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音の鳴る方へ

自分が大きく変わる予感がしたときや重大な決断をした時、僕にしか聴こえない“音”があります。高音なのか低音なのか、長音なのか短音なのかは分かりません。共通しているのはその”音”が聴こえた時、わくわくが止まらなくなってやる気に満ち溢れます。僕はこの”音”が好きです。

こんにちは!それからはじめまして!名古屋市高岳、トレーニングジムGOAL-Bにてインターン中の梅木という者です!

僕のことをぜひ知っていただきたいので、長くなりそうですが読んで頂ければ嬉しく思います!長い分、小説みたいな感じで読み込めるような書き方でいきますので、よろしくお願いします!

このnoteでは安定・安全志向の公務員一家に生まれた僕が、楽しそうなことややってみたいことを直感に従って行動に移してきた遍歴を軸に、僕の24年間の経験をまとめていきます。そして読み終えたあなたの心に火がつき行動を起こした瞬間、僕の24年間が無駄ではなく人の役に立てるという証明になります。それでは僕の24年間をどうぞご覧ください!

Sound.0 家族は全員公務員

僕が生まれたのは大分県の日田市という田舎です。古くは“天領”(江戸幕府直轄の土地)と呼ばれ栄えた町で、当時の雰囲気を醸し出す建物が立ち並ぶ豆田や、三隈川に浮かぶ屋形船など観光地として知る人ぞ知る場所です。日本史を勉強された方なら※廣瀬淡窓の咸宜園を思い出されるかもしれませんね。また九州の内陸で盆地という地形の影響で夏は蒸し暑く、冬はやたら寒い組み合わせの土地というのも日田市の特徴となっています。
(※咸宜園:江戸時代最大規模の私塾であり、学歴•年齢•身分に囚われず平等に学ぶことができた。閉塾するまでの約80年で門下生はおよそ5,000人といわれる。)

そんな大分県の渋い観光地、日田市に生まれた僕の24年間は主にこのような人生でした↓


1. サッカー大好きおデブ少年時代
2. ボート競技に出会い、国体8位の高校時代
3. 学生アスリートを志した大学時代
4. 仕事が何か分からなくなった新卒1年目+ニート時代


大きく分けるとこの4つの時代が今の僕をつくっています。こうしてみると楽しい運動やスポーツが好きということは今も昔も変わりませんね笑(体育で行うようなマット運動、鉄棒、マラソン、短距離走は嫌い、水泳は大好き。)

ではこれら4つの時代を語る前にもう一つ重要な僕の構成要素“家族”についてもお話ししておきましょう。

梅木家は僕を含めて4人家族、両親と5歳離れた姉がいます。父は県庁マン、母は小学校の先生という公務員の両親のもとに生まれてきました。しかも2人とも大分県の出身ということで、地元の公務員として働いています。その両親(特に母)の影響もあってか、姉も小学校の先生を目指し現在は自分のクラスを持ち、教壇に立って教え子たちと毎日を過ごしています。

そう、そんな家族の影響もあって、僕は小さい頃から将来は公務員になるんだろうな〜と何となく思っていました。公務員という職業がどんなものなのかは理解していませんでしたが、平日5日間は仕事に行き、土日祝日はほぼ100%休み、安定した収入を受け取りお金に困ることはない、これが普通なんだと信じていました。子ども特有の「家族(特に親)が正しい」という考えが強く根付いたまま大きくなっていきます。つまり僕は【自分がどうありたいか、何をしたいか】なんて二の次で、【こうすれば親が喜ぶ】という考えの強い子どもでした。もちろん子どもながらにやりたいことがありましたが、親がダメと言うなら絶対という価値観が僕の子ども時代をガッチリと固めていました。

今になって思い返してみると、過去の僕にとって“家族”はかけがえのない大切な存在である一方で、ある一定の範囲や場所から離れさせてくれない“鎖”でもあったんだろうなと感じます。もちろんそれは子どもを危険な目に遭わせないという『親のこころ』もあるんでしょうが、僅かに『大きな可能性を信じない』一面も持っています。「危ないからやめておきなさい」とか「続かないだろうからやめておきなさい」という言葉を聞かされてがっくりした経験は何度もあり、その度に【親が言うから正しい】と自分を押し殺していました。

その“鎖”から離れようとしたある出来事が僕を大きく変えていきます。


Sound.1 サッカーがやりたい

小学校に入学した僕はいつもボールを蹴っていました。昼休みに、放課後に、そして休みの日にもボールを蹴ります。そんな僕を見ていた祖父は僕の7歳の誕生日にサッカーボールを買ってくれて、ますますのめり込んでいきました。ちょっと変わっていたのは、ゴールに入れることやドリブルで相手を抜く楽しさというよりも誰より強く蹴ること、飛距離が出ること、壁やバックネットにボールを当てた時に大きい音が出ることが楽しくて仕方がなかったです。ドリブルとかシュートではなく【力があること】を表現したかったのかもしれないですね。(これは現在の筋トレ馬鹿へ通ずるものがあります笑)

そして小学校4年生になった2006年、ドイツでワールドカップが開催されます。くる日もくる日もサッカー中継やハイライト映像が報道され、〇〇代表のスーパープレイ集のような特集も組まれているのを目にしました。そして遂に僕の中で何かが変わります。

サッカーがやりたい

こんな気持ちが芽生えるようになります。これは今までのような「ボールを蹴る」だけのものではなく、「ゴールに入った点数を競う」というスポーツとしてサッカーがやりたいというものでした。この時の僕には何となくやりたいではなく、フィールドに立ってボールを追いかけ回している自分の姿がハッキリと目に浮かんでいます。そう考えるとわくわくが止まらなくなって、今すぐにでも※チームに入りたい想いが強くなりました。(※通っていた小学校の少年サッカーチーム。)

早速家に帰り、家族が揃った夕食の席で僕が言います。

「サッカーやりたいっちゃんね。」

一瞬だけ場が静かになって父が口を開きます。

「キツいし続かんからやめときない。」

やっぱりそう言うよね。小4の割には落ち着いていました。ただしこの時の僕は引き下がりません。

「それでもやりたいきいいやろ?」

少し驚いた表情で両親が僕を見ます。おそらく1回目で諦めずに2回やりたいと言うのが意外だったのでしょう。

「走るの苦手やろ?マラソンも嫌いやろ?続かんって。」

父が追い討ちをかけます。当時の僕はぽっちゃりおデブ体型の小学生。身長がクラスで1番高かったことが唯一の救いでしたが、1番背の低い同級生の1.5倍以上の体重はあったはずです。

「最近は別に嫌いじゃないし、サッカーはただ走るのとは違う。」

梅木少年が反論します。半分は嘘。走るのは本当に嫌い。でもサッカーしたいからいいでしょというゴリ押し理論です。

この瞬間、何かが聴こえました。

暖かい感じで、ほのかに響くけど力強さもあるその“音”は今まで聴いたことのないものでした。自分が変わる瞬間、大きな決断をして新しい自分になる瞬間のあの感覚とともに聴こえてきた“音”。

まだ承諾を得ていないのにわくわくが止まらなくなって、おデブだろうが走るのが苦手だろうが絶対にやれると確信した瞬間に父が言いました。

「そこまで言うならやってみたら?」

やばい。

本気で嬉しい。

初めて自分の本気でやりたい気持ちが両親に届きました。

初めて心配性な家族の“鎖”から離れようとした出来事でした。

次の日にはチームの同級生メンバーに必要なものや練習曜日などを聞いて回って、時間があるときに最寄りのスポーツショップでバッグやソックスを購入して、すっかり気分はサッカー選手です。その間もずっと“音”は聴こえてきました。

