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わたしを遠くまで連れて行って

音楽

とあるヴァイオリニストの女性と話をしていました。彼女は音楽家ですが小説や詩にも強い関心を持っていました。どういう話の流れか忘れましたが、僕たちは宮沢賢治の作品について語り合いました。

「セロ弾きのゴーシュは音楽だ」

彼女は確かそう言いました。
宮沢賢治の小説に『セロ弾きのゴーシュ』という有名な作品があります。ゴーシュという名の腕の悪いチェロ弾きの青年が、夜な夜な動物たちから演奏のコツを学んでいくという話です。
「リズム、メロディ、ハーモニーの調和がうまくなされた物語だと思う。賢治は音楽の三大要素をよく知っているからあのストーリーを書くことができたの」と彼女は言いました。

音楽の三大要素(リズム・メロディ・ハーモニー)が最も良いバランスで調和した時、音楽の持つ「訴える力」が最大に発揮されるのだそうです。
全てのチャンネルがぴたりと合う瞬間───扉は開き、聴く者の琴線に触れる。

「全身の毛が逆立つほど響く」

彼女はそう言いました。それはまるで、ザンザンとわめいていた砂嵐が突然止み、クリアな音が流れはじめたかのように。
調和にはそれほどの力があるのです。

この話は『セロ弾きのゴーシュ』を書いた宮沢賢治は、その音楽の「調和」の要素を文学の領域で応用しているということを意味しています。


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文学

先日、詩人の最果タヒさんと作家の町田康さんのラジオを聴いていました。
前編・後編それぞれ一時間ずつ、二人は静かに言葉や物語の話をしていました。

その中で「この世にはあらゆる因果関係があるのだが、文学はそれらの因果の説明のつかないものを描いている」という話がありました(正確ではないです)。
いわゆる「世間一般の因果」とは説明のつかない部分。それは個人的な感性。起きたことはあまねく因果がある。それが複雑に絡み合い、自分の心ではうまく折り合いをつけることができないものが「物語」という形を借りて描かれる。僕はこのように解釈しました。
因果は存在する。しかし、説明がつかないものを僕たちは常に抱えています。

そして二人が共通して言っていたことは「推進力は文体である」ということです。説明がつかないものを文体が先へと連れていってくれます。物語を推進するのが文体です。
そこには言葉の意味、そして音の響きがあります。律動(リズム)があり、旋律(メロディ)があり、和声(ハーモニー)がある。そして、それらが絶妙の調和を見せた瞬間、言葉には言い表せない力が生まれるのです。


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音楽と文学

音楽と文学はとてもよく似ています。
絵画や建築が「瞬間」をつくることに対し、音楽と文学は「時間の流れ」をつくります。一点に物語を見出すことに対して、時間と共に物語を読み進めます。
その時間の流れを推進するのが、音楽的な要素であり、それぞれの調和なのです。


説明はつかずとも、因果に気付かずとも、音楽的文体は僕たちを遠くへ連れて行ってくれます。

どうせなら、僕は自分の想像を遥かに超えた場所まで飛ばしてほしい。
そういう物語と出会えた時、生きている喜びを最大に味わえるのだと思います。



「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。