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狼少女は実在したのか! アマラとカマラの真実

 今回は教育の大切さを感じさせる逸話で、狼に育てられたと言われている少女「アマラとカマラ」について、お伝えできればと思います。

 この話しは、真偽の程は別としても、教育や療育の大切さや、新しい視点を発見するために役立つかなと思ったからです。

狼少女アマラとカマラの発見

 狼少女「アマラとカマラ」の物語は、インドの西ベンガル州ミドナプール付近で発見されたことからはじまります。

 発見したのは孤児院を運営するキリスト教牧師ジョセフ・シング(以下、シング牧師)でした。

 シング牧師はミドナプールで布教活動中、モーバニの境にあるゴダムリ村の牛小屋に宿泊させてもらいました。

 このとき、現地のチュナレムという男に、「近くのジャングルに恐ろしい化け物がいるから追い払ってほしい」と依頼をされます。

 シング牧師はチュナレムの依頼を引き受けてジャングルに調査に向かうことにしました。

 そして、ジャングル調査を開始した1920年10月17日にシロアリ塚でオオカミと暮らしている2人の少女を発見し保護しました。

アマラとカマラの生活

 シング牧師は2人を連れて10月28日にゴダムリ村を出発。11月4日にミドナプールにある自分の孤児院に到着すると、そこで保護することにしました。

 2人の少女の年齢は不明でしたが、シング牧師は年少の子が約1歳6ヶ月、年長の子が8歳と推定しました。

 そして、11月24日
 年少の子を「アマラ」
 年長の子を「カマラ」
 と名づけます。

 アマラは「明るい黄色の花」
 カマラは「桃色のハス」
 を意味します。

 2人の膝や腰の関節は固く、立ち上がったり、歩行することはできず、四つ足で移動しました。

 食事は生肉と牛乳を好み、手を使わず地面に置かれた皿に顔を近づけてなめるようにして口に入れて食事をしました。

 2人ともオオカミのような振る舞いを示していたのです。

 さらに、聴覚や嗅覚は驚くほど鋭く、70m離れた場所で捨てられた鳥の内臓を察知し、その方向に四つ足で走っていくこともありました。

 目は暗闇でぎらぎらと光り、暗くても目が利き、そのかわり日中は物がよく見えていない様でした。

 また、暑さや寒さの反応に乏しく、真夜中に遠吠えのような声をたてる以外は言葉を発しませんでした。

 シング牧師は、2人を人間社会に適応させようと試みました。

 シング牧師婦人(マッサージ師)が、2人の硬くなった関節をからし油を使ってマッサージをしたり、生肉以外のものを食べるれるように工夫したりして世話をしました。

 日時の経過とともに、アマラは喉が渇いているときには「ブーブー」というような声を出すようになりました。

体調の悪化と死

 1921年9月、アマラとカマラは、体調が悪化し数日間の昏睡状態となります。

 医師の診察の結果、二人が寄生虫に侵されていることが判明しました。

 9月12日には寄生虫を除去手術を行うと、
 アマラの体からは全長5cm前後の寄生虫が18匹
 カマラの体からは116匹
 認められ摘出しました。

 その後、カマラは回復しましたが、アマラは9月21日に腎臓炎で死去します。

 アマラの死を理解するとカマラは両目から涙を流し、アマラの亡骸のもとを離れようとしませんでした。

 アマラが死去した9月21日から9月27日までは1人でずっと部屋の隅でうずくまっていまっていたのです。

アマラの死後

 10月になってもカマラは回復せず、白痴(重度の知的障害の呼び方)のようになってしまいました。

 シング牧師夫人がつきっきりで世話とマッサージをし、ようやく11月の半ばを過ぎる頃にカマラは以前の元気を取り戻します。

 その後、カマラは直立二足歩行のための訓練を開始します。

 1923年6月10日に初めて2本足で立つことに成功し、少しずつ言語を理解し喋るようになりました。

 1926年までに30個程の単語を覚え、1927年に入ると短い簡単な文章なら喋れるようになりました。

 しかし、1928年頃からカマラの体調は悪化し、1929年9月26日に発病。11月14日の朝4時頃、尿毒症によって逝去しました。

アマラとカマラは実在したのか

 「アマラとカマラ」との体験を記したシング牧師の日記は、後に出版されますが、出版の際に
 ・ミドナプールの地方判事E・ウェイトによる宣誓供述書
 ・主教H・パケナム・ウォルシュによる
 「日記の内容が真実であることを保証する」と述べた「まえがき」
 が付されていました。