僕のチームは小学校の規模もあってか人数もそこまで多くはなく、めちゃくちゃ強いチームというわけではないですがサッカーを楽しむには申し分ありません。練習は火、木、土の週3回、練習試合や大会があるときは日曜日もという感じで、僕の生活がサッカー一色に変わります。

実は小学校1年生から水、土は水泳、金曜日はピアノと充実していましたが、これは姉の影響で何となく始めたものだったので、自分でやりたいと思って始めたサッカーは本当に楽しかったです。しかしここで思いもよらないことが起こります。

4年生以下の大会が開催されるということで、僕も出場できる上に最上級生ということになります。少し浮かれていたんですが、4年生以下のメンバーにはあるポジションが不足していました。ゴールキーパーです。僕の同級生に1人キーパーはいましたが、フィールドに出てみたりキーパーをやってみたりとポジションがまだ定まっていなかったです。そこで選ばれたのが僕でした。

小学校のサッカーあるある
『身長が高かったらとりあえずキーパー』

少し不本意でしたが、まあ身長が高い分活躍すればいいかとこの大会はキーパーとして出場することにします。そして練習の日もシュート練習はやめてキャッチやキック、指示の出し方などをやって知りました。

ゴールキーパーって辛い

こういう言い方をすると反対されそうですがあえて言います。オフェンス陣がシュートを1度外しても負けに直結はしませんが、ディフェンス陣、特にキーパーは違います。1度の失敗で失点、つまり負けに直結するポジションです。しかも小学生なので点が入れば全員が大喜びしますが、キーパーがシュートを止めてもそれほど喜ばれません。むしろ止められなかった時の文句や責任をひとりで受けることにもなりかねません。

自分の想像していたサッカーとは違う世界がゴールキーパーというポジションにはありました。シュートを決めて喜ばれる、注目されるという甘い果実が実るのは、それを支えて失点を抑えるディフェンス陣とゴールキーパーという図太い幹と根があるからなんだと知ります。小学4年生には重いものでしたがこのゴールキーパーの期間があったからこそ、『支える存在』の価値を見出せました。支える人間だってめちゃくちゃカッコいいという考えが、更にサッカーの虜にさせます。

その後、キーパーではなくディフェンスでセンターバックやサイドバックを任せられることが増え、持ち前の大きな身体でブロックするのが楽しくなりました。どんなに足が速かろうと、シュートが強かろうと、身体を止められたら何もできない。自分の仕事はそれだと必死に相手チームのオフェンスにぶつかります。時折ファウルを取られることもありましたが、1度身体をぶつけられて止められると僕のことを嫌がって近づけなくなるのが最高に気持ちいい。ただ、それが出来ずに抜かれてしまうとキーパーに重圧がかかってしまうため、責任感も持ちながらプレイしました。

そして5年生の頃、更に転機が訪れます。数チーム合同の練習試合で、僕のチームにコーナーキックのチャンスがきます。この時ディフェンス陣はカウンターを警戒して相手のオフェンスから離れすぎないようにしつつハーフライン辺りに数人は残します。僕はいつもハーフラインで待ち構える役割がありましたが、監督からの指示が飛びます。

「遼太郎!ゴール前まで上がれ!!」

それを聞いた僕には、またあの“音”が聴こえてきました。

やる気が出てきてどうしようもない。わくわくが止まらない。今まで『守る側の人間』だった僕が『攻める側の人間』に転じている。しかも周りの選手よりも頭一個くらい身長は高いし身体も大きい。


「相手はビビってるんじゃないか?」


「ここで自分が点を決めたらめっちゃ気持ちいいんじゃないか?」


一瞬のうちにそんな考えが巡り、にやけてしまいそうになる。


点を決める自分が目に浮かぶ。


しかもその自分はすぐそこにいる。


そしてコーナーキックでボールが宙を舞う。


綺麗なカーブを描いて僕の方に向かってくる。


一瞬のはずなのにめちゃくちゃスローに見える。


ボールから目を離さずにゴール端に向けて頭を突き出す。


僕のヘディングで軌道が変わったボールはゴール枠内に飛ぶ。


そのまま誰も触れることなくネットが揺れた。


本当に?


決めたの?


僕が?


しかもヘディングで?


気がつくとガッツポーズをして走っていました。最高の瞬間でした。人生で初めてゴールを決めたときの爽快感は、例えようがないほど嬉しくて、身体中に血が巡っている感じがしたのを今でも忘れられません。

あの“音”が聴こえて目に浮かんだ自分が現実になりました。しかも直後に。あの“音”はもしかしたら何かめちゃくちゃ良いことが起こる予兆なのかもしれないなと、何となく気づいた瞬間です。

この日は僕のサッカー人生で最高の一日でした。



Sound.2 ボートがやりたい
前編
『ボート競技との出会い』

小学校、中学校とサッカーを続けた僕は地元の公立の普通科高校に進学しました。そんな15歳の僕はあることを心に決めています。

サッカーだけは絶対にやらん

これは中学時代のサッカー部で、練習中も試合中も顧問の先生からの指示(という名目の罵声)が飛ぶために、サッカーが嫌いになってしまったからです。しかも進学先の高校の顧問の先生はかなり厳しく恐ろしいと聞いていたので、同じ過ちは繰り返すまいと決めていました。中学時代は引退するまでやり切った上に最後の一年はキャプテンにも任命されたので、サッカーに思い残すことはありません。(県大会もベスト8まで行けた。)その上で、何か新しい部活をやってみようと考えていました。

小学生時代にピアノをやっていたこともあり、音楽はめちゃくちゃ好きでした。器楽部に入って音楽系に走ろうか、高校生なら一度はかっこいいと思う弓道部に入ろうか、大学受験のこともあるから帰宅部で勉強に専念しようか、いろんな選択肢があって入学初日からとても楽しい日々が始まります。

しかし、執拗にある部活から勧誘が来ます。

ラグビー部です。

入学当初の僕は体重が97kg、身長177cmほどだったので、逸材に見えたのでしょう笑

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↑高校入学直後の僕


中学のサッカー部を引退した後、高校受験の勉強をしつつも食事の量が変わらない僕は見る見る太っていきました。

運動部引退後あるある
『食う量が変わらずにめっちゃ太る奴がいる』

ですがサッカーと同様にラグビーもやりたくない理由がありました。それは、

コンタクトスポーツが恐い

というものです。

中学のサッカー部ではゴールキーパーを専属でやっていましたが、ある大会の試合中に怪我をしてしまいます。ドリブルの上手い相手選手と僕とで1対1の状況ができ、何とかボールに飛びつくことができ失点を防ぎました。しかし、その際に滑り込んだ相手選手の爪先が僕の左頬に激突し、見ていられないほど腫れ上がりました。試合中も、家に帰ってからも尋常じゃない腫れと痛み、そしてあざが数日間続きます。あと少しズレていたら失明していた、と病院の先生に言われた時は顔が青ざめました。その日から『ぶつかるスポーツはもうやらない』と心に決めていたんです。

このような経験があったためラグビーもやりたくないと思っていました。でも、先輩たちはちょっとやそっとじゃ引いてくれません。あまりにもしつこいので、

「明日練習の様子を見に行きます!」

と言ってその場を終えました。そしてようやく落ち着いて先輩数人が帰ってくれたと思った矢先、同級生の男子Tが僕に話をかけました。


「ボート部見に行かん?」


ボート部?絶対きついやん無理無理無理。始めから諦めモードに入っています。でも話を聞いてみると、そのTのお兄さんが今3年生でボート部に入っている、練習そのものはキツいらしいけど先生は優しいし全国優勝経験もある、と言います。

