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綿矢りさの『蹴りたい背中』を、どうすれば映画化できるか、ずっと考えている&行定勲監督が又吉直樹の『劇場』を映画化したことに衝撃を受けた。

綿矢りさの『蹴りたい背中』は、芥川賞受賞作だが、いちども映像化されていない。
僕は『蹴りたい背中』が好きで、何度も読み返した。
僕は、小説を書いているが、もともとは映画やアニメ畑の人間だ。宮崎駿監督が、本を読む時、どうしても文章を映像化しなければ気が済まない、と話していた。それで、小説の中にオーニソプター(羽ばたき飛行機)が登場して頭を抱える。オーニソプターは、おもちゃでは存在するが、人間が乗るものは実用化されていない。そして、宮崎駿の天才的頭脳を駆使して考え出されたオーニソプターが『天空の城ラピュタ』に登場する。

僕も、宮崎駿監督と似たところがあって、文章を頭の中で映像化しないと気が済まない。
綿矢りさの『インストール』は上戸彩と神木隆之介主演で片岡Kが映像化したが、全く陳腐な出来栄えで大コケした。片岡Kは、それきり映画を1本も撮らせてもらえない。
思うに、原作の女子高生の思春期のあやうさ、或いはリリカルな部分を全く映像化できなかったことが敗因だと思う。同じキャスティングでも、岩井俊二監督が撮ったら、全くべつの映画になったのではないだろうか?

綿矢りさの『蹴りたい背中』が映像化されていない理由は想像に難くない。頭の中で映像化することは、そう難しくない。川上未映子の『乳と卵』よりも、遥かに具体的なヴィジュアルが目に浮かぶ。しかし、映像化すると、ものすごく地味なのだ。
『蹴りたい背中』は、女子高生のモノローグが中心となっていて、映画では普通モノローグを多用しないから、ストーリィだけを追いかけると、ものすごく地味な絵面になってしまう。それが映像化されない理由だ。これをどうすれば映画化できるか、映画公開して黒字にできるか、ということを考えると、いくら考えても正解が見つからない。

さて、行定勲監督は一体どうやって又吉直樹の『劇場』を映画化したのだろう?
『劇場』を読んだが、正直言って、全く頭の中で映像が浮かばなかった。主人公はロクでなしの永田だ。又吉直樹が『世界一受けたい授業』に出演した時、太宰治の『人間失格』や田山花袋の『蒲団』を例に出し、小説の主人公は皆ロクでなしであるという持論を展開していた。言われてみれば、『火花』も『劇場』も『人間』も登場人物はロクでなしである。
ストーリィ性が高く、映像が直ぐ頭に思い浮かび、エモーショナルなシーンの多い『火花』と違い、『劇場』ではロクでなしの永田のモノローグが延々と続く。二度と読み返したいとは思わない。『火花』に喩えると、スパークスの徳永が居なくて、あほんだらの神谷の自堕落なモノローグが冒頭から最後まで延々と続く、読んでいて鬱になる小説である。
ストーリィらしいストーリィもない。永田の舞台も、ライバルの舞台も、まるで頭に映像が思い浮かばない。ただ、永田の恋人の沙希が可哀相というだけの小説である。
正直なところ、綿矢りさの『蹴りたい背中』よりも映像化は難しいように思える。
行定勲監督は『世界の中心で、愛をさけぶ』を映画化した。セカチューはストーリィがしっかりしているし、映像化しやすい作品だと思う。(事実、テレビドラマと映画で、2回映像化されている)
『劇場』に関しては、どうやって映像化したのか想像もつかない。劇場で確認したい。

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