 ロバート・ジングは
 ・主教のまえがきがあること
 ・野生児の写真が残されていること
 ・「フランシス・マックスフィールド教授やキングスレー・デービス教授など複数の学者からお墨付きをもらっている」こと
 などを挙げて、シング牧師の日記が信頼できるものだとしています。

 しかし、多くの科学者や研究者がこの事例の真実性には数多くの矛盾点があると指摘しており、現在ではシング牧師の話は信憑性がないとされています。

 多くの科学者や研究者はアマラとカマラは先天的障害がある精神的知能の遅れた子供たちだったと推測しています。

現地調査の結果

 社会学者のウィリアム・F・オグバーンは、文化人類学者のニルマール・K・ボースとともに1951年から1952年にかけてこの逸話の真実性についての現地調査を行い、1959年に論文を発表しました。

 論文によると、
 ◇アマラとカマラがシング牧師の孤児院にいたこと
 ◇カマラが言葉を話せない子どもであったこと
 の2点の裏づけがとれたとしています。しかし、同時に次のような疑問点も指摘しています。

 ◆シング牧師の親族(息子、娘)を除くと、カマラを実際に見たと証言した人で、四つんばいで移動したり生肉を食べるところを目撃した人は1人も確認されなかった。
 ※シング牧師夫妻は調査を行った時点ですでに死亡しており、アマラとカマラを保護した際に牧師と同行していたとされる人物たちについても死亡または行方不明となっていた。

 ◆アマラの性格について信頼性のある証言は全く得られなかった。

 ◆シング牧師の日記では、
 「自身がシロアリ塚から2人を救出した」
 と記されているが、救出したとされる日から約1年後の地方紙(「ミドナポール・ヒアタイシ」1921年10月24日付)には、
 「サンタル族によって救出され、のちにシングに引き渡された」
 と記述されており矛盾している。

 ◆シング牧師のもとにアマラとカマラが連れてこられるのを目撃した証言があった。

 ◆アマラとカマラを救出した「ゴダムリ」村が、地図、税金や人口調査の記録、実地の調査を実施したが発見できなかった。

疑惑

 1993年、オグバーンと共に、「Wolf Boy of Agra and Feral Children and Autistic Children」を共同執筆した発達心理学者、作家のブルーノ・ベッテルハイムは、少女2人が生まれつき精神的、身体的に障害を持って生まれてきたとしています。

 また、大学講師の梁井貴史氏は以下のような疑問点から、この2人がオオカミによって育てられたとすることに否定的な見解を示しています。

【授乳の問題】
 オオカミのメスは積極的に乳を与えず、ヒトの乳児も乳首を口元に持って行かないと乳を吸わないため、授乳が成立しない。また、ヒトとオオカミでは母乳の成分が違うためヒトには消化できない。

【移動の問題】
 オオカミの群れは餌を求めて広範囲を移動するが、その速度は50km/hに達する。人間の短距離走者でさえ、最大で40km/h程度しか出せないことを考慮すると、幼児が移動に耐えられるとは考えにくい。

【生物学的な問題】
 暗闇で目が光る犬歯が異常に発達しているなど、生物学的にあり得ない記述が多々ある。

新たな調査

 1975年、イギリスのチャールズ・マクリーンは、ゲゼル児童発達研究所の屋根裏で発見したシング牧師の残した多数の文書を元に、現地調査を行い結果を公表しました。

 ◇アマラとカマラが狼のように振舞っているのを見たという証言が得られた。シング牧師に敵意があると思われる人であっても、アマラとカマラの逸話の真実性は疑っていなかった。

