものごとはおおむね順調に進みます。しかし、牝馬のように静かで健全な生き方を続けることによってのみ、利益を得ることができます。君子(占う人)がどこかへ出かけようとする際に、人の先頭に立とうとすれば迷いが生じますが、人の後に従うようにすれば、しっかりとした指導者を得て、成功するでしょう。西南の方角へ向かえば友人を得られますが、逆に東北の方角へ向かうと仲間を失う可能性があります。
総じて、正しい道を守り、穏やかで正しい行いをしていれば、吉となります。陰陽の徳を象徴する生き物として、陽には天を翔る龍がおり、陰には地を歩く牝馬があります。「貞に利あり」とは、牝馬が従順の象徴であることを意味し、信頼とは従うべき時にはしっかりと従うことが重要であるということです。

「元亨利、牝馬の貞」元は物事が始まる。亨は元で始まった物事がだんだんに成長して盛んになる。利は成長して盛んになった物事が引きしまって各々そのよろしきところ、その便利とするところを得るのである。こちらから他に働きかけることなく、向こうの働きかけて来るのに従順に従い、そして正しくかつ固いのである。絶対他力本願が坤の卦の徳である。 「君子有攸往。先迷。後得主」君子たるものがどこへか行こうとするときに、自分が先に立って行くときは、道に迷うて、とんでもないところへ行くことになる。人に後れて人のあとについて行くときは、主人とするところのものすなわち先達を得て、道に迷うことがなく、無事に目的地に達せられるのである。 「利西南得朋。東北喪朋。」西南におるときは自分の同類の仲間を得、後に東北にゆくときは自分の同類の仲間を失ってしまうがよろしい。若い時には、自分のおるところの陰の位置すなわち西南にあって、自分の同類の仲間の人たちと一緒になって、勉強修養するがよろしい。そうして、後に学問修養が成就して東北の方すなわち艮の山の高いところに登り、すなわちあるいは朝廷に仕えるなり、なんらかの高い位地に登ったときは、以前の自分の仲間を忘れて、公平に賢人を賢人とし、尊敬すべき人を尊敬し、用いるべき人を用いるようにしなければならぬのであり、そうするがよろしい。学閥をつくったり、党閥をつくったり、藩閥をつくったりせず、至極公平でなければならぬ。 「安貞吉。」貞すなわち正しくしてかつ固き徳におちついて動かず、正しい道を堅く操り守るときは吉である。

[安岡正篤]

おとなしい牝馬 形を見ると、全部が陰になっているでしょう。陰は女性の象徴です。牝馬のようにおとなしく自分の道を守っていれば、まもなく道が開けるのです。こういうときは、万事控えめに先を争わないほうがいいのです。満員のバスを一台見送れば、次にはすいたバスがやってくるということになるのです。この卦は、前の卦が男性の壮年期をあらわすのと反対に、典型的に女性の従順さをあらわします。 女性というものは、その外見はともあれ、心底では自分が従順につかえる男性を求めているのです。慈悲深い心豊かな父親を愛し、信頼できる夫を求め、力強いたくましい息子に希望を託しているのです。この卦は女性の従順になりたいという無意識の欲求を表します。 だからすべて、年長者の意見にしたがい、その教えを守ることが大事です。人に使われたり、命令を受けて行動する方がよいのです。結婚はお互いに見通しがつかず、迷いの多いときです。どちらもなよなよと積極性を欠いているからです。まず年長者に意見を聞くといいでしょう。 あなたが男性ならば、まじめですが、内向的で少し頼りにならないところがあります。女性ホルモンが多すぎるのです。あなたが女性ならば、やさしい世話女房で、子供にいい母親になれるのです。

[黄小娥/易入門]

この卦は前の「乾為天」とは反対に、六爻のすべてが陰からなり立っている。 ということは、万事受け身の立場に立っていることを表すものなのだが、それが決して悪いわけではない。 天上の太陽から熱と光を受け、万物を育むものが大地である。というのは、人間が最初に考えつく思想なのだ。聖書の天地創造の部分もその思想形式としては全く同じである。 牝馬の貞というのは従順の徳を説いていると見ればよい。女の心得、母の心得というようなものなのだ。 従順を何よりも尊ぶために、この卦を得た場合に、何よりも忌むのは「われ先に」という考え方である。女房役、番頭役という境遇に安んじて、自分の立場を守り、下手な謀叛気を起こさないという心掛けが大事である。

