関係と認識〜地域の中の知らない人〜
ゴトっという音がして、
寝ている人がスマホを落とした。
年末の夜の電車の中。
まばらとは言え、まだまだ人は多い。
この人はお酒を飲んでいるのだろうか。
起きる気配はない。
しかし、誰も声をかけなかった。
隣に座っていた若者は、イヤホンとスマホの世界にいた。
自分も離れたところにいたが、ついに声をかけられなかった。
なんとなく、知らない人に声をかけられない。
まわりにいた人たちも同じ気持ちだっただろうか。
もしくは、「自分には関係がない」と思ったのだろうか・・・
非難している訳ではない。
自分も何もできなかった。
しかし、
知らない人を無関係な人として切り離しているような気がしてならなかった。
電車の中というのは、特異な空間かもしれない。
多くの人が一緒の閉鎖空間にいるが、
みな知らない人だ。
知らない人に関心を持つよりも、寝たり本を読んだりスマホを見たり、
自分の中の世界とだけ繋がっている。
自分の外の世界は、認識の外だ。
関係を持つ
と言うことは、相手を認識することかもしれない。
もっと言うと、相手も自分も認識しあうことだろう。
地域の中でも「知らない人」
最近は近所に住んでいるというだけでは、関係を持つことが難しいと感じる。
先の電車の例と同じで、「知らない人」だからだ。
近所だからと言って周りの人は知らない人であり、
周りの人から見たら自分も知らない人である。
この地域の中でこれほど人がいるのに、誰からも自分が認識されないと思うと、
思わず孤独を感じてしまう。
この中で自分がスマホを落としたとしても、誰も声をかけてくれないのだろうか?
自分は一住民であり、人口の数字の上にしか現れないのだろうか。
「自分」という人間がここに生きているということを、誰が「知って」くれるのだろうか。
誰からも認識されないというのは、孤独を超えて、自分が存在しているのかも疑わしく思えてくる。
誰かとの関係を持つためには?
地域の中で自分は「知らない人」であり、「知っている人」でなければ、話すことすらできない。
関係が少ない人は、さらに関係を作ることが難しくなることが予想される。
そんな中でも、会社や学校など、元からある集団に所属していれば、関係を作りやすいかもしれない。もとから声をかけられる風潮があれば、なおいいだろう。
しかし、会社や学校は、勉強することや仕事をすることを目的としたアソシエーションだ。
他者との交流が、合理性のもと省かれていないとも限らない。
その答えが、SNSやいわゆる「コミュニティ」へのニーズに現れているように感じる。
SNS上は基本知らない人同士だが、実世界よりも接近のハードルが低いのではないだろうか。
特に趣味など共通の話題があればコミュニケーションを取りやすい。
フォローするされると言ったことも、一つの接近だろう。
こうして関係を作れれば、相手も自分も、認識しあえる。
これが集団化したものが、いわゆる「ネット上のコミュニティ」として捉えられるのだろう。
実世界では認識してもらえなくても、ネットであれば認識を共有できる。
認識を互酬することで成り立つ関係と言えないか。
まさしくコミュニティだ。
自分の存在を認識できる関係性を作る場所が、実世界からネット世界に移行して行ってしまうように感じる。
そうであれば実世界に関係性を作ることは、本当にできなくなってしまったのか?
次に関わり方について考えてみよう。
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