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美しい呪い

それは世界で1番美しい呪いだった。

懐かしい匂いがした。秋の代名詞と呼ばれる金木犀の匂いである。人がたくさん行き交う交差点には、金木犀はおろか自然の気配すらひとつもなく、どこを見ても人や建物、車に覆い尽くされている。電光掲示板には、ハロウィンの広告が流れ、すぐさまクリスマスになることが容易にわかって、なんだかつまらない。

どこから金木犀の匂いがしているのかを探していると、青信号が点滅し始めた。足早に交差点を渡るたくさんの人の中に、ひとつの匂いを特定するなんて無理に等しい。もしかしたら元恋人がいるかもしれないと一瞬でも考えた僕は愚か者だ。淡い期待は結局淡いままである。さっさと諦めたほうが身のため。足早に信号を渡ったその先にもまたたくさんの人が待ち受けていた。

数年前のある日、元恋人が秋になると金木犀を探す旅に出ると言っていた。それまでも金木犀の匂いを嗅いだことはあったけれど、それが金木犀だと認識したのは大人になってからのことだ。そして、秋になる旅に金木犀と元恋人の面影を追い続けている自分がいる。

あれはある秋のことだった。金木犀の香水が人気だとSNSでバズっていた。サプライズが好きな僕はなんでもない日に、彼女に金木犀の香水をプレゼントすると決めた。

ちなみに僕は香水をつけない主義である。理由は匂いがきついためだ。鼻が敏感な僕には甘ったるい匂いは刺激的すぎる。そのため、元恋人も僕と一緒にいるときだけは香水をつけなかった。だけれど、金木犀の匂いなら大丈夫だと思った。秋になったら金木犀の匂いと探す旅に出る君に連れられているうちに金木犀は好きな匂いになったのだ。

どこに足を運んでも、SNSでバズった金木犀の香水は売っていない。諦めかけたそのときに、足繁く通っていたお店の店員さんから明日入荷しますと連絡が来た。金木犀の香水が手に入る、そして、元恋人は自分の好きなに日をいつでも身に纏うことができると、思わずガッツポーズをしてしまった。

金木犀の香水を手に入れた僕は、その日のうちに元恋人に渡したいと躍起になって、今日会えないかとLINEを送っていた。普段は自分から誘えないくせにこういうときだけはうまく立ち回る。まるで浅はかな僕を元恋人はわかっていたのかもしれない。

金木犀の香水を元恋人にプレゼントする。「香水が苦手だって言ってたじゃん」と元恋人が笑う。「これならいけそうな気がするんだ。だって君が教えてくれた好きな匂いだからさ」と返す。「嬉しい」と言った元恋人を抱きしめる。あのとき喜んでくれた元恋人の笑顔が、いまでも鮮明に思い浮かぶ。

ずっと一緒にいると思っていた。これから何年先も一緒に金木犀の匂いを探す旅をすると思っていた。若気の至りってやつだろうか。僕に別に好きな女性ができて、お別れをしてしまった。別れ話をしたときも、元恋人は金木犀の匂いを身に纏っていた。

きっと、元恋人は別れたくなかったんだと思う。って未練タラタラなお前が言うなよって話でありまして。いまもどこかで元気にやっているのだろうか。なんて言う資格は僕にはないんだけれど。

「ちょっと何してんの。早く行くよ」と隣にいる香澄が言う。「ごめん、ごめん」と平謝りをする僕。1年前の秋に新しい恋人ができた。金木犀の写真を撮っている僕に香澄が声をかけてきた。当然、金木犀に元恋人の面影を重ねているなんて口が裂けても言えない。皮肉にも元恋人との思い出の金木犀が新しい恋を始めるきっかけになったのだ。まだ元恋人の面影をずっと探している僕に、香澄の隣にいる資格はないかもしれない。

川端康成は『掌の小説』に「別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます」と綴った。僕はこの言葉以上に美しい呪いを知らない。

毎年、金木犀が咲くたびに、金木犀の香水をプレゼントしたときに喜んでくれた元恋人の笑顔を思い出す。忘れようとする行為は、思い出す行為に等しいと誰かが言った。でも、忘れようとしなくても、金木犀が勝手に元恋人を思い出させてくるのだから、僕にはもう成す術はない。

元恋人が教えてくれた金木犀の匂いは、世界で1番美しい呪いだった。

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