[高木彬光/易の効用]

彖伝

彖曰、至哉坤元、萬物資生。乃順承天。坤厚載物、徳合无疆、含弘光大、品物咸亨。牝馬地類、行地无疆。柔順利貞、君子攸行。先迷失道、後順得常。西南得朋、乃與類行。東北喪朋、乃終有慶。安貞之吉、應地无疆。
彖に曰く、至れるかな坤元こんげん、万物りて生ず。乃ち天に順承じゅんしょうす。坤厚くして物を載す、徳无疆むきょうに合う。含弘光大がんこうこうだいにして、品物ひんぶつことごとく亨る。牝馬は地の類、地を行くこと无疆むきょうなり。柔順利貞、君子の行うところなり。先んずれば迷いて道を失い、後るればしたがって常を。西南にともを得、すなわち類と行くなり。東北に朋を喪う、乃ち終に慶びあるなり。安貞あんていの吉は、地の无疆むきょうなるに応ず。0104 0226 0303


乾の彖伝には、「大いなるかな乾元、万物資りて始む」とあります。「至る」という語感は「大」に比べてやや狭い意味合いを持ちます。地道の始めとしての坤元は、なんと優れたものでしょう。万物はこれを基にして生まれました。この優れた坤(地)は、天に従い、天を受け入れます。これによって坤は万物の母となるのです。乾には「始」があり、坤には「生」があります。「始」は気の始まりを指し、「生」は形の始まりを意味します。

坤の徳は厚く、万物をその上に乗せています。坤の徳は、限りない(无疆)乾の徳と調和しています。包容力(含)、広さ(弘)、輝かしさ(光)、そして厚さ(大)を備えており、乾とともに、あらゆる種類の物を生長させるのです。坤は地を象徴し、陰陽の中では陰を表します。无疆の无は無、疆は境界の古字で、境界のないことを示します。大地は陰の象徴であり、すべてを无疆として受け入れ、育成し、蓄えます。生命や物質は、一つひとつ丁寧に形作られ、豊かに発展していきます。陰の力は限りなく広大であり、どんなものでも受け入れ、生かし、育てる力を持っています。

通常、馬は乾の象徴とされますが、牝馬は牝であるため陰に属します。また、馬は地を行くという点で、牝馬は地の同類といえます。牝馬は柔順ですが、地上を行くことは限りありません。つまり、健でもあるのです。健は乾の性質であるが、坤にも健の性質が含まれます。これは乾の働きに協調するためです。牝馬に代表される柔順利貞の徳こそが坤の徳であり、人が行うべきところです。

陽が唱え陰が和するのが物の道理であり、陰の道を失うと迷います。陰が後から和するのが順序であり、常道を得ているのです。
陰の方角である西南に行けば友を得ます。これは同類に従って行くからです。陽の方角である東北に行けば友を失います。陽は大であり、陰は小です。陽は陰を包摂できますが、陰は陽を包摂できません。そのため異類の方角に行けば孤立します。そこでまた西南に引き返すことで、最後には吉事が訪れるのです。安らかで正しい態度が吉を招くのは、そうした態度が無限の地の徳にかなっているからです。

彖伝によると、坤の元の徳は至極のところに到達しておる。万物は皆坤の元の徳によって始めて形を生ずる。それは坤が極めて従順にして天の徳をすらすらと十分に承け入れることによって、この偉大なる力ができるのである。坤すなわち地の徳は極めて厚くしてあらゆる物を皆その上に載せておる。その徳の広大なることは、乾すなわち天の限りなき盛大なる徳と一体になっておる。そうして坤はあらゆる物を包容し、包容することが極めて広く、その徳は光り輝き、その光は広大にして、至らぬ隈もないのであり、これによって、いろいろさまざまの物が皆各々十分に伸びて盛んに成長するのである。坤の卦の徳は、万物をして各々その利を得しめ、そうして牝馬の貞、従順にして正しく堅き道に安んぜしめるのである。坤の道を学ぶところの君子はこれに則りて、従順にして利しくかつ正しき道を行うのである。坤の君子が人に先立って事を行うときは、必ず迷うて自分の道を失うことになり、すなわち坤の道を失うことになるのであって、後にはどうしたらよいかがわからなくなり、途方にくれるのである。坤が乾に後れ、乾に従って事を行うときは、従順であって、坤の常の道を得るのである。坤の道を体得したる君子が、西南の朋を得、自分が本来あるところの位地におるときは、自分の仲間を得ておるのは、これは自分の仲間とともに事を行うのであり、これはよろし。けれども、東北に朋を喪い、一旦、自分の従来の位地を離れて、東北の陽の卦のおるところに行ったならば、昔の自分の仲間を忘れるのは、初めには寂しいように感じるかも知れぬけれども、ついに大なる喜ぶべきことがあるのである。正しくして堅固なる徳におちついて安住しておるところの吉は広大なるものであり、その吉の広大なることは、地が限りなく広大なるに相応するほどである。