数年ぶりにあの“音”が聴こえました。

何となくだけど楽しそう。
乗ってみたい。
ボートを漕いでみたい。
全国優勝ができるかもしれないなんて、
こんなチャンスないかも。

僕はわくわくを胸にボート部の見学に行きました。


高校のボート部は多くのチームがマイクロバスを保有しています。遠征が多い上に学校から練習場までが遠いチームもあるため、マイクロバスは必須です。僕の高校は練習場まで約10kmあったので、顧問の先生が毎日運転して下さっているということでした。既に僕の中の『顧問の先生像』が壊れ始めた瞬間です。ただうるさくて指示なのか罵声なのか分からない言葉を発する存在だったものが、生徒の練習のために毎日バスを運転して下さる、しかもかなりの実力者というものへ変わっていきます。

そんなことを考えながら着いた先は、日田市の旅館街付近にあったボート場でした。普段の練習場ではなく、市内で楽しくボートを漕げる短いコースにて初めてボートに乗ってみます。

乗せてもらったのは※舵手付きクォドルプルという高校ボートで1番大きい船でした。真ん中2席は僕を含めた1年生が乗り、両端の2席は先輩が乗ります。桟橋から船を押し出し、いよいよ水上の世界です。(※舵手付きクォドルプル : 漕ぎ手4人+舵取り1人、計5人の船。)


すぐ横の水面に、揺れる自分の顔が写る。

少し揺れるのが恐い。

オールから伝わる水の重さ。

水ってこんなに重いんだ。

水の上から見た景色って不思議で綺麗だな。

後ろ向きに進む感覚って恐いな。

普通の乗り物とは違って前へ景色が流れるの面白い。

息を合わせて漕ぐって難しい。

めっちゃ疲れるけど、
船は止まることなくひたすら進む。

なんだこれ、超楽しい。


気付いたら桟橋に戻り、川岸に立っていました。また“音”が聴こえます。

ここだ。
サッカーでも、
音楽でも、
弓道でも、
勉強一筋でも、
ラグビーでもない。
ボートだ。
ボート部に入ろう。
そして全国大会に出場してやろう。

顧問の先生がバスで高校まで送って下さり、解散した後先生のもとへ行きました。


「僕、1番入りたい部活はボート部です。」


楽しかったです、と言うつもりがこんな言葉が出てきました。それでも不思議には思いません。


「そうか、それは嬉しいな。お前なら全国に行けるよ。絶対に。」


“音”が大きく聴こえます。

全国大会に出場してる自分が想像できる。
子どもみたいにわくわくしている。
何故か分からないけどやり切れる自信がある。
誰が何を言おうと自分を信じられる。


すぐに自転車に乗って家へ向かい、両親へ伝えようと思いました。家族が全員帰ってきて、揃った夕食時に両親へ報告です。

「俺、ボート部に入るわ。」

するとまたあの日のように両親が言います。

「ボートはきついって!流石にやめちょきな!」

またこれだ。内心うんざりしながらも、とりあえず話を聞きます。

「あれは本当にきついやろ。全国大会とか国体とか行っちょるし、練習も厳しいって!」

止めるつもりで言っているのでしょうが、
逆に僕をわくわくさせます。
全国大会?国体?だからきつい?
逆に練習次第で全国に行けるってことやん。
この間もずっと“音”が聴こえます。

「もう入るっち決めたき。」

絶対やれると信じている自分が恐ろしい。

わくわくで身体が震える。

「分かった、やってみない。応援しちょる。」

よし。もぎ獲った。自分の意思を。

また少しずつではありますが、心配性な“鎖”から更に離れようとした瞬間でした。翌日、ラグビー部の練習に顔を出してちょっとだけボールを触ったりミニゲームに参加したりしましたが、頭の中はボートのことだけです。その翌日にはボート部の顧問の先生のもとへ入部届を提出しました。僕の人生を大きく変えた最初の分岐点は間違いなくここだと改めて思います。

Sound.2 ボートがやりたい
中編
『身体が変わると人生が変わる』

ボート部に入部した僕を最初に待ち構えていた試練は、トレーニングの強度でした。とにかくきつい、きつい、きつい。入部時の体重は97kg、殆どが脂肪の僕は気合いで動くしかなかったです。具体的なメニューとしては、船に乗って実際に漕ぐ『乗艇』(じょうてい)、陸上でトレーニングをする『陸トレ』の2つに分かれており、中でも陸トレが幅広い上にきついものでした。というのもボート競技は全身運動であり、特に体幹周りの筋肉が定まってないとすぐに怪我をしてしまうスポーツです。ただ単に腹筋などを行なって補えるようなものではないため、階段トレーニング、坂道ダッシュ、ランニング、サーキットトレーニングなど全身を鍛えつつ心肺機能や筋肉も補強していきました。

でも辞めなかった、いや、辞めようなんて微塵も思わなかったのには理由があります。それは、

全力で取り組む仲間、そしてやった分だけ
きちんと評価してくれる顧問の先生がいたから

これです。先輩や同期も必死な顔をして、滝のような汗を流して取り組みます。きつくて身体が止まりそうになった時、


「ファイト!!!!」


と声を掛け合いながら少しでも追い込む、動き続ける、そんなトレーニングが好きでした。そして何より顧問の先生がちゃんと見てくれて、評価もしてくれます。


「かなり動けるようになってきたな。」


そう言われるのが嬉しくてたまらなかったです。中学までの部活とは全く違う、確実に強くなっていく実感やチーム全体の士気が上がる感覚によって、ますますボートにのめり込んでいきます。

そして気づけば6月半ば、九州は梅雨のど真ん中という時期に入り、船に乗る乗艇メニューが組めなくなってきます。(練習場がダム湖なので、雨が降ると水位の関係で漕げなくなりやすい。)九州というだけで蒸し暑いのに、ここは日田盆地です。身体からキノコが生えそうなくらいジメジメとした空気が更に汗を噴き出させます。

そんな蒸し暑いある日の昼休みに、クラスの女の子から声をかけられました。


「梅木くん、めっちゃ痩せちょらん?」


確かに少しは動きやすくなった気はするけどと思いました。ですが当時の僕は自分の姿にあまり関心のない男子高校生です。女子高校生とは違って体重を気にしたり、太った痩せたで一喜一憂することはありません。その時は夏も近いから顔が細くなってきたんだろう位に思っていましたが、帰ってから体重を測って驚愕しました。


「82kg?!」


ボート部に入部してから15kgほど体重が落ちていました。そして中学校の卒業式の写真を見て更に驚きます。

「顔が別人みたいになってる笑」


丸かった顔が縦長に変わり、何となくキリッとした面持ちの自分を見て思わず笑ってしまいました。仕事が終わり帰ってきた家族に聞いてみると、「今更かい笑」と言われたので、自分が1番気づけてなかったようです。その日の夜にこの激痩せエピソードを話すと、

「私らの脂肪も預けるき、燃やしてきて笑笑」

と両親が笑っていたのをよく覚えています。

それから事あるごとに

「痩せたね!」

「部活めっちゃやり込んでるんやね!」

と言われるようなり、本当に嬉しい気持ちになります。おデブ歴15年の僕が身体を褒められるなんて信じられない、みんなが僕のことを『すごい人』だと思ってくれている。ここで僕は自分の身体をもって、ある真理に辿り着きます。

身体が変わると人生が変わる

まさにボディメイクの概念です。これまで太っていた自分、醜いと思っていた自分が運動して痩せるだけですごい人だと思われる。自分のことが少しずつ好きになっていく。自信がついて普段の生活にもプラスの影響を与えてくれる。身体が変わるってすごいことなんだ。おデブまっしぐらだった人生が大きく変わったんだ。

