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毎日更新で僕が得たもの~文体を変えることは、服装を変えること~

とりあえず100日達成に向けて毎日更新を続けている。

大きな目的の一つは文章の鍛錬。僕がリスペクトする人は、呼吸するように日々質の高い文章を書いている。著名人であろうと毎日ドラマティックなことは起きないし、センシティブな状況を誘発する体験に巡り合うこともないだろう。ただ、そういう優秀な書き手は小さな出来事の中からキラリと光る情念の揺らぎを掴み取る。まるで砂金を採掘するように。

結局のところ、それは感受性と観察力がもたらす資源であることに到達する。写真家に優れた書き手が多いのは、何でもないような日常から「ドラマ」を切り取り、見る者にフレームの外側へイマジネーションを誘う力が優れているからだ。それは俳句の世界に似ている。十七音という言葉の制限から、光景を飛躍させる。ありふれた日常をルーペで照らす。ピントが合った部分を拡張させて、背景に流れる物語へと紡いでいく。

ただ、ここで明記しておかなければならないことがある。僕は今までに「文章を書いている写真家の文章」しか読んだことがないということだ。アメリカンジョークのようなレトリックであるがこれは真理である。つまりは、単なる仮説に過ぎない。

洞察力とは、観察力と想像力を融合させた能力だ。

いつかの文章でこのようなことを書いた。呼吸するように質量の高い文章を書くためには「洞察力」が必要となる。毎日更新を継続して感じたことは、その力が鍛錬されているということだ。洞察によって仕入れた鉱石に磨きをかけることが表現力である。また、研磨の途中で視点をずらす喜びもまた一入であり、文章を組みながら複数の角度から光を当てることで思考は立体化する。気に留めることなく見逃していた現実に(それは「がらくた」とも言える)、価値を与える瞬間である。ピントがずれて見えていないだけで、世界は美しいものであふれている。

毎日更新によって、可視化できる領域は文章表現としての鍛錬であり、目に見えない領域は洞察力の鍛錬である。前者が筋トレであるならば、後者は禅によって精神的な豊かさ(柔軟性)を培うことに近い。普段から文章を書いている人であればわかると思うが、テキストには常に複数のレイヤーが存在している。最も深い層には美意識や哲学、思想などの概念的なものが存在し、そこに重なるように想像、観察、視点、主題、文章と形になって見えてくる。中核を形成するのは抽象的な概念であるから、シリアスな姿勢でそこに向き合うだけで、最も浅瀬にある「言葉選び」は変わってくる。

上辺のスタイルやテイストだけを追っても、付け焼き刃に過ぎない。文章の原動力を高める最も早い方法は、アイデンティティと向き合うことである。選んだ言葉を「自分のもの」にするためには、自己を知る必要がある。誰かの模倣だけでは、吹けば飛ぶようなインスタントな言葉にしかならない。模倣が悪いと言っているわけではない。模倣をするにしても、そこに「自分」を乗せなければ誰の心にも届かない。そして後々、自分の心にも届いていなかったことに気付く。

毎日更新の目的は文章の鍛錬だと書いた。実は、その裏側で並行して実験を進めている。「どういう記事を書けば読まれやすいか」ということである。日々、文章を投稿しながら読者のリアクションをリサーチしていた。内容を変え、文体を変え、表現技法を変えた。それは、細分化された筋肉の局所的なトレーニングのようでもあった。

お察しの通り、このような硬い質感の文章はあまり読まれない。「読まれない」とわかっていて、あえて書いている。ここまで読んでくれた方は普段から活字に慣れ親しんだ人だろう。Facebookでこんな文章を書いたら一貫の終わりである。「こいつはおかしくなったのか?」というレッテルを貼られてフォローを外されるか、あるいは、TLにあふれる投稿の中、目に触れられることもなく、人差し指でスクロールされて消えてしまう。

場所によって文体を変えることは、場所によって服装を変えることに近い。つまりは礼儀だ。知人の結婚式へはデニムとポロシャツで行かないし、登山の時にはエレガンスにドレスアップはしない。それぞれの場所に合った服装を選ぶことは品性である。

noteにはnoteのファッションがある。もちろん「その服を着なければいけない」ということではない。ただ、標準の服装を知ることによって、そこからアレンジを楽しむことができる。「場違いな服装」とアレンジは違う。重なり合う円に、ある一定の面積がなければ黙殺される。個性というのは、アレンジの中で光るものだ。

話は戻るが、読まれないとわかっていて、どうしてこのような文章を書くのか?これもまた実験である。毎日記事を投稿して気付いたことが、とにかくくだらない結論へと至った。結局、読まれるために最も重要な要素は「タイトル」なのだ。ネット検索の一番目に出てくるような結論で、お恥ずかしい。ただ「くだらない」と笑うのではなく、「それほど重要なのだ」ということを僕は伝えたい。

毎日更新の中で、いくつかの記事にあえて僕は読まれないであろうタイトルをつけた。「楚々」「Marble」「ピノ・ノワールの素描」「とりとめなし」。手前味噌だが、内容は悪くないと思う。タイトルを変えれば、PV数を伸ばす自信はある。例えば、昨日書いた「ダイアローグ・ジャーニー」などは読まれない。意図的にやっている部分ではあるのだが、根本的に僕は「読まれないであろうタイトル」の方が好きだ。自分の好みと世の中の好みが必ずしも一致するわけではないことを数多の失敗から学んできた(むしろ一致しないことの方が遥かに多い)。後日、そのリサーチの結果は有料マガジンの方で書こうと思う。

また話は戻る。今回の内容は「多くの人に読まれるタイプの文章」ではない。ただ、意図的に読まれやすいであろうタイトルをつけてみる。文章が硬いので途中で離脱する人もいるかもしれない。ただ、実験のためにタイトルと内容の温度差は大きい方がいい。「毎日更新で僕が得たもの~文体を変えることは、服装を変えること~」というのはどうだろう。普段はあまり選ばない言葉だ。テーマとは少し距離があるかもしれないが、嘘はついていない。そのような内容も確かに書いてある。今日は今日で真面目に書いた内容なので、僕としては一人でも多くの人に読んでほしい。最後までお付き合いいただいたあなたへは最大の感謝を送る。




「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。