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「エモい」がわからない

カフェで文章を書いている途中に、友人からメッセージが来た。

「この前書いていた小説を読んだんだけど、あれはエモかったよ」

どうやら僕が書いた小説を読んだ感想を送ってくれたみたいだ。

「胸をぎゅっと掴まれたような感覚になったし、忘れられない人を思い出して辛くなった。リョウタくんの文章はエモいよね」

恋愛の記事を書いたときもインスタに書いたポエムなど、知り合いから文章がエモいと言われる機会が多い。が、ハッキリ言って、僕にはエモいが何かがわからない。エモいという言葉欲しさに文章を書いているわけではないけれど、結果として「エモい」という感想がたまに送られてくるようになった。

そもそもエモいとは一体なんなのだろうか。近年、エモいという言葉は巷でよく散見されるようになった。InstagramやTwitter、TikTokなどのSNSではエモいというハッシュタグをよく見かけるようになったし、世間では一般の言葉となりつつある。

写るんですで撮った写真はエモい。綺麗な夜景を好きな人と並んで見るエモさ。夏のプールサイドで制服のままみんなで水浸しになるエモさ。夏の線香花火に自分の恋を重ねるのはエモい。深夜のコンビニで買ったパピコ、マカロニえんぴつやクリープハイプの歌詞、エモい音楽を掛け合わせた動画、世間でよく言われるエモいは、どれもありふれたもので青い春と掛け合わせたものが多い。

エモいとは現在完了形のものであるとどこかで聞いた。つまりよくある原体験のその先を言語化したものなのかもしれない。誰かが経験したものを自身の過去と重ねることで、楽しい出来事や辛い出来事を思い出す。そこに広がる情景や感情がエモいに結びつくのだろうか。

最近は、現在完了形の作品として『花束みたいな恋をした』『ちょっと思い出しただけ』など、過去の恋愛をテーマにした作品が増えた。誰かの過去の恋愛を覗く行為は、自身の過去の恋愛を思い出すきっかけとなる。思い出した結果、出会った感情をエモいと呼ぶ。でも、僕にはそれがエモいのかどうかがわからない。もちろん作品は好きなんだけれど、自分の過去を思い出す行為がエモいなのかがわからないということだ。

そもそも感情に名前がついたものは、エモいと言えるのだろうか。エモいを紐解いていくと、嬉しいや悲しいなど既に名前がついた感情になってしまう。名前がついた感情にはもはや新鮮味がないし、すぐに別の言葉に代替されてしまうのがオチだ。エモいとは言葉ではうまく表現できない感情であり、生まれた感情にまだ名前がついていない現象を指すのかもしれない。

数年前から斜め文字のフォントがエモいと言われるようになった。タイトルを斜めにしておけばエモいだろうという雑さが透けて見えるし、あまりにもその数が増えすぎて、もはやエモいとは言えなくなってしまっている。誰かが使ったものを少し工夫して、リサイクルする行為はまったくエモくない。このことを踏まえると、最初はエモかったであろうはずのものもやがて既視感へと変貌し、最終的に人から煙たがられてしまうのだろう。

学校の勉強は何ひとつとして覚えていないけれど、友達とバカをやった経験は情景やセリフをまるごと思い出せる。そもそも学校の勉強が役に立ったことはないけれど、友達と過ごしたあの経験はほんの少し人生を支えるものになっているのかもしれないと書くと少しはエモさがあるのかもしれないけれど、これを書いておけばエモいんでしょという考えはまったくエモくない。

僕にはエモいが何なのかはわからないけれど、それでいいんだと思う。エモいがわからなくても人生は辛くて楽しいものだという事実は変わらない。毎分毎秒を噛み締めて生きる。そして、目の前で起きた出来事を言葉にしていく。そうやって自分の人生を文章に残していきたい。

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