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自己肯定感としての完成形?「全肯定」

  目安:約1600文字

こんにちは、梅本龍です
突然ですが本題です

1.ところで、IDの表記(?)が変です

実は1月の終わり頃から気づいてたんですが
noteIDがおかしくて(笑)

こういう変なの、良くやりがちで
だから『投稿』とか『送信』とか『決定』みたいなボタンを押す前は
めやくちゃ確認作業をしているつもりなんですけど
でも、やっちゃってました

で、なんで直さなかったのかというと
何気にちょっとリンク貼ってたり
Twitterとかホームページとか

それらを抜かりなく修正する自信が
これまたなかったりとかして
せっかく一度きれいにリンク貼り終わったのだから
もうこれでいっか
という感じです

だって、たぶんだれも気づかない
逆に気づいていた方がいたら凄いなって思うので
ぜひぜひ教えてほしいです(笑)

2.自己肯定感について

自己肯定感っていう言葉がありますが
昔よりも個々の時代になりつつある現代
これについていろんな意見を目にするようになりました

「自己肯定感を上げるための習慣とは……」
「成功体験を積むことで……」
「できる事を認めてあげることで子供の自己肯定感が……」
「そもそも自己肯定感という言葉は嫌いだ」
など、いろんな意見を読んだり
それもあるなぁと思ったりしてはきたのですが

つまるところ自己肯定感とは
「自己」で「肯定」する「感情」なので
他者と比べたり認められたりしてどうこうするものではなく
自分自身の在り方がまず第一にあれば
きっと全肯定できるようになるだろうし
だいたい笑ってやり過ごせるようになる気がする
というのが持論です

冷たいこと言うかもしれないですが
結局自分自身なんじゃないかと思うんです
人が何と言おうと自分で肯定できていれば
それは「自己肯定感」として完成なのではないかと

で、そこに上も下もなくて
わざわざ自己肯定感を「上げる」必要も
ないような気がしています

そこに他者からの目を気にしたり
比較や立場や見栄なんかを気にし始めた上での
自己肯定となると
上がったり下がったりするんじゃないかなと
考えてます

自分自身と向き合って
ニュートラルな状態の自分を一度自覚すると
自分自身に妙な期待をしたり
周囲と比較しすぎたり
そういうことも減るんじゃないでしょうか

「ちょっと頑張れば行ける場所」
を期待してがんばって
それを積み重ねた結果遠くまで行けることは
あると思うし大切だとも思いますけど
突拍子もない自分への期待を
ある日突然背負わせることは
時に自分自身を苦しめる事にもなると
経験上思っています

まぁ、結局のところ
IDがおかしなことになっている件についての
言い訳なんですけど

でも、別にIDの入力ミスを
「これだから自分はダメなんだ」
なんて悔やんだり否定してるわけでも
許して認めて欲しいわけでもなくて
この事実から思う事を書いてみました

とはいえ、昔の自分は
自己肯定感なんて全くなかったんですが
(低いというレベルでもなかった)

3.約2か月放置とは!

それにしても、2021年の11月末にアカウントを作って
2022年の1月末にこの事実に気付くとは
約2か月放置していたという事で
笑っちゃいますね
しかもその後、もう直す気もないし

アカウントを作ったのは
パソコンからだったかiPhoneからだったか
もう忘れちゃいましたけど
きっと手が滑って
一文字だけ消しちゃってたとか
そんなところでしょうか

器用な事するなぁ
確認もたくさんしてたはずなのに
見過ごすとか
もう笑うしかないですね(笑)

4.つまり

体制を悪転させてるわけでもなし
周囲に悪影響を及ぼしてるわけでもない
その範囲でのできごとなら
小さなミスは
だいたい笑ってやり過ごせばいいんです
これはこれで自分なのだと
堂々としていればいいんです

範囲をうっかり超えてしまった時は
その時誠実に対応を考えればいい

そんなマインドを持っていると
少し生きやすくなる人もいるかな
と思ったので共有してみました

最後まで読んでいただきありがとう
ではではまたまた

梅本龍

最後まで読んでいただきありがとうございます!