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35.火地晋(かちしん)【易経六十四卦】

火地晉(進む/旭日昇天)



action:活動/progress:進行

運気盛大なり。されど移ろいやすき象なり。進んで可なり。 ただし、実力の範囲内に止めるべし。


物不可以終壯。故受之以晉。晉者進也。(序卦伝)

物は以て終ついに壮さかんなるべからず。故にこれを受くるに晋を以てす。

序卦伝は、大壮の次に晉が続く理由を説明する。
晋とは進なり。 物事は、旺んな状態のままで、いつまでも動かないでいることはできない。必ず上に昇り進もうとする。晋とは、進むこと。明るい太陽が地上に昇り始めるとき。


『晋』と『進』の違い:『晋』は、日が昇り進む意であり、明らかであるという意を含んでいるが『進』は、ただ前に進むという意味であり、明の意を含んでいない。この卦は、進んで行くことについての道を説く。 34.雷天大壮のように猪突猛進するのではない。時を得て全能力を発揮してゆく。地上に太陽が輝き始めたのである。希望の朝である。いまは、背伸びするくらいに仕事を引き受けても順調にこなせるときにある。


働きかける。じっとしてはうだつが上がらない。常に活動性を持ち事に当たっていく。そうしなければならないのが火地晉のときである。運気も上々だし、動けば効果が上がる。 全て活動によってよい効果を見るのであるが、そうかといって何でもかでも動いたからといって上手く行くとは限らない。 身体のコンディションや、何かするにふさわしい状態にあるかどうか見究め活動することにより、その人の命運が決まるのである。 しかし、この卦の時は、何かしら身も心もむずむずして動きたくてしようがないときで、当然動かねばならない。常にうまずたゆまず誠意と努力を重ねて行く所に効果は見えて栄えて、なるほどやってよかったなあと思えるようになる。

[嶋謙州]

この卦は上卦が火で下卦が地であります。晉の卦といってもわかりませんので、上卦下卦を読んで火地晉という。こういうふうに固有名詞で覚えますとすぐ卦が浮かんできますから、たいへん便利であります。 大壯によって初めて進歩がありますから、この晉は「すすむ」と読むわけであります。 人の名前のときはだいたい「すすむ」と読んでおります。 その大象には、君子以自昭明徳―君子以って自らを明徳を昭かにす、とあります。 遯から大壯になり晉に至るということは、みずから備えている明徳を発揮し、天下万民を安んずるよう務めること、これが本当の晉であるということであります。

[安岡正篤]

晉。康侯用錫馬蕃庶。晝日三接。(卦辞)

晋は、康侯用こうこうもって馬を錫たもうこと蕃庶はんしょたり。昼日ちゅうじつに三たび接まじわる。


康侯』は、民を康んずる侯。『藩庶』は、沢山。『晝日』は昼間。
は「進む」を意味します。進むことを象徴する卦には、《地風升》《風山漸》《火地晋》の三つがありますが、それぞれ異なる進み方を表しています。
地風升は種が芽を出し成長する様子、
風山漸は若木が大木へと成長する様子、
火地晋は光を伴って盛大に進む様子で、光明と繁栄において最も活気のある進み方です。
卦辞は、諸侯が天子のもとに進み褒美を受け取る情景をイメージしています。この卦の上卦は離、すなわち太陽であり、下卦は坤、すなわち地です。離には明らかさの徳があり、坤には順応の徳があります。つまり、太陽が地上に輝き、下のものが柔順にそれに従う形です。
人間界では、諸侯が恭順に王者に伺候する様子を示しています。そこで卦辞は、国をよく治めた諸侯が王者のもとに参観し、その功績を称賛され、多くの馬を賜り、昼間()に三度も引見されるという手厚い礼遇を受けると述べています。(用ては、この卦の徳で、の意味)
占ってこの卦を得た人、自らの仕事に忠実であるならば、上位者から寵愛を受け、多くの馬を賜り、一日に三度の謁見を受けるほど出世するでしょう。


彖曰。晉。進也。明出地上。順而麗乎大明。柔進而上行。是以康侯用錫馬蕃庶。晝日三接也

彖に曰く、晋は、進しんなり。明めい地上に出いず。順にして大明に麗つけり。柔じゅう進んで上行じょうこうす。ここを以て康侯用こうこうもっ馬を錫たもうこと蕃庶はんしょたり、昼日ちゅうじつに三たび接まじわるなり。