高校1年生の夏までに、僕は自分の身体を通してこの考えを持つことになります。

更に夏場の猛烈な暑さの中の乗艇、冬場の本格的な筋トレやスプリントトレーニングなどを通し、筋肉を増やしつつ心肺能力を高める期間を経た僕の身体は、より筋肉質で脂肪の少ない77kgの身体になっていました。ボート部に入ってから実に20kgも体重が落ちていたのです。時折周りの先生から何かの病気なんじゃないかと心配されることもありました笑

この1年間を通して、僕は運動をして痩せることにとてつもないパワーが秘められていることをますます実感します。更に、中学までずっと太っていた自分ですらここまで変われたんだから、痩せることって誰にでもできるはずだと確信するのでした。もちろん、それはトレーニングに励み合う仲間や導いてくれる先生、そして自分の熱意があったからこそです。しかし裏を返せばそれらの要素さえ揃えばダイエットは誰にでもできるものだと悟りました。

Sound.2 ボートがやりたい
後編 
『繋ぐこと、やり切ること、もぎ獲った全国8位』

僕のボート人生が1番動いたのは間違いなく、キャプテンを務めた高校3年生の時です。毎年6月に行われるジュニアオリンピックカップ(通称JOC)ではU-19世界選手権の日本代表選手を選抜します。当時の僕は2人乗りのダブルスカルという種目でインターハイを優勝することを目指しており、このJOCで出来るだけ上位に行くことで個人の力を伸ばそうと考えていました。(JOCは全員1人乗りのシングルスカルという種目での参加。)

それがなんと僕の相方のTが3位になり、日本代表入りします。というより、してしまいます。というのもインターハイの期間と世界選手権の期間が被っており、代表入りとはつまりインターハイに出場できないということだからです。相方と自分のコンビで勝ち取ろうとしていた日本一、本気で達成できると思っていた『インターハイ優勝』が崩れ去っていく絶望の中、相方の代表入りを表面上では喜んでいました。

その様子を見た顧問の先生が僕に声をかけます。


「クォドで後輩と乗ってくれんか?」

(クォド:クォドルプルという種目の略称。)

一瞬、憤りを感じましたが冷静に聞きました。


「インターハイの舞台を経験させられるのはお前だけや。」


そう。1年前の福岡で行われたインターハイでも僕はクォドルプルに乗っていました。そこで引退する先輩と一緒に乗り、負けたときには大泣きしました。あの時乗っていた自分だからこそ後輩に伝えられることがある。その意味を込めて言われていることに気がつき、ハッとします。1年前の『負け』を知っているからこそ伝えられること、『キャプテン』として伝えられることは何かを考えさせられました。


「分かりました。」


あの“音”が聴こえてきます。

キャプテンとして
次の世代へ繋げるために
やれるだけやる。
先に引退した同期の分も漕ぎ切る。
ダブルには乗れないけど
クォドでインターハイを獲ればいい。
そして後輩を育てるんだ。
やれる。
絶対にやれる。
俺なら、俺らなら絶対にやれる。


いつの間にかインターハイの舞台でガッツポーズをしている自分と後輩たちの姿を思い浮かべていました。するとわくわくが止まらなくなって身体が震えてきます。それからの期間は後輩3人と僕、※舵手の5人で1つの船に乗り練習の日々を送りました。(舵手:コックスという舵を取るポジションのこと)

結果、準決勝に行けずに負けてしまいました。全てをやり切って負けたので涙が止まりませんでしたが、あの時「分かりました。」と返事して良かったと心から思います。

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↑山梨県富士河口湖で行われたインターハイ



実はこの時に一緒に乗った後輩たちが中心となって一年後のインターハイ、国体で入賞しますが、それはまた別のお話。

そして高校生最後の全国大会が国体です。国体は少年の部、成年の部に分かれており、それぞれの競技で都道府県ごとに選抜チームを組み競います。そして順位に応じた得点がその都道府県に入り、最終的な合計点数で全国の順位を決定します。ボート競技は人数が多い種目ほど得点が多いという仕組みになっているため、1人乗りのシングルスカルよりも5人乗りのクォドルプルの方に力を入れます。つまり、出場権を獲得できた種目において、人数が多い種目に戦力を固める傾向があるということです。

今回、大分県の少年男子が出場権を獲得した種目はシングルスカルとダブルスカルの2種目3名です。(各地方ブロックごとに予選が行われ、上位になると本戦への権利がもらえる。)そして国体に出場する選手は僕を含めて3人が候補です。全員が出場できるという甘い考えは微塵もありません。僕はインターハイで一緒に乗れなかった代表入りのTとダブルスカルに乗って絶対に優勝すると決めていました。

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↑3月の全国選抜大会でダブルスカルにエントリーした梅木と相方のT


ですが、そううまくもいきません。

選考で僕以外の2人が上位、つまりダブルに乗ることになりました。僕は当時最も自信のないシングルで国体に臨むことになります。


絶望。

不安。

諦め。


選考直後に頭をよぎっていたのはこれだけでした。ようやく叶うと信じていたダブルでの全国優勝が目の前から消えていきます。

ダブルに決定した2人は早速練習をするために船やオールの調節を行なっていますが、僕は離れたところからコースを眺めていました。

もう、どうでもいいや。


その時に顧問の先生が僕に声をかけます。


「今日はもう練習はいいから、※審判艇に乗れ。」


え?と思いながらも審判艇へ乗り込みます。
(※審判艇:レース中の安全確保のための伴走用のモーターボートのこと。練習中の指導はこれに乗って行うことが多い。)

乗れなくなったダブルの練習を審判艇から見る、なんとも不思議な気持ちでした。何のためにここに乗せたんだろうと思った矢先、先生が口を開きます。


「お前は全部やったんか?」


普段からは想像できない、少し強めの口調に驚きました。


「やること全部やって、それでもダメやったら落ち込め!まだ終わってないやろ!」


審判艇を運転しながら、背を向けたままの先生はそれだけを僕に言いました。


“音”が聴こえる。

国体まで続ける意味を考えろ。
他の同期の分も戦え。
まだ終わっていない。
もう中途半端に負けたくない。
1人でもやれるって証明する。
『俺』が速いってことを見せつけてやる。


わくわくを超えた闘志が燃え盛るのを感じました。高校最後の全国大会が自分自身の速さを証明する絶好の機会だということに震えが止まらなかったです。

レースは1000mの距離で行われ、シングルスカルはおおよそ3分40秒で決着がつきます。その中での僕の弱点はスプリント系です。高回転で一気にトップスピードを出すことが苦手で、中回転を持続させることは得意でした。つまり、スタートダッシュとラストスパートで高回転とスピードを出せれば、中盤は自慢の体力が支えてくれるという作戦のもと、スプリントの練習をやり込みました。スタートダッシュの1分スプリント、ラストスパートの1分スプリント、スタート500mスプリント、ラスト500mスプリント、どれだけの本数行ったかは覚えていません。ただ、

やれることは全部やる、やり切る

これだけを考えていました。

そして長崎国体当日、予選を勝ち抜いて準決勝へ進んだ僕は入賞目前というところに来ていました。準決勝は4艇レース、1着が決勝(1位から4位)へ進み2着が順位決定戦(5位から8位)に進みます。つまり2着以内に入れば入賞が確定します。

レースは残り250m。

ダントツ1位で通過中の選手に続いて僕ともう1人が並ぶ、激戦の2位争いという場面。

心臓が、肺が、破裂しそうなくらい痛い。

脚に乳酸が溜まってほぼ感覚がない。

ここまで回転数を維持できた体力に感謝。

よし、やるか。

“音”と一緒に自分の声が聴こえる。

いける。
絶対いける。
ここまで耐えたんだ。
あとはスプリントをやるだけ。
それで俺の勝ちだ。
死ぬほどきつい。
それなのにめっちゃにやけそうになる。
めっちゃわくわくする。
そして、超楽しい。

