【豊かさ、贅沢さと、クリア可能なゲーム


幕末の学者、大国隆正という人が以下のように語っています。

「西洋人は科学によって宇宙を説明するが、結局のところそれは西洋医学と同じで、死体を解剖して、その内部を説明するにとどまっている。たしかに、それによって人体の構造はよくわかる。しかし、そこには精神がない。外国ではすべてのものに神が宿ることを説かない。したがって、すべてが死物となってしまい、そこに ‘’生き生きとしたもの‘’ は何も見出すことはできないのである」

科学、そして唯物論的な世界観に対する一つの批判。限界線の提示と言えるかもしれません。

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さて、先日母方の祖母が亡くなり、葬式のため生まれ故郷の徳島に帰りました。

徳島は東京や大阪に比べて随分と「田舎」ではありまして、その意味では「なにもない国」ではありますが。いかんせん、空気、水、食べ物がまあ、とにかく美味しい。そこらへんのスーパーで安くで売っている惣菜がもう飛び上がるくらいに美味しいのです。東京でこの美味しさを味わおうと思うと多分、お札が必要になる。


何をせずとも、

ただ歩いて、

食べるだけで

贅沢。ひたすらに贅沢。

豊かというものがありました。


十数年振りに顔を合わせたに歳年上の従兄に、車の中でそのような考えを話したところ、

「龍司もそれをつかんだか!」といつもの上から目線で喜ばれました。

その上から目線は私にとってはまるで不快ではありません。幼少の頃から、何かよーわからんけど凄くて尊敬している従兄。彼からの言葉だからというのが大きいのでしょう。

そんな従兄とは徳島ラーメンを食べに行く途中の車の中で、色々と話をしました。二人の会話を一人の人間の述懐という形式に変換して以下に記してみましょう。


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そう、俺達はよくばあちゃんの家でファミコン(初代の物)をやってた。

あの頃のゲームといえばクリアできないのが前提やった。

とにかく難しい。

理不尽なまでに。

「チャレンジャー」とか「マリオ2」とか「おばけのQ太郎」とか。

クリアどころか何面まであるかさえも想像がつかんかった。

無限やった。

でも、それに対して文句はなかった。

クリアできないから、解決できないから、悪いのか?

あの時の俺たちにとっては、そうではなかった。

いつの頃からかクリア出来るゲームが出てきた。

ドラクエとかはその走りか?

しかし、それでも特にドラクエ2は難しすぎた。攻略本を読んでもクリア出来るかどうかはまた別問題。

今やったらクレームつくわな(笑)

そーいやそもそも昔のファミコンソフトには攻略本なんてのもあんまりなかった。

いつの間にかゲームはクリア出来て当たり前のものになった。

クリア出来て当たり前。

攻略本や攻略サイトの文字を読めたら、そして練習したら大体はクリア出来る。

あの辺りから何か世界が変わってきたよな。

なんでもかんでも解決出来て当たり前やから。解決出来ないということは悪いことになっとる。

そういえば、世間で「クレーム」という言葉がやたら聞かれるようになったのもあの頃くらいからやった気がするな。

「世の中にはどうにもならんことがある」「どうにもならん不条理がある。それを知るのが大人」「どうにもならん世の中でも、できるだけ笑って生きる。それをわきまえるのが大人」

なんとなくそういう人間観が俺らの小さい頃にはあった。

いつの間にか子供のように怒りっぽくなった。

大人達が、というわけではない。

世界が。世界そのものがや。

なんでもかんでも解決出来て当たり前やと夢想する世界にいつの間にか変わり。

大人たちが率先してなんでもかんでもクレームをつけるようになった。

笑って済ませることができなくなった。


「ゴメンで済んだらケーサツいらんわ!」


かつて、これはギャグとして存在していた言葉やったと思うが、昨今ではこれは大真面目な真理の如く語られとる。

時代が進むといい歳こいたオッサンが、隣の保育園のおチビ達の元気な声を騒音扱いしてクレームをつけるのが普通になった。


「オッサン!あんたらも小さい頃はそーちゃうかったか?あんた自身はそうやなかったとしても、周りはそうちゃうかったか?」


なにがいい、なにが悪いのはなしではないけどな。しかし、そのオッサンの中では隣のちびっ子軍団の元気な声もまた、「解決可能な問題」であり、故に解決出来ていない現状に対して当然のように怒り、クレームをつける。


これはそーゆーオッサンらの個人的な人格の問題ではない。これは現在の世の中の本質的な問題ちゃうやろか?

