酒。

 飲み屋の店主であるオーバーさん。今日も彼女の元に、酒を浴びたい人間たちがやってくる。
 開店後のすぐに、建付けの悪い扉を開いたのは灰色のトレンチコートを来た中年で、何も言わず、何も顔に出さずでカウンター席につく。オーバーさんは目線すらも向けずにグラスを拭いていたが、そんな時に中年が、「歌を歌いだしたいオレに、似合う一杯を」と口ずさむようにした。オーバーさんは布を持つ手を止めると、すぐに後ろの酒の瓶を手に取った。
 店に唯一の時計の秒針が、ちょうど二周をしたところで、それはカウンターに置かれた。透明な硝子のグラスに注がれているのは緑色の液体で、氷の塊が一つ浮いていた。
「ありがと」
 中年は右手でグラスを掴み、そのまま一気に酒を飲み干した。底が上を向くとグラスの中の酒が、ただの一度も止まらず中年の口の中に消えていくのをオーバーさんは見て驚いた。やがて氷すらも食い尽くした中年は、グラスをカウンターに置いてから、ふう、と息をつく。その間の顔には一切の変化がなかった。
「うまかった」
 中年はトレンチコートの内ポケットから紙幣を取り出し、カウンターに置きながら立ち上がった。
 そしてどこを見ることもなく、店からも立ち去った。

「オーバーさんは強力な楽観主義の怪物であると、聞いたんですがね」
 へらへら笑いの会社員は、店に入り込むなり、そんなことを口にしていた。オーバーさんは顔色を変えず、また会社員のほうを見ず、「へえ、そんなの、誰から聞いたんですかね」とだけ返す。そんなオーバーさんの涼しい態度が気にくわなかったのか、会社員は少し乱暴な素振りで、カウンターの席に着いた。それから両肘をついて、顔の前で両手の指を弄びながら、変わらずグラスを拭いているオーバーさんの顔を眺め、恍惚の顔でにやけていた。
「じゃあ、いまオーバーさんが呑みたいと思っている酒、お願いしようかな」
 会社員は右手の人差し指をぴんと立てながら、面白がってオーバーさんを見ている。オーバーさんは確かにその汚い目線に気がついてはいるが、それでも何もせず、すぐに後ろの酒の瓶を手に取った。
 それからほんの一瞬で、カウンターにはグラスが置かれた。グラスには透明な液体が入っていて、一見して水のようにも思えるが、液体に被さるようにある白い泡の層が、水である可能性を大きく否定していた。
「炭酸。それもこの泡の量は、相当な刺激ですね……」会社員はわざわざグラスのフチ付近にまで耳を傾け、水分が破裂していく音を聞いていた。横に向いている顔にはシワのような笑みがあったが、それを遠目でみていたオーバーさんは、何が楽しいのかがよくわからなかった。
 会社員は顔を上げ、オーバーさんの方を見る。「それじゃあ、いただきますね」ニッと笑い、グラスの中を一気に飲み干す。しかし火炎のような刺激のその酒は、会社員の口から喉を瞬時に突き刺し、会社員に二回三回の咳きを吐き出させた。
「お、おいっ、こりゃあ、なんだ……まるで喉が、焼かれてるみたいだ」
「ええ。それはそういう酒です。私はそれか、甘いのしか飲みません」
「ふざけやがって!」
 会社員は残りの酒を置き去りにして、逃げるように店から消えていった。

 そんな慌ただしい数十分が幕を閉じ、さらに数分の時が過ぎた後、独りの女が店の戸をゆっくりと開けた。
「まだ、やってますか」
 雪のような声だった。汚れの無く、しかし弱々しさも見えている声を発したのは、黒い長髪の美しい女だった。
「ええ。やってます」オーバーさんは自然と笑みを向けていた。「どうぞ、お入りください」
 女は小さな足取りで店の中に入ると、カウンター席にゆっくりと腰を付けた。そしてオーバーさんが口を開くよりも先に、「苦味を」と湿った声を落とした。
「苦味?」
「苦味をください。私のこれまでの全てを忘れられるほどの、つらい苦味をください」
 女はオーバーさんを見ずに言っていた。その声には、その目には深い暗闇のようなものが見えた。きっと想像を絶するほどの辛さがあったのだろうとオーバーさんは勝手に想像したが、追及は一言もしなかった。
「苦味といっても、さまざまです。しかし今は、私が知る限りの、最高の苦味を出しましょう」
 オーバーさんの寄り添うような声に、女は何も言わなかった。オーバーさんはそんな女の無表情を少し見つめると、すぐに後ろの酒の瓶を手に取った。
 女の前に置かれたグラスに入っていた酒は、黒色だった。その黒は、天井からの橙色の光すらも吸収して、グラスの中に闇を作っていた。上から酒を見る女は光と共に自分の心までもが吸い込まれているような感覚に陥り、とりつかれたかのようにグラスを持ち上げた。唇の間にほんの少しだけグラスのフチをさし込むと、ゆっくりと酒を喉に流す。口に感じたのは苦味だけで、しかしその苦味を、女の体は求めていた。女は知らないうちに、目を瞑っていた。
 女が意識を戻した時、すでに店ではなかった。どうやら、店から身を離して相当な時間が経っているようで、闇が消えかかっている空には、朝日が顔を出していた。

 記者だという男が店の引き戸を開けたのは、女がいってから十分ほどの時間が経ったころで、開口一番に質素な名刺を差し出されたのには、流石のオーバーさんも不意を突かれていた。
「取材、ですか……?」
「ええ。街の片隅にあるこの飲み屋とアナタをぜひ書きたい。今日は客として来てますけど、改めて、どうですか?」
 オーバーさんの意はすでに決まっていた。
「いいえ。お断りします。私はわざわざ、前に出て喋るようなことも無いので」
「ああ……そうですか」記者の顔色はあからさまに暗くなっていた。「なんだかもったいないですけど、まあいいです」記者は苦笑いをしながら、素早く後ろを振り返り、一度閉めた引き戸に手をかける。しかし、それ以降の動きを一時的に止めさせたのは、オーバーさんの「で、何にいたします?」という冷たくも力のある声だった。
「へ?」
「今日は客なんでしょう? 一杯は、絶対ですよ」
 オーバーさんはグラスを拭いていた。

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