今までで最高のスプリントでした。限界近くまで疲労したうえに心臓はバクバク、呼吸もめちゃくちゃ荒いのに、身体は軽く動きました。

そしてゴールラインに入ったと同時に、僕がゴールしたことを知らせるブザー音が聴こえます。

一瞬の間を置き乱れた呼吸と揺れる視界の中で僕が目にしたのは、先程まで真横に並んでいた選手が遅れて今まさにゴールし、ブザー音が鳴る様子でした。


勝った。


気がついたらガッツポーズをしていました。決勝に行けなかった、優勝できなかった、いや、それはもうどうでもいい。初めて全部やり切ったことが嬉しかったです。国体で入賞が確定した、しかも最も苦手だったシングルでというのが更に喜びになります。本当にやり切れた、出し尽くした、あの選考の日に諦めなくて良かった。

入賞が確定した僕を1番喜んでくれたのは、言わずもがな、顧問の先生です。

翌日の順位決定戦、同級生が多い組の中で精一杯戦ったのち、8位入賞という結果で高校最後の全国大会を終えました。

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↑長崎国体表彰式後の大分県選抜少年チーム


Sound.3 大学でもボートを漕ぎたい
前編
『人生の即決と受験物語』

時を少し遡りJOCが終わった頃、大学ボートへの道が突然開かれることになります。代表入りした同期のTが大学チームから注目され、その結果日本大学へ進学することを決めました。世界選手権やユニバーシアードの日本代表選手を続々と輩出する名門中の名門です。そしてその様子を見ていた僕は1人惨めな気持ちに駆られています。たった一度の大会で、ずっと一緒に過ごしてきた相方とこんなにも差が出てしまうということが受け入れられずにいました。

すると顧問の先生が、ある大学チームから僕へスカウトが来ていることを知らせます。

「遼太郎、明治から推薦が来てるけど、どうするか?」

明治大学ボート部、こちらも超名門ボートチームで先輩方はかなりの強豪校出身者が多く、インターハイ王者や全国選抜優勝者、世界選手権代表も在籍しているチームです。更に、冬に行われた日本代表選考合宿で約1週間ほどの期間、部屋やお風呂、食事を明治の合宿所でお世話になったこともあり、チームの雰囲気も何となく知っていました。ご飯を食べる時やお風呂に入る時はかなり和やかで楽しく、練習の時は眼の色を変えて船に乗る、そんなオンオフのはっきりしたチームです。

あの“音”が聴こえます。

大学ボートなら明治が1番自分に合ってる。
Tが日大なら、俺は明治でやってやるよ。
確か全国優勝経験者もたくさん在籍してた。
あの先輩方とボートを漕いだら、
自分はどこまで速くなれるんだろう?
全く想像もしていなかったけど、
大学ボートで更に上を目指したい。
※全日本選手権で優勝できるチャンスだ。
(※国内最高峰の大会。実業団や大学も出場可)
このチャンスを逃したら、絶対に後悔する。
そして、めっちゃ楽しそう。
わくわくが止まらない。


「行きます!」


一瞬のうちにいろんな考えが頭を駆け巡って、いつの間にか返事をしていました。即決でした。この時の僕は今までと大きく違い、その場で、自分だけの判断のもと、わくわくするからという理由だけで人生における重大な決断をしました。親に相談する、そしてダメと言われれば諦めていた数年前とは明らかに違い、【自分がやりたいことをとことん追い続けたい】という欲求にのみ従った瞬間であり、“鎖”を断ち切った瞬間です。

人生における重大な決断がこんなに突然やってくるとは思ってもいませんでしたし、それに対し即決で返事をする自分に驚きました。

先生は

「分かった。」

とだけ返し、その場は終わりました。後で知ったことですが、この僕の決断を実現させるために学校側へ掛け合い、更に尽力して下さったようです。

先生の尽力の末、明治大学への推薦入試の受験が認められましたが、1つ大きな問題がありました。僕は高校3年生に進級した時点で『理II』というクラスに入っていました。理は理系、IIは国公立大学進学コースという分類です。そして『理II』の僕は原則として私立大学の推薦入試が受けられないという立ち位置でした。ただし、【大学側から名指しの推薦が届いた場合は検討する】という特例に該当したため、受験を許可されることになります。

良かったと胸を撫で下ろそうとした矢先に、とんでもない条件を突きつけられます。【センター試験、並びに国公立大学の入試を受けること】を条件に、明治大学への推薦入試を認めるとのことでした。


え?????

何なんそれ?????

別に良いでしょ!


大学に向けてボートの練習させてよ!

教師が揃って嫌がらせか!!!!!


僕の高校は普通科の公立高校です。(自称)進学校なので、

『国公立合格者○○名!』

というネームバリューがどうしても必要です。高校の事情というか、大人の事情というか、とモヤモヤしながらも明治へ行きたかったので渋々承諾しました。

(ちなみにTは『理I』に進級しており、私立を含め公務員や専門学校などを目指すクラスだったので、何の問題もありませんでした。)

そしてここから地獄が始まります。

明治への推薦入試は11月半ばに行われます。時期としては国体の1ヶ月ほど後です。面接練習をきっちり行い、『貴学のボート部で日本一を獲りたい』という熱意、『なぜ明治なのか』ということを伝え、1ヶ月後には合格通知を受け取ることができました。

しかし安心する暇もないくらいに、その間もセンター試験対策の勉強は鬼のようにしなければなりませんでした。授業では過去問をとにかく解いて解説を受ける、予習•復習なんて呼吸のように当たり前、そしてクラス中がピリピリしています。それは別に気にしていませんでしたが、仲の良かった友達のある言葉が突き刺さりました。

「明治が決まってるし、別に無理して本腰入れなくても良いんじゃない?」

唖然としました。そんなことを思われていたんだ、確かに俺はもう行く大学が決まってるよな、という気持ちが湧き出てきます。わざわざやることないよと励ましてくれているようにも聴こえましたが、

「お前はもう決まってて良いよな。」

と言われているようにも聴こえました。確かに、みんなは滑り止めすらこれからで、半端じゃないプレッシャーと不安の中勉強しています。模試の結果に自暴自棄になりながらも学校へ来ています。そんな中、僕のようにスポーツ推薦で進学が決まっている人間が羨ましく思えるのも仕方ありません。しかも、僕の受験の条件は【センター試験と国公立入試を受けること】であり【合格すること】ではないため、適当に済ませれば良いでしょという考えを持つ人も出てきます。それでも妙に生真面目な僕は周りと同じつもりで勉強していました。

僕はその時、壊れてしまいそうでした。


今の俺も、やらされてる身なんだよ。


本当なら毎日トレーニングして、大学で出遅れないようにしないといけないのに。


辞めれるなら今すぐ辞めたい。


行かない大学のために勉強してるこの時間には何の意味があるんだ?


これって、誰のための勉強なんだ?


