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あれはあまりにも素敵な夜だった

ふとした瞬間に思い出す人がいる。あれは秋の始まりの出来事だった。

深夜に「ねえ、今から海を見に行かない?」と彼女から着信があった。お風呂も歯磨きも済ませている上に、もう体はベッドの中である。僕は彼女の申し出を断ろうとした。

「もうそっちに向かっているから。あと20分で着くから用意しておいてね」

いつも彼女は強引だった。一緒にカフェに行ったときも僕にメニューを決める決定権はなく、彼女が食べたいものをふたつ選ぶ。2人で映画館に行ったときも、事前に観る映画が決まっていたのに、館内に並ぶポスターを眺めていた彼女が別の映画を選んだ。強引な彼女にはいつも手を焼かされているけれど、自分の意見がない僕に取ってはむしろ好都合だった。

寝ぼけ眼をこすりながら、洋服を着替える。めんどくさいと思いながらも、誘ってもらえた事実は素直に嬉しかった。なんて本人には口が裂けても言えない。秋の始まりの夜は肌寒く、半袖では耐えられないかもしれない。クローゼットからナイロンジャケットを取り出して、上から羽織る。スラックスを履いて、壁にかけているベルトに手を伸ばそうとしたそのときだった。

「着いたよ」

時計に目をやるとまだ10分も経っていない。無茶苦茶だと思いながら、急いで身支度を終え、彼女が待つ車へと向かった。

「じゃあ、海に行きますか」

彼女が嬉しそうな顔をしている。この笑顔にこれまでに何度騙されてきたのだろうか。助手席に乗り込んだ僕はシートベルトを締めた。車内には音楽が流れている。モニターには「夜のドライブ」と書かれており、彼女が厳選した曲がたくさん並んでいた。

彼女は古着をうまく着こなし、誰も真似できないような服装をいつもしている。関西弁がとても特徴的で、言葉の語尾がとても強い。一人称はまさに関西って感じで、自分のことを「うち」と呼んでいる。言葉尻はとても強いのだけれど、彼女の言葉には嘘がないから胸に響く。少し近寄りがたい雰囲気はあるけれど、彼女と話した途端に、虜になる男性はきっと多いはずだ。

ちなみに僕と彼女はただの友達である。お互いに好意はない。きっとお互いに恋人ができたときには、お互いに喜び合ってパーティーを開く。どれだけ酔っ払って、同じベッドで眠りについたとしても何も起こらないまま一夜を過ごすのだろう。男女の友情はあると言える関係で、親友以上には決してならない関係だ。

「夏はみんなこぞって海に行くけれど、秋になった途端に足が遠のいていく。海はいつ行っても海のままなのに変だと思わない?」と彼女がこぼす。「シーズンが終われば。桜もひまわりも紅葉もすぐに忘れ去られていく、それと一緒だよ」と返す。ふ〜ん、と不満げな顔をしながら、貝殻を海に投げ飛ばした。

深夜の海は暗くて何も見えないけれど、波音が落ち着くから好きだ。それに海の周りは街灯がないから星が綺麗に見える。星座のことなんかこれっぽっちもわからないけれど、空を泳ぐ星を見るのはいつだって楽しいものだ。夜の海で黄昏れる。失恋したばかりの僕にとってはこの上ない居場所だった。

「あんた辛いことがあったんでしょ」と彼女が言う。彼女は僕の失恋を知らないはずだ。動揺を隠しきれない僕は顔を隠すのに必死だった。「なんで?」「なんとなく」。不思議なことに、彼女のなんとなくはいつも当たる。

「だから、海に誘ったの?」と彼女に返す。「なんとなく、だよ」と返事がきた。彼女はこちらが離さない限りは追求してこない。そこに居心地の良さを感じているのだけれど、結局、僕は彼女にありのままを話してしまう。彼女は僕の話を何も言わず聞き、話が終わったあとに「よく頑張ったね」と、僕を抱きしめた。

お互いに下心は一切なく、僕は彼女の抱擁を受け入れる。友達が悲しんでいるときは慰めるために抱きしめる場合もあるだろう。今回もそれと同じだ。彼女の抱擁は僕を落ち着かせた。涙など出ていないけれど、心の涙が止まったような気がした。

帰り道はお互いに無言だった。車内には、Alexandrosの「あまりにも素敵な夜だから」が流れている。今夜は彼女にとって素晴らしい夜だったのだろうか。ぜひを問うてみたいところだけれど、きっと何も答えないのがオチだ。それでも僕にとっては間違いなくあまりにも素敵な夜だった。

家に着いて、すぐに眠りにつく。目が覚めたときにiPhoneを見ると、彼女から「昨日はありがとう」とLINEが来ていた。「こちらこそありがとう」と返信すると、すぐに既読がついて、やりとりは終わった。

ちなみにあの日から5年以上彼女とは会っていない。どこにいて、何をしているのかすらもわからないけれど、LINEのアイコンはあの日のままだ。元気にしているだろうか。なんて、こちらから連絡をする勇気はないのだけれど。

ふとした瞬間に思い出す人がいる。あれは秋の始まりの出来事だった。

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