【読書感想文】「非モテ」に関する種々の考察

こんにちは、リョウです。
今回は、読書感想文でもあり、エッセイでもあるような記事です。

・本についての紹介

臨床社会学を専門に研究されている西井 開さんが書いた
『「非モテ」からはじめる男性学』(集英社新書)
という本を読んだ。

ここ最近のなかでは特に大きく印象に残った本である。

本のタイトルには「非モテ」とあるが、よくある「童貞でも彼女作れる方法教えます!」みたいな本ではない。これは、あくまで「男性学」という学問に焦点を当て、それを深掘りしていく学術書である。

具体的には、著者の西井さんが立ち上げた「ぼくらの非モテ研究会(以下、非モテ研)」メンバーたちが語る体験談や悩み事を中心として、様々な観点から「男性学」を検討していくという内容なのだが、詳細については、僕がデタラメを言ってしまうと良くないので、実際に読んで確認していただくことをお勧めする。

・感想

まず、非モテ研のメンバーたちが語る体験談や悩み事の数々は、他人事のように聞くことが出来なかった。

自分が過去に持った感情や、今も密かに抱えている悩みが、具体的な事例を交えて、鮮明に言語化されていく感覚があったのだ。

それは、僕が他ならぬ「非モテ」の当事者である(という自覚がある)のと同時に、恐らく殆どの男性が程度の差はあれど、同様の悩みを抱くからであろう。この点でまず、自認する性が「男性」であるすべての人に、この本を読んでほしいと思っている。

ここからは、本書の中から「なるほど……」と思ったところを抜粋して2つほど紹介し、それぞれについてちょっとした考察を述べたい。


1.「未達の感覚」について

西井さんは本書で、

抽象的にイメージされる「一人前の人間」に自分は達していないという切迫した感覚(『「非モテ」からはじめる男性学』p.51)

を「未達の感覚」と呼んでいる。これは僕も抱いていた覚えがあるし、今もふとした瞬間に抱いてしまう感覚である。僕の場合はもう少し単純で、

「とにかく普通になりたい」

というものだったが、本質的には同じ感覚だと思っている。この感覚は思春期ごろからずっと僕の中にあって、意思決定を大きく左右してきた。

2つほど例を挙げよう。

1つ目。僕は、中学まで特に運動部などに所属しておらず、高校に入学した時点でスポーツ経験の全くない自分が(自分の中では「普通」でなくて)嫌だったから、わざわざ初心者として運動部に入部した。

2つ目。大学生になってからは、未だに交際経験がないのが(これまた自分のイメージでは)「普通」でなかったから、それを最大のコンプレックスだと感じていた。

他にも色々あるが、言われてみればそれらは殆ど「未達の感覚」だったといって良さそうである。特に後者は、

「状態としての非モテ」であることに未達の感覚を抱いている(同上 p.52)

のだと言い表すことができるだろう。

「スポーツが得意で、高校時代には初々しい恋人が出来て、性格も明るく社交的で、友達もたくさんいて……」

自分の中の「普通」のイメージはこんな感じだったが、冷静になってみれば、「いや待てよ そいつ誰だ?」と言わざるを得ないことに気がつく。つまり、その「普通」のイメージ自体が「未達の感覚」だったのであろう。

2.「まなざしの方向性」について

本書において西井さんは、「まなざしの方向性」に着目し、コミュニティの種類を便宜的に、〈まなざしを向け合うコミュニティ〉と〈同じもの(語りや活動)にまなざしを向けるコミュニティ〉の2つに分類している。西井さんはこの2つについて、

〈まなざしを向け合うコミュニティ〉では、お互いの特徴の差異を意識して、非難しあったり競争したりする関係性か、もしくは均質化された関係性になる。一方〈同じものにまなざしを向けるコミュニティ〉ではお互いを比較するということは少なく、むしろ違いは許容され、共有された体験によってつながり合う(同上 p.161)

と述べている。これには僕も、非常に大きな実感を持っている。

その実感とは、端的に言うと「いじめ」に関することだ。

僕は、一般的な公立小・中学校に通っていた。そこでは例によって一学年に数件は「いじめ」の問題があって、先生と一部生徒を常に悩ませていたわけである。僕も一度だけ被害者として関わっていて、とても他人事ではなかったから、「どうして無くならないんだろう」と子供なりに考えていた。

それから、中学を卒業した僕はいわゆる「進学校」に入ったのだが、そこでは今まで散々見てきた「いじめ」が(僕が知らないだけかもしれないが)、ただの一件も無かったのだ。

これはどうしてだろう? とても不思議に思った。

親に聞いてみたら「みんな忙しくて、『いじめ』なんかしてる暇が無いんでしょ」と言われて、ちょっとムカついたのを覚えている。

それから数年が経った今、本書を読んで、「いじめ」の有無を左右した要因として、コミュニティの持つ「まなざしの方向性」が思い当たったのだ。

つまり、公立小・中学校が〈まなざしを向け合うコミュニティ〉で、進学校が〈同じものにまなざしを向けるコミュニティ〉だったのではないか? ということである。

まず、前者は当然と言えば当然である。公立小・中学校は、生徒それぞれの目的・価値観・家庭環境・経済状況などが大きく違う。言い方は悪いが、「ピンからキリまで」なのである。そのため、同じものにまなざしを向けるのは困難である(=お互いにまなざしを向け合いやすい)といって差し支えないだろう。

続いて後者だが、高校では先に挙げた生徒それぞれの特徴が(ある程度は)似通う。これは進学校に限った話ではないので、高校では一般的に〈同じものにまなざしを向けるコミュニティ〉が成立しやすいと言えそうだ。さらに、進学校には「大学合格」という揺るがぬ目標があるため、これが「まなざしを向ける」対象になりうるのだろう。

では、「同じものにまなざしを向ける」ことが出来れば、「いじめ」が無くなるのか? というと、それは断定できないと思う。しかし、何らかの方法で公立小中にも「まなざしを向ける対象」を作ることが出来れば、「いじめ」は減る可能性があるのではないか? と僕は考えている。

もはや「非モテ」自体とは関係がない考察を繰り広げてしまったが、「男性学」に関する一意見としては、そこまで的外れではない気がしている。ただ、「いじめ」については当然女性も当事者になりうるので、そこはもう少し考える必要があると思う。

・まとめ

心理学や社会学の学生や専門家ではないド素人なので、本筋とは外れた感想・考察になってしまっているかもしれない。

ただ、「男性」であるがゆえの苦悩や問題には、日々生きる中で幾度も直面していた(し、これからもする)ということを、本書を読むなかで気付くことができた。

改めて男性には(もちろん女性にも)、この本を読んでみることをお勧めする。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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