[安岡正篤]

大象伝

象曰。地勢坤。君子以厚徳戴物。
象に曰く、地勢は坤なり。君子以って厚徳もて物を戴す。

大地の態勢はすなおであって厚い(坤は順と音が近い)。至高の徳ある人はこの卦に法とって、その厚い徳により、あらゆるものを受け入れる。

象伝によると、地の形勢は、坤の卦の象である。地の形勢は、地の上に地があり、その上にまた地があり、幾重にも重なって、極めて厚いのであり、天下のあらゆる万物を載せている。君子は、この地の勢を見、坤の徳を学んで、道徳を厚くし、手厚いが上にも手厚くして、万物を載せ、万民を包容するのである。

[安岡正篤]

小象伝

初爻の爻辞とそれを解釈する象伝(いわゆる小象)乾卦では大象少象をひとまとめにしていましたが、坤卦以下では各爻に小象を割り付けています。

初六。履霜。堅冰至。 象曰、履霜堅冰、陰始凝也。馴致其道、至堅氷也。 

初六しょりくは、しもんで堅氷けんぴょう至る。 象に曰く、初六の霜を履むは、いん始めて凝るなり。その道を馴致じゅんちして、堅氷に至るなり。1123

霜を踏むようになって、だんだんと寒くなり、堅い氷がやってくるであろう。 陰気が初めて凝った段階である。陰の動きをそのままに放置して馴れ馴れしくさせて、堅い氷にまでなる。
陰が始めて凝って霜となって目に見えるようになった。その道をだんだんに進んで行くといは、終いには陰のきわめて盛んなる堅い氷に至るのである。早く警戒しなければならぬ。
早朝の晩秋、庭に出ると霜が降りていることがあります。微かな霜が時間が経つにつれて厚い氷になり、身動きがとれなくなることがあります。この状態を「霜を履む」と表現し、悪い習慣に慣れ親しむことの危険性を説いています。 例えば、企業不祥事などの犯罪は、たいてい「霜を履む」ことから始まります。最初はいけないことだとわかっていても、些細なことなので「この程度なら問題ないだろう」と思い込んでしまいがちです。このような積み重ねが善悪の感覚を麻痺させ、悪習が慣習化していくと徐々にその悪習が悪化し、大きな問題に発展することになります。 恐ろしいことに、最初はいけないことだと認識していても、時間が経つにつれて、その認識が薄れ、悪いことを正当化してしまうことがあるのです。ですから、最初の霜の段階で対策を講じる必要があるのです。これは企業倫理や教育など、人生全般に通用する教訓です。 「桐一葉落ちて天下の秋を知る」と言いかえてもいいような言葉だろう。 冬の寒さは、人生ならば、一つの逆境とたとえてもいい。霜を見たなら、厳冬と思えということは、現在、きざし始めた凶兆をよく反省しなければ、たちまち、大変な災難がやってくると解釈していいだろう。人生における赤信号なのである。

[高木彬光/易の効用]

六爻を人体に当てはめると、初爻は足に相当し、そのため彖辞に「履む」という言葉が含まれています。霜は陰の気が凝り固まったものを表します。本来、坤の卦は陰を象徴していますが、初爻は卦の始まりであり、その力はまだ弱いため、消えやすい霜に喩えられます。しかし、その霜も時が経つと、あるいは陰の気が増していくと、最終的には堅い氷(氷は本来、乾を象徴します)になるのです。
たとえば、臣下が君主を殺したり、子が父親を殺したりといった大逆無道な行為は、一時の出来心や偶然の成り行きで起こるものではありません。必ずそこには原因があり、それが徐々に積み重なった結果として起こるのです。
陰邪姦悪の芽生えは極めて微弱であり、その初期段階で注意深く摘み取れば、簡単に消すことができます。それは、霜を消すように容易いことです。
しかし、それを見過ごし、改めることなく放置すれば、最終的には堅い氷のような固まりとなり、どうにもならなくなります。だからこそ、事の始まりにおいて、来るべき結果を予見し、慎重に対処することが重要であると易は教えています。


