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ぼくたちはいかにして「諦め」を受け入れるか

「諦める」という言葉に、ネガティブな印象を抱いてしまうほとんどだろう。諦める行為が積み重なれば、やがて挑戦の意欲を失い、「どうせ無理」とじぶんの可能性に自らで蓋をする。

「諦めたらそこで試合終了です」

スラムダンクで、安西先生が言った名台詞だ。誰かが諦めそうになったときに、この名言が用いられるケースがあまりに多い。そして、じぶんを鼓舞するために、この名台詞を思い出している人もいる。

人は諦める生き物で、継続を不得意とする。諦めるを選択するのは、自分じゃ無理だと悟ったときの場合がほとんどで、この世にはいくら頑張っても報われないことがたくさんある。

努力は必ずしも報われないと感じている人がほとんどで、継続している人を見るたびに、諦めたじぶんに落胆してしまう。でも、諦めたことで手にするものがあるのも事実だ。

ぼくはnoteの毎日更新を600日以上継続できているが、そのほかのことはまったくダメだ。筋トレやランニングはすぐにやめてしまった。「よし、やるぞ!」と息巻いても、まったく続かなかった。続かないことのほうが多いし、noteの毎日更新がたまたま続いているだけの話なのだ。

これまでの人生を振り返ると、諦めなかった数よりも諦めた数のほうが圧倒的に多いような気がする。

はたして、諦める行為はそんなにダメな行為なのだろうか。

諦める行為を前向きに捉えるとするならば、挑戦した事実が残ること。そして、じぶんに合わなかった事実を知ることができることだ。

人は諦める行為をネガティブに捉えがちだけど、いままで取り組まなかったことに取り組んだ事実を、素直に褒めてあげてもいいんじゃないかな。

そして、諦めた事実をちゃんと受け止める。諦めの向こう側にある別の挑戦をまた歩み始められたのであれば、諦めを受け止めた事実と前に進んだ事実を誇りに思えばいい。

人生は長いし、うまくいかないことが多い。たくさん挑戦する中で、1つでも継続できるものが見つかれば御の字だから、大事なのはめげずになんども挑戦を重ねることだ。

諦めをきちんと受け入れ、じぶんの落ち度に落胆する行為は、じぶんを成長させるいい薬にもなる。そして、ときには羽休みをして、じぶんが前に進めるタイミングで、前に進めばいい。

諦めたからといって、人生の試合は終わらない。いくら諦めたっていいし、落ち込んだっていい。たくさんの挑戦を続ける中で、これだと言えるなにかが見つかればそれでいい。

諦める行為は、じぶんの落ち度を認める行為であり、新たな選択肢を選ぶチャンスでもある。そして、諦めた事実が人を強くし、いずれ大きなことを成し遂げる礎になっていくだろう。

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