 ◇ゴダムリ村は発見されたが、村の名前が「ゴラバンダ」に変更されていた。村人たちから、チュナレム(シング牧師に化け物退治を依頼した人物)が、数年前まで住んでいた証言も得られた。

 ◇近くのデンガナリア村に住むラサ・マランディという老人が、16歳だった当時にシングとともにアマラとカマラの保護に参加したと証言した。

 ◆地方紙「ミドナポール・ヒアタイシ」のほかに、「ステーツマン」誌やシング牧師から福音伝道協会への書簡、シングの恩師であるブラウン神父への書簡に
「アマラとカマラはサンタル族によって保護され、その後シング牧師に引き渡された」
 と記されており、いずれもシング牧師の日記と矛盾していることがわかった。

この話は真実か?

 このような食い違いについて、マクリーンは詳細不明としながらも、
『シング牧師が2人の救出時に狩猟者の役割をしたことを伝道協会に知られたくなかった』
『アマラとカマラを見物しに孤児院に殺到する人々に辟易して矛盾を含んだ話をするようになった』
 という可能性を提唱しました。

 しかし、その後の研究では孤児院のための金銭確保を目的に口裏を合わせていたことが判明しています。

 フランスの外科医、セルジュ・アロール(Serge Aroles)は、
『「アマラとカマラ」は野性児の考察においての最もスキャンダラスな詐欺事件であるとしています』
 彼は自身の著書「オオカミに育てられた謎の子供たち」で、この事件の研究について以下の様な指摘をしています。

 ◆シング牧師が書いたと主張する日記「2人のオオカミ少女たちの毎日」は、間違いである。これは、インドでカマラの死の6年後の1935年に書かれたものである
 ※原稿はワシントンのアメリカ議会図書館の原稿部門に保存されている

 ◆四つ足で歩き、生肉を食べたりするなどしている2人の写真は、彼女たちが死んだ後の1937年に撮影されたものである。この写真は、ミドナプールから来た別の女の子たちがシング牧師の要望に応じ、ポーズをとっているのを撮影している

 ◆その写真の中の女の子の身体と顔は、実際の写真のカマラのものとは、完全に異なるものであった

 ◆孤児院を担当していた医師によると、
 ・鋭利で長い歯
 ・固定された関節での四足歩行
 ・夜間に強い青の光を放つ夜行に適した眼
 などに類似したものを、カマラは一切持ち備えていなかった

 ◆1951年から1952年に集められた複数の信頼できる証言によると、シング牧師は見物人の前でカマラが自分の指示に従うよう、暴力を振るっていた

 ◆この詐欺は、金銭的な利益を得るために引き受けられた

 ◆シング牧師とロバート・ジングとの間でアマラとカマラで金銭的利益を得ることができるという表現内容の手紙がある。

 ◆シング牧師の日記の出版の後、ロバート・ジングは孤児院を維持する資金を必要としていたシング牧師に500USドルの印税を送金した。

 「アマラとカマラ」の真実性を巡って、その後も様々な論争がありましたが、現在では、人間が狼に育てられるのは生態上困難であることなどから、研究者達により彼女たちは野生児ではなく自閉症もしくは精神障害の孤児だったと考えられています。

 その様な背景からシング牧師の話には創作がかなり含まれているのではないかと推測されています。

まとめ

 この逸話は発達心理学のなかでは有名な話し(多分)です。

 私が学生の頃(記憶はうろ覚えではありますが)は、真実を前提として乳幼児期に養育が与える影響の重要さを再認識した物語だったような記憶でしたが、整理をしてみると真偽も定かではないと言う状況でした。

 私は信じていたので記事を書いてみたのですが、書いた後は否定的になってしまいました(;´・ω・)

 でも、養育や療育、教育が大切だと感じさせるインパクトのある逸話として読んで頂けたら幸いです。

 最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
 このコラムは私の個人的な知見に基づくものです。他で主張されている理論を批判するものではないことをご理解いただいたうえで、一考察として受け止めて頂き、生活に役立てて頂けたらと幸いです(*^^*)

【文献】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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