六二。直方大。不習无不利。 象曰、六二之動、直以方也。不習无不利、地道光也。

六二は、直方大とくほうだいなり。習わざれども利あらざるなし。 象に曰く、六二の動は、直にして方なり。習わざれども利あらざるなきは、地道おおいなればなり。0728


乾為天では、陽の徳が最も高く健やかな五爻がその成卦主爻でしたが、坤為地においては二爻が成卦主爻となります。これは、この二爻が全陰の卦である坤為地において陰の位に位置し、中正の徳を得ており、最も陰の道に適しているからです。成卦の主爻とは、その卦が成り立つ要因を示し、その卦全体の性質を代表する爻のことを指します。「直」は素直さ、「方」は正しさ、四角四面の意、「大」は大きさを意味します。つまり、直方大は坤の徳、意、象を表しています。この爻は、特別な訓練や習慣づけを必要とせず、臣の道や妻の道に完璧に適合している爻なのです。

「乾」の元気を充分に受け入れ、自己の意志を加えることなく、乾の元気に従い真っ直ぐに進みます。乾の元気が東西南北に広がると共に、坤の爻は真っ直ぐに進み、四角形を形成します。これにより、「方」の徳が生まれます。乾の爻の元気は、限りなく大きな徳を持ちます。坤の卦の大の徳は、乾の卦の大の徳に順って、そのまま進むことで生まれるのです。直と方と大の三つの徳を備えているため、特別な学問や訓練をしなくても、いかなる状況においても成功を収めることができるのです。

「直方大」の徳は、大地が天から受け取った恵みを真っ直ぐに受け止めて育む力を象徴しています。人間もまた、教えられたことや受け取ったものを素直に受け止め、自分自身や周囲の人々のために実践することが重要だとされています。そのような人は、知識や教えを受け取るだけでなく、自らの成長や周囲の繁栄に繋がる多くの恩恵を受けることができるでしょう。

これは、自分の現在の立場が、決して主役でないことを認識した人間が、脇役の立場に甘んじて、その本来の性質才能を十分に発揮している段階だといってよいだろう。女としては、一つの理想の姿ともいえるのである。

[高木彬光/易の効用]

六三。含章可貞。或從王事。无成有終。 象曰、含章可貞、以時発也。或従王事、知光大也。

六三は、あやを含みて貞にすべし。あるいは王事に従う。成すことなくして終わること有り。 象に曰く、章を含む、貞にすべし、時を以て発するなり。或いは王事に従う、知光大なり。1126


『章』は卓越した輝きを象徴し、その意味は才能や才覚に通じます。六が陰爻であり、三が陽位(奇数位)であることは、人に従属すべき存在が積極的な能力を持っていることを示唆します。この場合、内にその美徳を秘め、忠実な臣下としての道を堅持すべきです。しかし、三という位置は下卦の頂点にあり、能力を永遠に秘匿することは困難です。
時にその才能を発揮し、王者の命令に従って職務を遂行することが求められることもあります。自らの功績を誇示せず、指示に従い職務を全うすることができるのは、その人の知恵が深遠だからです。
この爻を得たならば、その徳を秘め、最終的には良い結果を迎えることを教訓とします。

『章』はまばゆい光を放つものであり、これが示すのは才能や知恵の豊かさです。この言葉は、臣下や部下にとっての心得となり、自らの卓越した能力(明徳)を誇示せず、与えられた任務に誠実に従う姿勢を教えています。才知に富む部下たちは、必要に応じてその能力を発揮しつつも控えめであり、自己の功績が認められなくとも不満を漏らさず、黙々と職務に励むのです。

王事に従うということは、本来内部にあるべき人間が、外部に出て働かなければならないようなこを指す。その場合、章とは自分の才能と解釈していいだろう。能ある鷹は爪をかくす。というたとえのように、出来るだけ、控えめ控えめに身を持し、自分の手柄を求めるなというのである。たとえ、自分が犠牲になっても、全体の事業がうまく成立すれば、それで満足すべしという教えである。

