ミステリは、はらわたを求めている。 白井智之『名探偵のはらわた』(新潮社)
はらわたから始まる物語が、名探偵のはらわたとともに変転し、名探偵のはらわたとともに閉じていく。……というのは読んでいないひとからしたら、まるで意味の分からない言葉だと思いますが、要は読み終えた時、そのタイトルがあまりにもしっくりと来る作品だ、ということです。
この作品は特に事前情報は得ずに読んだほうが良いタイプの作品だと思うので、いつも通りネタバレには注意しますが、この駄文に付き合っている暇があるなら、レジのかごか通販サイトのショッピングカートにこの本を入れて会計に向かうのが吉です。
本作は実在の事件をモデルにした作品であり、その扱われている事件がすこしだけ名前と形を変えて、最初に列記されています。
〈玉ノ池バラバラ殺人事件〉〈八重定事件〉〈津ヶ山事件〉〈青銀堂事件〉〈椿産院事件〉〈四葉銀行人質事件〉〈農薬コーラ事件〉の七つの事件で、詳細は知らなくても、なんとなく耳に馴染むような感覚がありませんか?
この事件の中で本作においてもっとも重要な意味を持つのが、〈津ヶ山事件〉で、作中の説明を引用すると、
昭和十三年(一九三八年)五月二十一未明、岡山県苫田郡木慈谷村の青年、向井鴇雄が祖母を殺害した後、同集落の家屋に次々と押し入り、猟銃と日本刀で住人たちを殺害した。犠牲者は三十名に及ぶ。向井は犯行後、荒又峠で遺書を書き記し、猟銃で心臓を撃って自殺した。
というもので、横溝正史の『八つ墓村』などのモチーフになった津山事件(津山三十人殺し)をもとにしながらも細かい部分の内容が変わり、作者の創作になっています。
松脂組の組長の娘である、みよ子と交際している浦野探偵事務所の助手として働く原田亘(通称、はらわた)。多くの難事件を警察に協力し、解決に導いた犯罪捜査の専門家であり、名探偵の浦野灸のもとで助手として働く彼は、岡山県津ヶ山市にある寺院、神咒寺で起こった火災の真相追及のために岡山県警から協力要請を受けた浦野に同行し、みよ子の嫌う故郷のある津ヶ山市へと赴く。神咒寺の事件と過去の津ヶ山事件に関係はあるのか。謎を追ううちに、原田亘の前に意外な真相が浮かび上がる……というのが導入というか、第一話に当たる「神咒寺事件」の大まかな内容になるわけですが、「よくありそうなミステリ……」と思ったそこのアナタ、もし敬遠しようとしているなら、もったいないことしてますよ。
この作品は第一話から第二話へと移っていく中で、物語世界の様相が大きく変わります。
それ以降の本作についてはネタバレになってしまうので曖昧な言い方をしますが、想像するだけで怖いほどの阿鼻叫喚の地獄絵図が待っています。なのに何故か爽やかな感覚を残す、とてつもなく不思議な読み心地を持つ作品です。
過激な物語の底に流れるものはおそろしく意外にも優しい。ひとりの青年の成長譚としても深い余韻が残る作品です。凶悪事件の裏側を暴く、というような雰囲気はないので、読む人によっては強い違和感を抱くかもしれませんが、私自身はエンタメに徹しているところに好感が持てました。
ちなみに現実の事件をテーマあるいはモデルにした作品は〈帝銀事件〉をテーマにした永瀬隼介『彷徨う刑事 凍結都市TOKYO』、〈グリコ・森永事件〉をモチーフにした塩田武士『罪の声』、〈豊田商事事件〉をモデルにした事件を導入に使って詐欺の現代史のような世界を描いた月村了衛『欺す衆生』なども、まったく違う様々なアプローチで過去の事件を描いていて、おすすめです。ぜひご一読を!