見出し画像

「働く」の時間論⑨ ビジネスの時間と人の生きる時間

大学時代に、1ヶ月間インドへ旅行に行った。初日に泊まるホテルだけ予約をとって、あとは計画を組まずに北インドをあちこち周った。
ガンジス川にも、もちろん行った。もともとインドに行きたいと思ったのは、大学の入学直前に遠藤周作の『深い河』というガンジス川のほとりにあるバラナシが舞台の小説を読んで感動したからだった。バラナシは沐浴ができるガートと呼ばれる場所で有名で、テレビでインドが特集されたときは必ずと言っていいほどここが映っている。自分もこの街に滞在していた。

ガンジス川は日本人には考えられない場所だ。川自体は生活排水が流されて綺麗とは言えない。川岸には火葬場があり、火葬された後の遺灰が流されている。自分が初めて川にたどり着いた時、灰を籠でこすようにして川に流している人がいた。その近くの岩場では子どもたちが何も気にせず水遊びをしていた。自分は見なかったが人の死体がそのまま流れていることもあるという。火葬してもらうお金のなかった人だ。牛の死骸が流れていくのは見た。

ガンジス川は人の営み全てを受け入れて流れ続ける。インドの文明はガンジス川を中心に発展してきた。インドでは輪廻転生が信じられていて、人は無限の過去から無限の未来まで死んでは生まれ変わると考えられているらしい。川の淀みなく流れていく様子は、今生きている人だけではなく、過去に生きていた人もこれから生まれる人も内包した写鏡のようだ。

人が働く時間、人生の時間も、本来はガンジス川のように過去から未来へ流れる果てしない人の営みの中の一粒の粒子でしかないのではないか。自分の祖先から受け継ぎ、自分の子孫へ受け継いでいく長いリレーの中のたった一人の走者でしかない。自分が食べていくため、「自分のために働く」時間は、この流れに位置する。

だが今はその流れが見失われて「社会のため」という目的、今ここにないビジョンを描き追い求め続けることが要求されている。(ここでいう「社会のため」という目的と、レヴィナスの「他者のため」が合致したものなのか自分の中で結論が出ていないです。ここでは一旦切り分けて考えていきます。)
人が本来生きている時間、祖先から自分の子孫まで続いていく時間とは別の時間軸でビジネスの時間が流れている。経済的な成長のため、業務が効率化され意味が凝縮されていく時間である。
次々と生まれるビジョンを目指して進むとき、軸は常に現在にはない。永遠に完成しない理想の世界を夢見ているとき、自分のこの世界はずっと未完成の未熟な世界を生きていることになる。
だが、今ここにある世界が、自分の生きている時間なのだ。ビジネスの中で流れる時間を、人の生きる時間の軸へと戻さなければならない。

次回からは、ビジネスの時間を人の時間軸にするために参考になるだろう考えを紹介していく。

次回はこちら


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?