三つ子の魂百まで
今日は「こどもの日」だ。子供が毎年のように減っていてニュースになっているが、当然の成りゆきである。僕も、子供は持てなかった。だから、こうして作品を生み出し続けることができているともいえる。
自分が子供の頃のことを思い出してみると、あれは小学校低学年の頃だったか、画用紙にクレヨンで絵を描いて紙芝居を作っていた。それをどこで披露するということではなかった気がするし、そもそも絵は上手い方ではなかったが、それでも続き物で、20話くらいは書いていたと思う。ストーリーはまるっきり思い出せないが、「きかんしゃトーマス」の向こうを張って、黄色い自動車が主人公の物語だったのは確かである。
その他に、自己流で漫画も描いていたような気もするが、こちらはまったく覚えていない。
子供の頃から、「紙芝居」というメディアを選んでいるのが、僕らしい。小説と違って、紙芝居は見てくれる人=観客がいないと成り立たない。つまり、僕は小さい頃から「観客」を求めていたのである。小説にも「読者」という受け手はいるが、目の前にはいない。目の前の観客から、リアルタイムで反応が返ってくる。それが楽しいと、無意識のうちに分かっていたのだろう。結局、誰かに見せることはなかったと思う(もしかしたら、親に付き合わせていたかも知れないが、明確な記憶はない)。でも、僕の創作の出発点として「紙芝居」が選ばれたのは、やはり興味深い。子供の頃、まだ公園等にやってきて、お菓子を売りながら紙芝居を見せる人は実在していたが、僕は一度も遭遇したことがない。なのに、何故紙芝居だったのだろうか。
考えてみれば、僕が今書いているのは「戯曲」「脚本」、つまり「芝居」のベースになるものである。それを、子供の頃から意識したり、予知したりといったことはない。まったくの偶然だとは思うが、いずれにせよ、僕自身がかなり早くから「実演芸術」の面白さに目覚めていた可能性は高い。創作はしていないが、僕が紙芝居の次に興味を持ったのは、「落語」だった。芸術というよりは芸能だが、これも、観客の前で実演することが前提の芸である。
子供の頃には、よもや僕が脚本を書く人間になるとは想像もしていなかった。ただ、小学校高学年の頃には、将来なりたい職業について、「喋る商売か、書く商売」と公言していた。また、小学校6年生の卒業文集には、将来の夢に関しての文章を寄せ、そこには作家(小説家)になった自分を登場させていた。
そして、同じく小学校6年生の時、謝恩会の6年生の出し物のために、時代劇のシナリオ(当時大人気だった「水戸黄門」を彷彿とさせるような、勧善懲悪もの)を書いていたのだ。結局使われることはなかったが、これを読んで「面白い」と言ってくれた人がいたので、調子に乗って続編をどんどん書いていた。これもまた、「観客」を意識した創作物だった。
こうして考えてくると、やはり僕の進む道は、子供の頃の早いうちに決まっていたのかも知れない。「三つ子の魂百まで」ということなのだろうか。となれば、文字通り百歳までは書き続けなくてはなるまい。僕の作品を待ってくれているお客様(そういう人達がいると信じて)に向けて。
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