ファミコン全盛期に少年時代を重ねた俺ららしい言葉で表してみるか。。

「クリア可能なゲームの呪い」

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そんな問答を先日、徳島で従兄としました。聞くに「じいちゃん亡くなって独りになったばーちゃんを放っておけない」とのシンプルな理由から十年前から月イチで祖母に会いに徳島に来ているとのこと。そうしているうちにこの、田舎の、徳島の、贅沢さ、豊かさに気付いて、もう来ずにはいられないと。

幼少の頃から何かよーわからんけど凄く尊敬してた従兄は、今現在、私の先を、明確に10年先を歩いていると感じました。

随分と差をつけられたものだと思うも、自然と受け入れ、むしろ誇らしく感じるのは、普段は「長兄役」ばかりを演じる私にとっては、従兄は至極貴重な存在だからかもしれません。

話は変わるが、これは従兄と私の主観でしかありませんが、徳島のドライバーは運転が荒い。

「この辺はホンマに運転ムチャクチャやで!東京モンは大阪の運転見て荒いとかゆーとるけど。徳島来たら心臓麻痺で死んでまうわなー!」

との、甚だ口悪き従兄の言葉。

そう、たしかに法律的にはメチャクチャにもほどがあるのですが、決まりごとに縛られない豊かさというのも妙に感じられるのです(←それが危険なことでもあることは承知しています)


クリア可能なゲームの呪いに冒された、何でもかんでも解決出来て当たり前やと思い込む世界は。

何でもかんでも自分達で解明することが可能で、何でもかんでも自分達で新しく作り出せると勘違いした私達人間によって営まれている。

私達は全知全能から程遠いくせに、自分達を全知全能だと勘違いしているフシがある。

「俺は神だ!」

と叫ぶ人は少ないし変人扱いされますが、今の世の中は多くの人が

「俺は神だ!」

と態度で語っている。と私は見ます。

なぜなら何でもかんでも解決出来て当たり前やと思っているから。よくよく考えたらそれって全知全能の神でしょうに!

新型コロナの世界を上げての大騒ぎの本質はここでしょう。

「未知のウイルスが来た!大変だ!でも、努力したらゼロコロナに出来るはず!出来ないなんておかしい!誰かが悪いんだ!おい!飲食店!営業すんのやめい!」

新型のウイルスなんていつも未知です。

ずーっと昔からそうです。風邪という言葉は驚くべきことに今や死語への道を踏み出し始めていますが。。

ゼ ロ 風 邪 な ん て の を 達 成 で き た 時 が 人 類 史 上 に お い て 一 度 で も あ り ま し た か ?

風邪を新型コロナという言葉に置き換えただけでこのザマです。

つまり今現在は過渡期なのかもしれません。いわゆる唯物史観、科学万能主義が完成に近づく過渡期。それは私には狂気にしか見えないのです。

そのうち台風や地震や津波も、解決可能で、それが起きたら何かが悪いんだ!誰かのせいだ!という世の中になるかもしれませんね。

荒唐無稽?ムチャクチャ?そんなはずがあるわけがない?いや、もう病気においてはそういう世の中です。ゼロコロナという言葉が、概念がメディアで普通に使用されている時点で、賛否はあれどそういう世の中になっているのです。

 「人の力と思考ではどうにもならない、人を超越した何かがある」

そう考えることは愚かなことか?どうなのか?

まさに今、のんびりと読み進めているドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』がその奥底で提起している問題なのかもしれません。

しかし思うに、どのような立場であっても等しく尊い、が、思考があまりにも浅いのは少し危険なのかなと。

法律は大切ですが法律だけで世の中がおさまるわけではない。

そう考えているのであれば、人が作り出したもの(法律)で全て解決できるという思想になります。

今、世の中はそこまでは行っていない。法律家や裁判官がいるからです。法律ですべて解決できるなら執行人しかいなくなる。法律家も裁判官も必要なくなる。

人が作った法律だけではどうにもならない問題を扱うのに弁護人や裁判官が人としての生身の論理や、そこを超越したセンスを以て裁く。

霊的なもの、神的なものは現代社会においても機能している。  

しかし現在はクリア可能なゲームの呪いが進行することによって少し揺らいでいるのかもしれませんね。

歴史区分の方法によっては現代は近代とは区別されることもありますが、2022年現在、世界はまさに「近代の完成」という大きなテーマを前に激震しているのかもしれませんね。

それは福音となるか、破滅の歌となるか?

 最後に今一度、冒頭の引用文に少し細工を施して、徳島の豊かさを前に交わした従兄との対話をもとに得た気付きの記述を終えるとしましょう。

大国隆正と言う幕末の国学者が語った「西洋人」という言葉を「近代」に置き換えてみると、現代人たる私達にはより明確になるかもしれない。ふとそう感じたので。

「近代は科学によって宇宙を説明するが、結局のところそれは西洋医学と同じで、死体を解剖して、その内部を説明するにとどまっている。たしかに、それによって人体の構造はよくわかる。しかし、そこには精神がない。外国ではすべてのものに神が宿ることを説かない。したがって、すべてが死物となってしまい、そこに ‘’生き生きとしたもの‘’ は何も見出すことはできないのである」

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