晋は「進む」という意味を持ちます。この漢字は同じ音の卦名として解釈されます。卦の象徴で言えば、太陽(明)が地面の上に昇っている状態を示しています。卦の徳に関して言えば、柔順な臣下が大いに明らかな君主に従うという卦です。卦の変化については、観の六四と九五が入れ替わると晋になります。観の六四の柔爻が進んで五の君位に上る点からも、「進む」という意味が名付けられています。このような卦の形状や徳により、康侯が馬を多く与えられることや、昼間に三度君主に会うという象徴的な判断が下されています。


象曰。明出地上晉。君子以自昭明徳。

象に曰く、明めい地上に出いずるは晋しんなり。君子以て自ら明徳を昭あきらかにす。

太陽が地平線から姿を現す様子。太陽が地上に昇ると、世界の隅々まで光が行き渡ります。有徳の君子はこの卦を手本とし、自身の持つ明るい徳をさらに明らかにします。そうすることで、その徳は自然と外に表れ、天下の人々に尊敬されるでしょう。太陽が地上に昇り続けるように、自らの明徳を明らかにするのです。「自ら」とは、自分の心を明るく保つのは他人に頼らず、自分自身の責任であるという意味です。明徳は私欲に囚われると曇ってしまいます。そのため、心の鏡が曇らないよう、日々自ら意識して磨く必要があるのです。


初六。晉如摧如。貞吉。罔孚。裕无咎。 象曰。晉如摧如。獨行正也。裕无咎。未受命也

初六は、晋如しんじょたり摧如さいじょたり。貞しければ吉。|孚まこととせらるる罔なきも、裕ゆたかなるときは咎なし。象に曰く、晋如たり摧如たるは、独り正を行うなり。裕かなるときは咎なし、いまだ命めいを受けざればなり。


晉如』は進むさま。『摧如』の摧はくだく、打ちくだかれて退くさま。阻まれて進みかねる様子を表しています。『』は信ずる。『』は寛裕。
晋すすむの卦ですから、どの爻も進もうとその状況を観察しています。
初六は陰の性質を持ち、力が弱く最も下位に位置しています。前方には艮の山(二~四爻)があり、進むことが阻まれています。上卦の九四と「応じて」いるものの、九四は「不中」(五でない)かつ「不正」(陽爻陰位)であり、とても支援を期待できる相手ではありません。したがって、進もうとするも打ち砕かれ、しぶしぶ引き下がらざるを得ないのです。
占ってこの爻を得た場合、昇進を阻まれながらも、自身の貞しい態度を堅持するならば、最終的には吉(=貞吉)となります。つまり、たとえ他人に信じられなくとも(=罔孚)、心を広く保ち泰然として運命に対処すれば、咎められることはないのです。
象伝の「未だ命を受けず」とは、初六が最下位、つまり庶人の地位にあり、まだ官職を受けていないことを意味します。これにより、悠々自適することが可能です。
雷天大壮は強暴の過ちが多いため陰位にあることを可としましたが、火地晋もまた進むことを専らにすると妄進の恐れがあります。初めは陰の慎重さを持ち、適切な時に進むことが吉とされます。これがこの卦で四陰を吉とし、他の二陽を凶とする理由です。


六二。晉如愁如。貞吉。受茲介福于其王母。 象曰。茲受介福。以中正也。

六二は、晋如しんじょたり愁如しゅうじょたり。貞しければ吉。茲この介おおいなる福をその王母おうぼに受く。象に曰く、茲の介いなる福を受くるは、中正を以てなり。

愁如』は進もうとして憂い止まるさま。『』は大。『王母』は祖母。この祖母は六五を指します。
六二は「中正」(下卦の中、陰爻陰位)であるため、昇進する資格を得ています。しかし、上に応援がない(応ずべき六五も同じく陰で応じない)ため、前進しようとしても道のりの困難さを整えざるを得ません。
占ってこの爻を得た人は、最初は孤立無援ですが、正しい道を堅持していけば、最終的には吉となります。その中正の姿勢が認められ、祖母から大きな福を授かるでしょう。

