やりたいことが見つからないは悪いことなのだろうか

物書きとして2年半。寝食を忘れて、文章を書く行為に没頭し、生活ができるだけの収入を得られるようになった。

書いて消して書いての繰り返し。文章が書けないときは、PCに映るじぶんの顔が酷すぎて目も当てられない顔だったときもある。文章を書けた数よりも、書けなかった数の方が圧倒的に多かった。悩みに悩み抜いて書いた文章を、編集者さんに「全然ダメだからやり直し」と赤字の添削だらけで返ってきた。

文章を書けない時間は相変わらず減ってないけれど、それなりのスキルは身につけたつもりだ。でも、心のどこかでこれじゃない感が否めない。いったいなにが原因なのだろうか。

考えるを放棄したくなったから自転車を転がして、冷たさの残る風を浴びる。すると、猫がブロックの上で寝ていた。「お前は気楽でいいよな」と言いたくなったけれど、猫も猫なりに苦労しているはずだ。家猫は寿命が長いけれど、野良猫の寿命は5年と短い。その事実を思い出した途端に、気楽に生きていると思った事実を、猫に謝りたくなった。

自転車を降りて、自販機で飲み物を購入する。そして、公園のベンチに腰掛けて、自問自答を繰り返す。

「目指してきた道はここでしたっけ?」

この問いに対して、素直に「これで合ってるよ」と言えない。どんな道が理想なのかもわからない。野良猫よりも、生きるハードルが低いくせに贅沢な悩みだよね。

3年周期のスパンで、キャリアについて悩んでいるような気がする。悩んでいる暇があるなら行動しろよって話なんだけれど、ちゃんと動きながら悩んでいるのだ。確かに手を止めている時間はもったいない。

なぜ3年周期かを考えると、「石の上にも3年」という言葉が頭に浮かんだ。3年はなにかを変えるのに適切な時間なのかもしれない。そもそも、石の上に3年以上も居続けるのは無理だ。考えただけで胃がキリキリするし、我慢できずに、どこかに行ってしまうのがオチだ。

キャリアについて悩むのは、たくさんの道を知った代償だろうか。新たな可能性を探しているのだろうか。答えはわからないけれど、生きていると悩みは尽きないという事実だけは、この28年生きてきて理解できた。

20代前半といまで変わったことと言えば、同年代や年下、先輩と話をしていると、「好きなことを仕事にして生きていけるなんて良いですね」「その歳で独立なんてすごいじゃないですか」と言われる回数が増えたことだ。

嬉しい反面、恥ずかしい気持ちもあって、つい謙遜してしまう。これまでの努力が認められたような気がして、誰も見ていないところで、悦に浸るときもある。でも、嬉しい言葉に反発するかのように、「まだまだこんなもんじゃねぇだろ」と発破をかけてくるじぶんもいる。

これまでの道のりに、まちがいは絶対にない。絶対なんて絶対ないかもしれないけれど、そう思い込まないとやってられないし、納得することでしか人は前に進めないのだ。そして、この道を進んでいけば、おそらく明るい未来が待っているにちがいない。

悩むことなく、いままでどおりの道をただ真っ直ぐ進めばいいのに、「このままでいいのか」と心の中のじぶんが声を掛けてきた。鬱陶しいなと思いながらも、ちゃんと聞いてしまう1人のバカがいる。順調にキャリアを形成していると思っているときに、また人生の露頭に迷うなんて思ってなかった。

29歳を目前にして、進みたい道がわからなくなっている。何者かになりたいわけではない。文章を書きたい気持ちは当然あるけれど、なにをしたいのかがわからない。とはいえ、いまのキャリアも気に入っている。なにが望みなんだ。考えれば考えるほどドツボにハマり、答えがわからなくなってしまう。

社会を盛り上げたい、意義のあることがしたいみたいなたいそれた野望はない。社会的意義や大義名分もいらないし、ただやりたいことをひたすらに追いかけていきたい。

28歳のモラトリアム期がやってきた。悩みと向き合う行為は、よりよい未来を手に入れるための大きな前進である。気が済むまでとことん悩みぬけばいいし、納得感をもって前に進めばいいよね。

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