訳がわからなくなった僕は、翌日学校を休みました。母に今日だけは行きたくない、行けないと伝え、部屋に篭りました。その日は大学で早くボートを漕ぎたいと思いながら、長崎国体8位の賞状を眺めて1日過ごしたのを覚えています。

その翌日には学校へ行き、いつものように授業を受けました。すると昼休みに顧問の先生から呼び出されたので、職員室へ向かいます。先生は職員室のすぐ外にあるブースにいました。そして着席して僕に話しかけます。

「今の状況が辛いか?」


『本当に辛いです。』

「そうか..........。」

『誰のためにここまでやってるのか分かりません。』

「確かにそうだな..........。」


少し沈黙が訪れたところで、先生が口を開きます。

「ただ、最後に自分の行動を決めれるのは自分だけだからな。やるもやらないもお前の自由。どっちでも辛いぞ。お前は真面目だからこそより辛い思いをするだろうけど、それでもやるなら俺は応援するからな。」


そう言うと、教室へ帰されました。しかし教室へは行かずボート部の部室へ駆け込み座ると、自然と涙が出てきました。張り詰めていた何かが、先生の言葉で一気に解かれてほっとした感覚です。残りの昼休みの時間は部室で声を堪えながら泣いていたのを覚えています。

その日僕は決断します。どこでもいいから国公立大学の合格通知をもらうために猛勉強する、周りの声や目は一切気にしないと腹を括りました。更に勉強もしつつ、大学で出遅れないためのトレーニングもやり、タイムトライアルの自己ベストを更新させると意気込みました。

決断をしてからその日以降のスケジュールは一気に変わります。朝は早く学校へ行き、入試対策の授業を1日受け、放課後は1時間ほどトレーニングをし、その後図書館など家以外の場所で夜まで勉強する。

そんな1日を繰り返し少しずつ成果が出てきた頃には、タイムトライアルでの自己ベストを大幅に更新し、模試も割と安定した点数を取れるようになりました。(タイムトライアルは全国ランキングトップ5に入ってました。)

今まで僕が経験してきたことみたいに「やりたいこと」や「わくわくすること」のような、ある意味純粋なやる気ではなかったですが、まさに必死になって時間を過ごすように変わったのを覚えています。当時の僕の原動力は「受かりたい」ではなく、「先生やボート部の顔に泥を塗るわけにはいかない」というものでしたが、3年間培った僕のプライドが妥協を許しません。

そしてセンター試験、前期試験を受けた後、受験した大学からの不合格通知が届きました。受からなかったかと残念な気持ちもありましたが、それでも何故だかとても清々しい気持ちでした。ここまでやり切って初めて、この期間の勉強が役に立つかもと前向きな気分になり、地元を離れ僕は明治大学ボート部へと進みました。

Sound.3 大学でもボートを漕ぎたい
後編
『最高峰の花形種目、全日本選手権男子エイト』

僕は大学時代にありとあらゆる種目で各種大会に出場し、それなりの成績を収めています。自分が出場した大会の種目やメンバー構成、練習の様子やクルーの雰囲気など全て覚えていますが、その中でも大学2年生の全日本選手権について語っておこうと思います。

ボート競技の花形種目であるエイトは、その名の通り8人が漕ぎ手として同じ船に乗ります。更に舵を操作しレース展開や作戦を判断し、クルーに伝えるという司令塔の役割を持つコックスを含めた9人1チームの種目です。何と言ってもこの漕ぎ手8人が息を揃えるのが難しくもあり、完成されたチームは恐ろしく速くそしてかっこいい。勝負の駆け引きがコックスの指示で大きく変わってしまう。心身ともに鍛え上げられたトップメンバーだからこそ実現できる。まさしく一矢乱れぬチームワークが観る人を虜にさせる、それがエイトです。

そして学生、社会人全てのボート選手が出場でき、全国の頂点を決める全日本選手権では実業団や大学チームがトップエイトのメンバーを揃えてきます。つまり、全国の各強豪チームが選ぶトップ選手たちのぶつかり合いが観れるのが全日本選手権の男子エイトという種目です。

高校生のボート選手はこの全日本エイトを夢に見ます。かっこいい、自分もこの舞台で戦いたい、高校時代の僕もそんな憧れを持っていました。まさか自分がこの舞台に立つ日が来るなんて想像もしていません。

僕が大学2年生の時、明治大学ボート部は大きな挑戦をしていました。それは、全日本クラスの大会で男子エイトを獲るということです。大学生が出場でき、年齢制限のない全日本クラスの大会は3つあります。まず5月の全日本軽量級選手権、次に9月の全日本大学選手権、そして10月もしくは11月の全日本選手権という流れで各チームはクルー編成のために選考を行うということです。

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↑全日本軽量級選手権の男子エイトの様子


この大きな挑戦にはとある先輩Oさんが中心にいました。彼は当時4年生、つまり学生最後の1年を全力で挑戦するという意気込みで周りのメンバーを動かします。僕とその先輩はその年の冬場にずっと同じ船に乗ってトレーニングしていました。しかも2人乗りの種目で。Oさんはコーチ陣に「梅木を育てたい」と申し出て、自ら同じ船でのトレーニングをするようにセッティングしました。その理由が、【来年のエイトは梅木中心になるから】ということらしいです。それを聞いた時の僕には実感が湧いていません。というのも、当時の僕はチーム内でも平均程度の実力で1年生です。同期や先輩は軽量級や大学選手権でバンバン優勝しているのに、僕は1年目で何も結果を残せていません。でも、【梅木が育つとエイト優勝が見える】と言い張ります。更に、当時の明治は大学選手権でエイトから逃げるような形を取っていました。他の4人乗りや2人乗りの種目に戦力を置き、エイトには選考落ちのメンバーを乗せる(通称ゴミ箱エイト)、という方針が数年続いていたみたいです。そこから一気にエイト優勝へ移行する大きな挑戦。そしてそこには僕がいる。


いつ以来だったか、“音”が聴こえてきます。

本気で言ってる?
俺次第でエイト優勝が見える?
何それ、めっちゃかっこいいやん
絶対わくわくする
というかもうわくわくしてる
やりたい
エイトで日本一を獲りたい
できる
絶対できる


そこから冬場のトレーニングをOさんと共に行いました。時にはぶつかって喧嘩のような雰囲気になることもありましたが、それでも再び結束するのが体育会です。そして2人のトレーニングの集大成としてU-23の日本代表選考にも参加しました。代表入りは叶いませんでしたが、2人の最速タイムを叩き出すことができたので、やり切ったことに達成感を感じつつシーズンインします。

先輩の思惑通り、この年僕は全ての全日本級の大会においてエイトに乗っていました。軽量級では実業団最強のNTT東日本に敗れ2位、大学選手権では大学最強の日本大学に敗れ2位という負け続きの中でしたが、全日本を獲ることで全て取り返すという意気込みです。
そして全日本選手権最終日、明治大学は男子エイト決勝の舞台にいました。もちろん、僕とOさんも乗っています。それも僕の真後ろにOさんというポジションで。決勝はあの時と同じ4艇レース、対戦相手はNTT東日本、日本大学、そして明治安田生命という超強豪の3チームです。

ずっと“音”が聴こえていたレース中の感情と感覚は今でも忘れられません。

心臓と肺が破れそう
今俺は命を削って漕いでるなあ
視界が霞む
呼吸が乱れる
でも身体はめっちゃ動く
Hさん(コックス)の声しか聴こえない
集中力が半端ない
これが全日本エイト決勝か
何この速さ
こんなスピード出せるんだ
俺らすごすぎる
Oさんマジお疲れ様でした
ありがとうございました
やばい
超楽しい


スポーツ系の漫画やアニメで“ゾーン”という表現をされる境地があります。集中力が研ぎ澄まされて練習の時以上の技ができたり、直感で先読みのプレーができたり、と“ゾーン”に入ったキャラクターは“覚醒”とも呼べるようなパフォーマンスを見せることができます。このレースで僕たちは間違いなく“ゾーン”に入っていました。


ゴール付近では観客や応援団の皆さんからの大歓声が聞こえてきます。この瞬間を見ようと1000人規模の人がコースを眺め、声援を送ります。幻聴なのかもしれませんが、その大観衆の中でも
「明治〜!!!」
と叫ぶ声は聴こえてきました。