※なぜ祖母の文字がここに現れるのか。
朱子によれば、古代において先祖の妻を祀る礼が存在していたと述べられています。
「茲の介福を王母に受く」というのは、古人が先妣《せんぴ》を祀る際に吉凶を占った結果、
得られためでたい判断の言葉です。この言葉が陰爻で尊位にあるため、
王母という語に相応しいと考えられています。

六三。衆允。悔亡。 象曰。衆允之。志上行也

六三は、衆允しゅうまこととす。悔くい亡ぶ。 象に曰く、衆これを允まこととす、志し上行じょうこうすればなり。

『允』はまこと、信ずる。
六三は「不中」(二でない)「不正」(陰爻陽位)なので、当然悔いがあっても致しかたないのですが、六三には志を同じくする仲間(=衆)が存在します。下の二陰爻がその仲間であり、いずれも上の大いに明るい君主に向かって昇進しようとする志を持っています。そのため、六三は地位こそ不中正ですが、衆人に信頼されています(=衆允)。衆人の共感によって支えられることで、不中正によって引き起こされる悔いも未然に消えてしまうのです(=悔亡)。占っってこの爻を得た場合、不当な地位にあっても、大衆に信頼されることで、うまくいくでしょう。


九四。晉如鼫鼠。貞厲。 象曰。鼫鼠貞厲。位不當也。

九四は、晋如たる鼫鼠せきそ。貞しけれど厲あやうし。 象に曰く、鼫鼠貞しけれど厲きは、位くらい当らざればなり。

『鼫鼠』大きい鼠、野鼠。(王弼は、ムササビと解する)大食で人を畏れ、作物を害する。
九四は「不中」(五が中)、「不正」(陽爻陰位)の身をもって、高い位に昇進しています。徳もないのに不当に高い地位につくのは貪欲のなせるわざであり、常にびくびくしていなければなりません。その貪欲でびくびくしている様は、鼠に似ています。そこで、晋如たる鼫鼠~昇り進んだ野鼠というイメージが用いられます。
功績を上げ、要職に進んだ者の中には、大鼠のように地位と権力を貪る者がいます。彼らは組織に貢献したことを理由に権力や金銭を貪り、後進を阻んで地位を保ち、組織全体を暗くしています。菲才で高位にあるのは危険であり、故に占断としては「貞しけれど厲し」。仕事や過去の功労は正しくとも、重職にある者は質素であるべきであり、前途は危ういものです。決して貪ってはなりません。象伝における位不当は「不正」と同義となります。


六五。悔亡。失得勿恤。往吉无不利。 象曰。失得勿恤。往有慶也。

六五は、悔亡ぶ。失得恤しっとくうれうるなかれ。往くときは吉にして利あらざるなし。 象に曰く、失得恤うるなかれ、往ゆきて慶よろこびあるなり。

失得』はいわゆる損得。『』は気にかける。『』は福。
六五は陰爻が陽位にあるため(不正)、後悔が伴うのが当然です。しかし、この爻は上卦の明の中心に位置し、非常に明瞭な状態で君位にあり、下々の者たちがみな従順に従います。したがって、占う者がこの爻を得た場合、初めに予期された後悔も消滅します。損得に拘る必要はなく、前進すれば吉、何をしても利益を得ることができるでしょう。

上九。晉其角。維用伐邑。厲吉无咎。貞吝。 象曰。維用伐邑。道未光也。

上九は、その角《つの》に晋む。維これ用て邑ゆうを伐うつ。厲うけれど吉にして咎なし。貞ただしけれど吝りん。 象に曰く、維れ用て邑を伐つ、道いまだ光おおいならざるなり。

』は自領の村。『』は広の意味。
上九は剛爻が最上段まで至った状態を示します。これは過度に剛強な力をもって暴進する様子に喩えられます。動物の体に例えるなら、それは角となります。剛強でかつ一番上にあるからです。それでこの爻の状況を説明する際、「その角に晋む」という表現が用いられるのです。
この爻で占う人が、自分の領地内の村の反乱を討伐しようとする場合、状況は厳しいものの、結果としては吉となり、何も問題はありません。しかし、非常に剛強な身で小さな村を征伐すること自体、正しい行いであるにしても、羞恥を伴うものです(=吝)。本来であれば、反乱などが起こらないよう日頃から領地を治めるべきであり、武力で討伐しなければならないという事態そのものが、統治の道が広くないことを示しているのです。

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