[高木彬光/易の効用]

六四。括嚢。无咎。无譽。 象曰、括嚢、无咎、愼不害也。

六四は、ふくろくくる。とがもなく、ほまれれもなし。 象に曰く、嚢を括る、咎なし、慎めば害あらざるなり。1212


坤にはもともと「嚢」や「布」という意味があり、中程にある三爻と、この四爻は、袋の中身に喩えられています。『大賢は愚なるがごとし』という言葉のように、嚢の口をくくることで才能の中身を隠し、咎もなく誉れもない状態を保つのです。過ちを犯すことはない一方で、特別に褒められることもありません。しかし、この四爻は君位である五爻の近くに位置するため、特に慎重さが求められます。易も慎むことの重要性を説いています。

「嚢を括る」とは、袋の口を固く結び閉じることを意味し、自らの才能を外に示さず、余計な発言を控えることです。これにより名誉や認知は得られないものの、重大な咎めを受けることもありません。このような姿勢を保つことで、人間関係や組織内での調和を維持し、トラブルを避けることができます。「嚢を括る」ことは、身を守る手段であると同時に、より高いレベルで活躍するための準備期間でもあります。

財布の紐を固く締めて、積極的な態度をとるな……という段階なのだ。 たとえば株式ブーム時代に、この卦を得たとする。人がどれだけ儲けたという話を、しょっちゅう聞かされると、自分も……と思い立つのは人情だが、こんな卦を得たら目をつぶって、絶対手を出さないことである。 儲けられないかわりに、暴落相場にぶつかって、青くなることもない。資本をがっちり温存しておけば、間もなく絶好の買い場も出てくるだろう。 これは株だけではなく、たとえば縁談でも同じである。あせらず一人見送れば、間もなくほかにずっとすぐれた相手があらわれるだろう。 このように易経の本文はまことに簡単だが、それだけに類推はどれほどでも出来るのだ。読者諸君も、こういう風に原文の短い文章の精神を汲み、自分自身の問題にあてはめて活用して頂きたいのである。 真山青果氏の「元禄忠臣蔵」の中には、大石内蔵助がその子主税に、開城直前、優柔不断をなじられて「父は一生、昼行燈と呼ばれて送りたかった」ともらす場面がある。確かに昔の大名の家の国家老が、一大決心を固めなければならないような場面は、その家が興亡の土壇場に直面したときなのだ。昼行燈といわれた当時の内蔵助は、たとえばこの四爻の辞を自分の処世訓としていたのではないかと思われる。

[高木彬光/易の効用]

六五。黄裳。元吉。 象曰、黄裳元吉、文在中也。

六五は、黄裳こうしょう元吉げんきつなり。 象に曰く、黄裳元吉なるは、文中ぶんうちに在ればなり。0227


五爻は「君位」(王・社長などの地位)に該当し、通常は陽爻が適しています。しかし、坤為地の卦は全て陰で構成されています。王でありながら陰であるため、「自分は力の弱い王」であることをしっかりと認識し、謙虚であることによって吉を得られるとされています。
『黄』は五行において地の色を表し、『裳』は衣装の裳を指し、上衣である『衣』は乾に該当し、下衣である『裳』は坤に該当します。この爻は君位にありますが、坤の卦であり陰の爻であるため、坤の徳である従順貞正を特に重視し、君位にある者が目下の才能ある者(二爻のような臣)を登用し、政を行うべきであり、そうすることで元いに吉となるという意味です。
また、自分は陰であり剛健強壮でない、正しい主ではないことをよく自覚し、自分の地位の恐れ多さを理解し、敬虔な態度であれば吉であるということです。五爻は君位であり、外卦で本来は上衣を用いて辞をかけるべきですが、坤の卦で臣の道・妻の道を説くため、下衣の『裳』で辞がかけられています。

五行説では、物質の元素を木・火・土・金・水とし、それぞれの色は青・赤・黄・白・黒、方位は東・南・中央・西・北に対応します。そのため黄は大地の色であり、中央の色でもあります。黄は中の色、裳(はかま)は下の飾りです。六五は外卦の「中」を得ており黄の色にあたります。尊位にありながら陰爻であることは、へりくだった態度、下の飾りに相当します。つまり黄裳は、中庸柔順の徳が内に満ち、おのずと外に現れるような人の象徴です。したがってその占断は、最善の吉(元吉)ということになります。象伝の文中にある「なり」は、美が内にあればおのずと外に現れることを示しています。0227