そしてゴール。

全ての選手が満身創痍になるまで漕ぎ切りました。

数十秒ほど経ち呼吸も荒くふらふらしている中、後ろのOさんと握手。


『お疲れ様でした、そしてありがとうございました。』


「俺の方こそありがとう。」


優勝はNTT東日本、そして2位が日大か明治かという激戦、4位が明治安田生命です。結果明治は0.11秒差で日大に敗れ3位でした。

冬場からの修行のようなトレーニングと各種大会の経験を全て出し切った結果の全日本エイト3位。「負け組」、「NTTには敵わない」と言われたこともありましたが、誰が何を言おうと僕はこの結果とチームメイトを誇りに思っています。

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↑全日本選手権男子エイトの様子


Sound.4 この人たちと働きたい
前編
『消えた新卒1年目』

大学を卒業後、僕は千葉県にあるホテル会社に就職しました。高校生の頃からボート部の合宿や遠征などを数多く経験してきた中で、「宿泊施設って面白そう」という気持ちがあったからです。あの遠征はこんなホテルに泊まった、朝食はこんな感じだった、そしてお風呂は大浴場で思いっきりくつろいだ、というような思い出に残る場所が宿泊施設です。しかも僕のような遠征の多いアスリートだけではなく、旅行に来たカップルや夫婦、出張のサラリーマン、アーティストのライブに当たった学生など、沢山の方々が利用します。その“思い出”に残るサービスに携わりたいと思ったので、ホテル業界を選びました。

僕のいたホテルでは様々な形での宴会や祝いの席、そして法事などの「宴会業務」や併設レストランでの接客等を行う「レストラン業務」そしてフロントや電話対応などの「フロント業務」というように多くの業務がありました。更に夏限定のビアガーデンを屋上で行うというようなイベントもあり、それらほぼ全ての業務を経験しました。1つだけではなく業務の種類が沢山ある、それだけ仕事の幅が広く自分が経験したことのないこともできる、それがこのホテルを選んだ理由なので仕事をどんどん覚えていきます。

学生時代に接客のアルバイトをあまりしたことのなかった僕にとって、非常に学ぶことが多くそして楽しい仕事でした。特にビアガーデン。お酒好きな僕にとって、ビールと鉄板焼きを提供する仕事は本当に楽しかったです。その上、ジムに通いそこそこ身体を鍛えていた僕のことを気に入ってくださるお客様も沢山いたので、注文を取りに行く時やドリンクを席に持って行く時も自然と笑顔になりました。

中でも小さなお子様連れの家族がご来店されると何故か子どもたちが僕に懐いてくれることが多かったですし、またある時には

「お兄さんがいるなら毎年来ちゃう。」

と言ってくださり、連絡先を聞いてくる女性もいました笑

しかし、ビアガーデンが終わる頃に転機が訪れます。上司からの一言、

「梅木はずっとフロントで。」

というものでした。もともとは宴会業務をメインでやっていた僕を、何の前触れもなくいきなりフロントにさせるということで、どういう意図なのかが分かりませんでした。そして長々と話を聞いて最終的に理解できたのが、

『この人、自分が楽したいだけだ』

ということです。フロント業務はシフト制で、基本的には立ったまま過ごします。そして電話が来たり来客があったりした時には対応するというもので、忙しさにかなりムラのある業務です。僕は業務内容に関しての不満などはありませんでしたが、自分の都合の良いようにしかシフトを組まない上、楽をしたがる上司が嫌でした。具体例は伏せますが、僕がフロントに立って仕事をしている間、その上司は裏で『暇つぶし』をしていることがほとんどです。

それでも耐えて自分でどうにかできると思っていた僕は、ボート部仕込みの忍耐力と精神力で仕事を続けました。くる日もくる日も同じ業務をこなします。一般の業務に加え、宴会やレストランのヘルプに入り、理不尽なクレームに頭を下げ、身勝手な上司たちにシフトをころころ替えられる。そんな時間が1日、また1日と過ぎていきます。

そのストレスの発散場所は当時通っていたジムです。筋トレをしている時間は全てを忘れることができましたし、仕事に関係なく少しずつ成長する自分を実感できました。まさに、筋トレが当時の僕を救ってくれたということです。

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↑ジムに通い、減量も始めた身体の変化


更に転機が訪れます。少し肌寒くなってきた頃、家族や高校のボート部のチームメイトから連絡が入りました。大分県のボート部の先生1人が亡くなったという内容です。高校時代に最も支えてくれた先生とは別の、高校は違えど親身に指導をしてくださるボート界隈で有名な指導者の方です。僕の顧問の先生も、その亡くなった先生からの指導のもと全国制覇を成し遂げているという、いわば大分県ボート競技の大先生でした。

お通夜とお葬式に参加するため、10ヶ月ぶりに地元へ帰ります。久しぶりに会えた家族や地元の先輩たち、そして全国から集まってくださったボート関係者の方々、総勢200名ほどの人が先生を弔いに参加しました。その大人数の中でも、ニッコリと笑顔を見せた先生の遺影が僕をまっすぐ見ているようで胸が締め付けられたのが忘れられません。

「遼太郎、笑って好きなことやれ!!」


笑顔の先生からそう言われているような気がして、涙が止まりませんでした。そして僕は決意します。

「もう仕事辞めよう。」

次に何をするのかは置いておいて、とりあえず仕事を辞めることに決めました。
大分に帰ってボートの指導者になろうかと考えた時期もありましたが、その度に笑顔の先生が思い浮かびます。

「しなければいけないこと」

じゃなくて、

「したいこと」をやれ!!

という声が僕だけには聴こえます。

中途半端な時期に辞めることだけは嫌だったので、3月いっぱいまではやり切ります。それでもなおあと1ヶ月だけでもと続けさせようとする上司を心の奥底で蔑みながら、僕は堂々とホテルを去りました。そして僕の新卒1年目は、「楽をしたい、人のことを考えない」という身勝手な性格の上司がいる職場へと消えていきました。23歳の春のことです。

Sound.4 この人たちと働きたい
後編
『GOAL-Bで働きたい』

仕事を辞めてから気づいたことがいくつかあります。

①仕事を辞めたところで人は死なないこと
②1日は意外と長いこと
③僕はやっぱり筋トレが好きだということ

『仕事がない=社会的に終わってる』と思い込んでいましたが、社会的にどう見られても死にはしません。むしろ自由な時間が沢山あることを幸せに感じていたのを覚えています。それに新卒1年目にしては貯金もそこそこあったので、すぐには底をつきません。また物価や家賃も安く、僕がお金をあまり使わない人間だったので何とか生きていけましたし、本当に危ない時は親に助けてもらいました。

僕が長い1日を過ごす中、世間では新型コロナウイルスによる肺炎が世界各地で広がっています。時折スマホで感染者数のニュースを読むもあまり実感が湧かず、それよりも次の職場をどうするかという悩みの方が大きくなっていきました。

家族は僕を応援するとは言いつつも、隙あらば

「大分で.....」

とか

「公務員が.....」

と口にするので、仕事についての相談は一切しませんでした。この歳になってもまだ“鎖”なのかとガッカリします。僕にとっての地元はあくまで帰る場所であり、働く場所ではありません。そのうえ公務員にさせたがるのにも嫌気がさします。公務員という職が特別嫌いというわけでも、否定するわけでもありません。ただ、就職するためだけの勉強をして、その勉強を活かすような業務はほとんどせず、収入もほぼ一定で上がるものの結局は年功序列。更に口を揃えて言うのが、

「安定している、安全だ」

ということ。こんなに変化の速い世の中において、何が安定で安全なのかを分かっているのかと疑問だけが残りますし、この安定•安全志向に挑戦を断ち切られそうになり続けたということを家族は認知してくれないのか、と憤りを感じることが多かったです。

