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【建築家になんかなれるもんか】:都市の民族とファッション

いつからだろう。ファッションに久しく興味を失くしてしまった。
いや、というと語弊があるから、もう少し書くと、社会現象としての流行や、モードファッションの現代美術的側面には今でも強く興味がある。自分が美しく何かを着るということへの熱意が色褪せてしまっただけの話だ。

しかしこれは年齢のせいか?建築という分野のせいか?内向的な性格だからか?あまのじゃくか?理由はよく分からない。その全てかもしれない。しかし、少なくとも良いことではないのは確かだ。形のデザインに携わる人間ならば、お洒落であることは良い働きをしうるが、毒になることはない。唯一良いのは服に悩まされないことくらいか。

ちなみに10代の頃はとても好きだった。
服屋に行っては、形や柄、生地や縫製なんかを飽きることなく見ていた。雑誌もよく買っていた。たしか『fruits』という名前の雑誌があったはずで、あれは特に面白かった。ラフ・シモンズもインタビューかなにかで絶賛していたような記憶がある。
その雑誌はストリートスナップで構成されていて、東京のサブカルチャー・トライブを撮っていた。都市部でそういう民族性のようなものが見受けられることも今となっては面白いことだ。誌面にはポスト・ガングロやポスト・ヤマンバの族長みたいなのも載っていたし、かつての典型的オタクというか原色のハチマキ&短パン&ダッドスニーカーを履いた眼鏡くんのような人も出ていた気がする。
僕はそれを見て、東京の路地裏に行けば、日本家屋と薄汚れた室外機と盆栽に挟まれて、ボロボロのボロをまとって臭い立つような、めっちゃクールな人達がいるのかと想像してワクワクしていた。現実は多少違ったけれど。いや、それでも良いのだ。それは余白に巣食う生き物だったのだ。ストリートカルチャーの全盛期でモードが駆逐されかけた時代、古着文化も流入し、まだバブル崩壊後の残り香も漂っていた。その総体は概ね体制批判的というか無政府主義的で、どこにも所属できない若者達の寄る辺なき独立運動だったのだ。そして、いつのまにか見なくなった。雑誌『fruits』は2016年をもって休刊した。

民族(=tribe)という概念は、グローバル時代において絶滅危惧種である。けれど、というか、だからこそ、ヨシダナギの写真はけっこう皆んな好きなんじゃないだろうか。
彼女の撮る写真は現代を生きる絶滅危惧種のアーカイブである。それは先見的なノスタルジーを内包している。ちょっと綺麗過ぎる嫌いもあるけれど。彼女の撮る人々の纏う服や装飾の一つ一つにはレヴィ・ストロースが言う所のチューリンガのような意味があって、ずっと変わらないスタイルを保持している。そのことが示唆するのは、彼らが常に先祖や子孫(つまり、過去や未来)と共にあり、そして土地とそこでの生活様式が、自己と一体化しているという哲学である。彼らは進んでいく時間の中ではなく、繰り返される時間の中に生きている。こうしたアイデンティティの持ち方は、いわゆる近代以降の都市部で暮らす我々の自己の捉え方とは違うもののはずである。ヨシダナギの発見に付き合うと、原始的な美しさに共鳴できる自分自身が発見される。

サプールのような人達もクールだなあ。どちらかと言えば貧乏なのに、財産の半分以上をファッションに費やすらしい。彼らは周りを楽しませるエンターテイメントでファッションをやっている。それは心の豊かさの表現なのだ。ユーモアというやつで、彼らの生き方に深く関わっている。

今、東京の民族衣装は何だろう。案外ユニクロが一番近かったりして。少なくとも親子3世代くらいは着てるような気がするし。それはそれで癪だけど。
まあ、どこに行っても富裕層も貧困層もみな一様に平民の格好をしている。でも、ちょっとだけ個性を出してみたり。ファッションは何がしかの意思表示なのだけど、ヴェールにもなるのだね。都市部の民族性は複雑だなあ。フロイトの言う文化への不満というやつか。

そういえば、ヨウジヤマモトは路上生活者のもつ凄みに憧れているらしい。彼らの衣装は、その生活スタイルが染み付いているからだと言う。そう考えると、服は本来、顔の皺やシミと同じようなものなのかもしれない。服にも皺が刻まれる。それでも彼はお洒落なデザイナーなのだから、なんだか凄い人だ。
また、皺と言えば、土門拳の撮るポートレートはとりわけ老人が良い。被写体の人物の凄みがよく滲み出ている。撮影時にわざと怒らせたりするらしいから悪い人である。女性を撮るときも構わず皺を撮るそうだ。それが美しいと本気で考えているらしい。NY在住のギリシャ人写真家プラトンも好きだ。彼は被写体の人物とライフストーリーの話をしながら撮影するそうだ。相手が語りながら情緒的になった後、ひと呼吸置いて、その人のプライドと苦悩を上手に撮る。
スタイルは全然違えど、どちらの写真家も被写体の人物に奥行きがある。肌の皺感や毛のなびいた感じ、そして着ている服の触り心地など全てにピントがバッチリ合っている。ファッション写真としても上出来だ。動物的気配の上手は土門に軍牌が上がり、理性を感じるのはプラトンの方である。

今、僕はポートレートを撮られるとしたら、ユニクロを着て写るんだろうか。もしくは少なくとも毎日同じコートを着ているから、それだろうか。ボロボロだけど。このままでは洒落っ気のない建築家になってしまいそうだ。中身は見た目に出るからなあ。色気を身に着けたいもんである。ああ、こんなことでは建築家になんかなれるもんか。

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