黄色は地の色とされて、中国では非常に尊ばれる色だが、これを裳に使っているということは、謙譲の美徳で、まことにめでたいという意味である。 十分に主君たるべき資格を持った人間が主君の補佐役にまわっているという感じなのだ。たとえば、今度のアメリカの大統領選挙(1960年)で、ケネディ、ニクソンという候補者は、どちらも四十代だったので、副大統領の候補者には、両党ともに年長者を配したようなものである。 若い社長のおかげで、十分の睨みをきかし、社運を背負っている副社長、支配人、そのような心掛けで事に当たるべきである。

[高木彬光/易の効用]

上六。龍戰于野。其血玄黄。 象曰、龍野于戰、其道窮也。

上六は、竜に戦う、その血玄黄げんおう。 象に曰く、竜野に戦うは、その道窮まればなり。

これは完全な下剋上、恐るべき状態といってよい。下にあって、統制に服すべき者が、上を侮っている状態なのだ。これを放置すればどういう事態になるか。それは5・15事件以来の日本軍閥の歴史を見れば明らかである。

[高木彬光/易の効用]

この爻を理解するためには、初爻の辞『霜を履みて堅氷に至る』と併せて考えると良いでしょう。陰が初めて凝って霜となり、それが進展すると堅氷に至ります。この上爻は、陰が完全に凝り固まり堅氷になった状態を示しています。『龍』は、陰が極まって強い勢いを持つ状態を表し、坤が乾の龍と同様の力を得たことを意味します。
元々、乾の龍は強剛ですが、坤の龍は陰の極致によって強剛になったものです。この二者が対立すると、互いに傷つき血を流すことになります。その血の色が『玄黄』です。(玄は乾の色、黄は坤の色)しかし、坤の龍は強くなったとしても本質は陰です。陰も陽も長じれば互いに変化します。初爻は始まりを、上爻は他の事柄への移行を示します。

陰は本来陽に従うべきものですが、この卦では陰がずっと続き、最終的には陰が極致に達しています。ここに至ると、陰は陽と争わざるを得ません。陰の力が陽に匹敵するほど強大になっているため、両者は必ず傷つきます。この状況を表象するのが、竜と竜が野で戦い、黒と黄色の血を流している姿です。「野に」という表現は、陰が坤卦を超えて陽と争うための場所を示しています。説卦伝には「乾に戦う」とあり、戦場はすでに坤を離れ、乾の領域に移っています。この卦を占うと、凶となることは明白です。

陰陽で物事を分けると、天は陽で地は陰です。君主は陽であり、臣下は陰です。また、夫は陽で妻は陰です。さらに、黒色である玄は天を、黄色である黄は地を表します。陰である臣下が龍のような力を持つと、玄と黄の激しい戦いが起こり、互いに傷つきます。陰の勢力が増大して自らの立場を忘れると、必ず物事は行き詰まります。


用六。利永貞。 象曰、用六永貞、以大終也。

用六ようりくは、永貞えいていに利あり。 象に曰く、用六の永貞は、大を以て終わるなり。1012


用六は筮して坤の卦が出、六爻ともが変である場合の判断辞です。坤卦は全爻が陰で構成されております。陰は柔和を意味しますが、その柔和な生活態度は永続できるものではありません。したがって、陽剛に変化することによって、初めて永続的な正しさを得ることができるのです。このため、占者への判断としては、正義を長く貫くためには陰柔を剛毅に転換することが望ましいとされます。坤卦の全爻が変ずると乾卦となります。
用六の「永貞」は乾卦の「利貞」に相当しますが、元が坤卦であるため、本来の乾卦の元亨利貞には及びません。象伝において、「大を以て終る」というのは、各爻が初めは陰であったものが終わりに陽になることを指します。陰は小であり、陽は大であるとされます。


文言伝

文言曰、坤至柔而動也剛。至靜而徳方。後得主而有常。含萬物而化光。坤道其順乎。承天而時行。

文言に曰く、坤は至柔しじゅうにして動くや剛なり。至静しせいにして徳ほうなり。おくるればしゅを得てつねあり。万物を含んで化おおいなり。坤道はそれ順なるか。天を承けて時に行う。