興味があった職種はただ1つ、パーソナルトレーナーです。大好きな筋トレで人の身体作りに携わりたい、運動で自分の身体が変わり自信がつくことを経験してほしい、そして人生が変わることを伝えたい、こんな気持ちが溢れてきます。思い出すのは15歳の梅雨の時期、
おデブ人生まっしぐらだった僕がたった数ヶ月で15kgも痩せることができ、周りからすごい人だと思われることで自信を持つことができたあの瞬間です。あれを仕事にできたら僕は誰よりもお客様に対して親身に寄り添えると確信していました。

ですがうまくいきません。いくつかの会社に応募するもコロナの影響で「延期させていただきます。詳細等は決まり次第、後日ご連絡させていただきます。」というメールが届きます。

中には面接をしていただける会社もありましたが、

「本当にここでいいのか?」


といまいちピンと来なかったので辞退してきました。当時の僕が職場に求めていたことは、

「何が」できるか


そして、

「誰と」できるか

この2点です。僕が本気でやりたいパーソナルトレーニング、つまりお客様の人生を変えるようなトレーナーになれる場所なのかということ。そして何よりもどんな人がいて、これだけの熱い想いのある僕の仲間になってくれる人がいるのかということです。世のパーソナルジムを敵に回しそうですが、言います。

そんなジムない。


実はいくつかあるのかもしれませんが、求人サイトに載せてあるような文言からは読み取れません。その上、僕と同じような価値観のパーソナルトレーナーの方は独立しているケースが多いはずです。(自分に合うジムがないと考えているならば)

そんなこんなで探しつつも見つからない、でも時間は待たずに僕を置いていく。僕はどうすればいいのか分からず、


仕事って何?


働くって何?


自分がやりたいことをやれる場所ってどこ?


自分って誰?


こんなことを考えていくうちに、

俺って生きていく価値がないかも

と本気で思うことが増えていきます。そんな消えかけていた僕を繋ぎ止めてくれたのが筋トレでした。筋トレをしている間は全てを忘れることができました。仕事をしていた頃と同じように、僕は再び筋トレに救われたんです。

この経験があったからこそ僕は、筋トレを単なるお金儲けの手段にする人間を許せません。フォームや重量設定すらいい加減な指導をする、身体を変えるという会員様の願いや想いを鑑みずに単なる「業務」として行う、そして会員様一人ひとりに真摯に向き合わない『職業トレーナー』に怒りを覚えます。なぜなら、僕の命を救ってくれた筋トレ、そしてその先にあるボディメイクを侮辱しているにほかならないからです。

そして、ある人たちのYouTube動画にも救われ続けました。株式会社GOAL-Bの皆さんです。『人の挑戦』そして『挑戦が溢れる世界』をつくる会社、GOAL-B。代表取締役社長はAKIOさん。

「今日も最高の1日にします!!」

この一言で1日をスタートさせる熱い方です。そして社員であるレッツゴーなぎらさん。

「レッツゴー!!」

この掛け声と喋りの上手さ、そして明るい雰囲気を見せてくれる方です。この世界から消えそうになった時、僕はこの2人の動画を何百回と見ました。大阪にパーソナルジムのスタジオをつくる過程、それを経営していく過程、その中で出会った人たちやお客様の様子を眺めるうちに

「もう少し頑張ろう。」

という気持ちになります。筋トレとGOAL-B、この2つの要素に僕は命を救われました。ずっと暗闇を彷徨っているような僕は、こんなにもキラキラ輝いて『今を生きている』人たちを直視できない状態です。それでも見たいと思う、応援したいと思えるのがGOAL-Bの皆さんです。

そして遂にその暗闇を抜け出すきっかけが訪れます。GOAL-Bが名古屋に会員制のジムをつくるという新たな挑戦を始めました。そして新しいメンバーを加え、更に大きな組織へと変わっていく様子をスマホ越しに知らされることになります。知ったのは8月、そして10月にはオープンというとてつもない速さで実現させていくGOAL-B。この時、もう僕はファンではなくなっていたことに気づきました。そして学生の時以来、耳にしていなかった“音”が聴こえてきます。


この人たちと働いたら、
自分はどこまで成長できるんだろう
この人たちと働きたい
この人たちの仲間になりたい
この人たちのために命を使いたい
絶対楽しい


しかもこのタイミングで僕を更に加速させる出来事が起こります。定期的に開催している1泊2日のトレーニング合宿のメンバーを4名募集するということをTwitter、Instagram等を通して目にします。合宿には店舗責任者の安慶名さん、事業責任者の長畑さん、代表トレーナーのマンティ福原さん、そして社長のAKIOさんが参加することになっていました。つまり、僕の熱意を受け止めてくれる人、そしてそれを判断して雇うべきかという決定権のある人が揃っています。


行こう
この合宿に行こう
そしてここで働きたいと伝えよう
この合宿が履歴書代わりだ

その1週間後、合宿参加のため名古屋へ向かいました。トレーニングがハードというのはもちろん、久しぶりに楽しい時間を過ごした気がします。特に、自分より明らかに筋肉量の多い福原さんが「デカい」、「顔が小さいのは才能」、「沢山食べれるのも才能」と言ってくださるのが本当に嬉しかったです。

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↑GOAL-B合宿の様子


そして2日目のコーチングセッションの時に、
僕の溜め込んだ想いが爆発します。


おデブだった自分が運動で痩せて自信がついたこと

ボートで日本一を目指し、何度も目前まで迫ったこと

ボートで叶えられなかった日本一をボディビルで獲りたいということ

仕事を辞め、本気で働ける場所を求めてここへきたこと

そして、ずっと側で支えてくれた家族へ恩返しがしたいこと


終盤では涙が止まりませんでした。昔は“鎖”のような存在だった家族のために、今仕事をしたい。しかもそれは家族が勧める公務員としてではなく、僕がやりたいことを全力でやれる環境でということ。そこで僕自身の努力や生き方の証明と家族への恩返し、特に親孝行をしたい。そんな想いが次々に口から溢れてきます。この想いを、僕以外の参加者の方々とGOAL-Bの皆さんは温かい雰囲気で真摯に聴いてくださいました。そしてAKIOさんから

「インターンやったらええんちゃう?」


の一言。僕が新卒時代に浪費した精神力、半年を超えるニート期間、そしてそれでもなおやりたいことを仕事にすると諦めなかった意地、それら全てが報われた瞬間です。この日のために自分は生きてきたんだと思ったのを鮮明に覚えています。僕はGOAL-Bの皆さんのため、GOAL-Bに共感してくださるクライアント様のため、そしてAKIOさんのために死ぬ気で挑戦し続けると心に決めました。


おわりに

いかがでしたか?非常に長かった上に読みにくいところもあったと思いますが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

このnoteを書いている24歳の僕は、まず会員様全員を理想の身体にするパーソナルトレーナーを目指し、日々ジムに顔を出しています。その先にある僕の目指す世界(VISION)は

ダイエットに困る人をなくす

ということ。これは僕が15歳の時に経験して確信した、

痩せることって誰にでもできるはずだ

という価値観(VALUE)のもと実現させたくて仕方のないゴールです。このゴールを実現させるための僕の使命(MISSION)は、

ボディメイクを通して人生を変える

ことです。このために僕は心を燃やし、命を使います。


自分が大きく変わる予感がしたときや重大な決断をした時、僕にしか聴こえない“音”があります。高音なのか低音なのか、長音なのか短音なのかは分かりません。共通しているのはその”音”が聴こえた時、わくわくが止まらなくなってやる気に満ち溢れます。僕はこの”音”が好きです。そしてGOAL-Bの仲間になった今、“音”がずっと聴こえてきます。音の鳴る方へ向かう僕の人生は、間違いなく最高です。


株式会社GOAL-B
トレーニングジムGOAL-B インターン
梅木遼太郎

“音の鳴る方へ”

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