文言によれば、坤の道は至って柔らかいが、その動きは力強い。至って静かであるが、その物を生むはたらき(=徳)には整然とした法則性(=方)がある。陰は陽に従うものであるから、人の後についてゆけば、陽剛なる主人を得る。それが陰の常道に沿うことである。坤は万物を包含し、その造化の力は広大である。坤は、陽剛なる主人、天の意図をうけて、その時を失せずに生々の作用を行う。坤の道はなんと柔順なものではないか。


積善之家必有餘慶。積不善之家必有餘殃。臣弑其君、子弑其父、非一朝一夕之故。其所由來者漸矣。由辨之不早辨也。易曰、履霜堅冰至。葢言順也。

積善の家には必ず余慶よけいあり。積不善の家には必ず余殃よおうあり。臣にしてその君をしいし、子にしてその父を弑するは、一朝一夕のことにあらず。その由ってきたるところのものぜんなり。これを弁じて早く弁ぜざるに由るなり。易に曰く、霜を履んで堅氷至ると。けだし順なるを言えるなり。


この言葉は、「善行を積み重ねる家には、子孫に至るまで喜びが続き、不善を積む家には、後の世代にまで災厄が訪れる」という因果応報の意味で使われることがあります。しかし、本来の意味は、日々小さな善行を重ねていけば必ず幸せが訪れ、日々悪事を重ねていけば必ず災難に遭遇するというものです。どんな事も積み重ねることで、その層は厚くなります。だからこそ、何を積み重ねるのか、まだ層が薄い段階で慎重に選び取る必要があるという教えです。
臣下が君主を殺し、子供が親を手にかけるという事態は、突如として起こるようなものではありません。これらの要因は長い年月をかけてゆっくりと醸成され、やがて大きな災厄として表面化するのです。このような惨事が発生する理由は、物事の道理を早期に明確にし、是正しなかったためにあります。多くの人災は、長期間にわたり見過ごされ続けた結果として生じるのです。


直其正也、方其義也。君子敬以直内、義以方外。敬義立而徳不孤。直方大、不習无不利、則不疑其所行也。

直はそれ正なり、方はそれ義なり。君子は敬もって内を直くし、義をもって外を方にす。敬義立てば徳孤ならず。直方大ちょくほうだいなり、習わざれども利ありからざるなしとは、その行なうところを疑わざるなり。


「直」とはその正しさを、「方」とはその義(けじめ)を意味します。君子は敬(つつしみ)をもって内心を正直にし、義をもって外形を方正にします。義があれば外形はおのずと方正になるので、義が外に存在するわけではありません。敬と義が成立すれば、その人の徳は孤立的ではなくなります。広大なことを望まなくとも、広大(直方大の大)となるのです。「習わざれども利あらざるなし」というのは、自分の行動に疑惑を持たないため、学習の必要がないということです。
「敬」とは、単にうやまうことを指すのではなく、心を引き締めて慎重にすることを意味します。つつましくあることで心の内をまっすぐにし、正義に従って外に向かって行動する姿勢を身につけることです。このような敬と義を備えた人は、その徳は一つに留まらず、自然に多くの徳が積み重なり、やがて大きく盛大になっていきます。そして周囲にも良い影響を与える存在となるのです。


陰雖有美、含之以從王事、弗敢成也。地道也、妻道也、臣道也。地道無成、而代有終也。

陰は美ありといえども、これを含んでもって王事に従い、あえて成さざるなり。地の道なり、妻の道なり、臣の道なり。地の道は成すことなくして、代わって終わり有るなり。


陰の道とは、自身に優れた点があってもそれを表に出さず、王者の仕事に従事することです。十分に手柄を立てる力がありながらも、縁の下の力持ちとして甘んじ、主役の座を求めることはしません。これこそが地の道であり、妻の道であり、臣の道なのです。地の道は、自らの功績を誇ることはありません。天に代わり生育の役割を果たし、その功績を天に譲るのです(これは妻が夫に対して、臣が君に対して行うことと同じです)。

地道、妻道、臣道は、陽に従う陰の道とされています。地は天に従い、妻は夫に従い、臣下は主君に従います。地は天の恵みを受けて大地に万物を形作ります。同様に、妻や臣下は自己の才能を前面に出さず、ただ従いながら物事を育て、形にする陰の力を発揮します。誰もが脇役や縁の下の力として終わりたくはないと思うでしょうが、陰の力が育んだものは次世代に引き継がれていくのです。真に終わりを全うできるのは、陰の道にあるのです。


天地變化、草木蕃、天地閉、賢人隱。易曰、嚢括、无咎无譽。葢言謹也。

天地変化して、草木しげく、天地閉じて、賢人隠る。易に曰く、ふくろを括る、咎もなく誉れもなしと。けだし謹むべきを言えるなり。


易には「囊を括る、咎もなく誉もなし」とあり、これは慎みを説いたもの。
六四は六五の君に近いものの、陰爻同士でありその心は通じ合わない。天地の気は交わることで変化をもたらし、その結果として草木が繁茂します。しかし、天地の気が断絶し通じ合わなければ、万物は成長しません。同様に、君(天)と臣(地)の道が隔絶するとき、賢人は世に出ずに隠遁します。六四はまさにそのような時期に相当し、囊の口を括るように隠れ慎むことで、誉れもなく咎もない情況なのです。
政府を天、国民を地とすれば、政府が国民の感情を無視し、国民が政府の指示に従わないと、双方の意思疎通が図れず国は混乱に陥ります。これが「天地閉じて」という状態です。賢明な人々は、このような時代において自分の才能を発揮することができないと知り、口を堅く閉じて隠遁します。初めは臆病に見えるかもしれませんが、時を待つ以外に策がないこともあるのです。このような時期には、耐え忍びながら未来に備えることが求められます。


君子黄中通理、正位居體。美在其中、而暢於四支、發於事業。美之至也。

君子は黄中こうちゅうにして理に通じ、正位にしてたいに居る。美その中に在って、四支に暢《の》び、事業に発す。美の至りなり。


君子は、黄色が四方の色―青、赤、白、黒―の中心に位置し、それらの色との調和を通じて秩序を維持するように、心に中庸の徳を持ちつつ、その徳が自然に周囲に広がり秩序が保たれます。また、君子は高貴な位置である「五」にあっても、裳を下半身に当てるように、謙虚に振る舞います。
物事の情理に精通し、自ら従うべき立場を認識し、その地位に適した行動を取ります。これはたとえ才能や能力に恵まれて高い地位にいたとしても、現在の状況や情理に従って自己の分限をわきまえ役割を果たすことが重要であることを示唆しています。従順、受容、柔和の陰徳を示す言葉になります。
謙虚であり、柔和であり、柔順であり、受容的な心が全身に行き渡るようになれば、美徳はその人の行動に表れるのではなく、その人の事業に表れることになります。それは美(徳)の至りです。美徳とは陰の徳であり、隠したもの、秘めたものが、光があふれ漏れ出すように外に表れるというのが、美徳の真髄なのです。


陰疑於陽必戰。爲其嫌於无陽也、故稱龍焉。猶未離其類也、故稱血焉。夫玄黄者、天地之雜也。天玄而地黄。

陰の陽に疑わしきときは必ず戦う。その陽なきに嫌わしきために、故に龍と称す。なおいまだその類を離れず、故に血と称す。それ玄黄は、天地の雑なり。天は玄にして地はおうなり。


臣下が強大な力を持ち、自らが君主のように振る舞うならば、必ずや戦いが起こるでしょう。下位の者が上位の者に対して意見を述べると、上位者の怒りを買うことになります。従属する立場の者が自らを主と勘違いすれば、それが戦いの火種となるのです。陽と陰ではその強さの質が異なります。陰が陽に勝る点は、重圧にも容易に耐え抜き、徹底的に従順であり、慈愛をもって受け入れる精神力を持っていることにあります。これらの教えを決して忘れてはなりません。
陰は小さく、陽は大きく、陰は陽に従うことが本則であります。しかし、上六の段階においては、陰が極盛となり、陽に匹敵する大きさとなりました。この時点で陰と陽は戦わざるを得ない状況となります。坤卦は純陰の状態ですが、この時も陽は影に潜んでおり、完全に消えてしまったわけではありません。陽が全く存在しないように見えるかもしれませんが、陽の象徴である竜の名を挙げることでその存在を示しています。陰が陽に匹敵するほど盛んになっていても、やはり陰の本質からは離れていません。したがって、血という表現が使われます。血は陰に属するものです。玄黄という色は天と地が混ざった色であり、天の色は玄、地の色は黄です。竜が流す血が玄と黄であるということは、陽(天)も陰(地)もともに傷ついたことを示しています。


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