今まで私と一度でも繋がってくれた方へ。何故、あなたは書くのですか?
リライトって、緊張しますよね。
先日から何度かほのめかしていた(何故?)久し振りの企画参加になる、「#リライト金曜トワイライト」用の小説を投稿しました。
実はこの作品のヘッダー画像をぎりぎりまで今回の記事の猫野サラさんの絵にするかどうか迷っていました。素敵な絵だったので。とはいえ、私のリライトした作品とは違う作品のために書かれた絵だし、両方使うなんてことはできないし……ということで、リライトの話も兼ねる今回使わせていただきたいなぁ、と。
私が選んだのは、「淡く”青く”小さく”マシュマロ”のように柔らかい」という作品で、「あっ、あの人やあの人の作品と一緒だ~、趣味が合うな~」とか思ったりしながら(このふたつが好みだった)、多くの方が選ばれた「また会える」という作品も素晴らしく、この二日間は人生で一番〈赤穂浪士〉を文字として見た日でした。
ぜひこれもリライトしてみたいな、とは思うものの、最初に書いたようにリライトは難しい。……そして何よりも今回の企画で求められる作品解題が苦手なので、結局こっちのほうが書けずに断念してしまいそうな気がします。池松さんの作品は本当に素晴らしいので、おすすめです。
ちなみに私がリライトした「紙飛行機を飛ばして。」の作品解題は約3000字ほどあり、2000字ちょっとの本文よりも長い、というおかしなバランスになってしまいました。noteに来てから、私が詳細な作品解題を書くのは二度目です。もうこの二回で、一生分の作品解題を書いた気分です。苦手とは言いましたけれど、今回書いてみて悪いものでもないのかな、という気もしました。もちろん今後書くかどうか別ですが、苦手なものは苦手です。
ぼんやりとしていた輪郭がくっきりとしていく感覚、と言ったらいいんでしょうか。文字として書き起こすことでさらに思考がクリアになる、と言ったほうが正しいでしょうか。
もうすぐ私の投稿数は400記事になるみたいです。つぶやきみたいなものもあるので、本当に記事だけでの400にはまだ時間が掛かりそうだけど、まぁとりあえず、そこそこ書いているひとと思ってもらえれば……。
私は、noteに来るまで、本のレビューを書いたりしていたことはあっても、投稿サイトの経験は、ほぼゼロと言っていいおそろしいほどのビギナーだった。交流の仕方なんて分からなかったし、誰かとやり取りをしたいという気持ちもなかった。
と、こんな言い方したら、誤解を招きそうだな……、それは別に孤高を貫いている、とか、私が独りだから輝くタイプだ、とか、そんな格好の付く理由でなく、本当に分からなかったのだ。交流を楽しむという形もあるのだ、ということさえ頭にないほどの無知だったのだ。
はっきりと言えば、仕事の合間の暇つぶしでしかなく、それ以上でもそれ以下でもなかった。ただ本の感想をだらだら書くだけ。多くのひとも同じような動機でやっている、と思っていた。動機なんて十人十色なのに、十把一絡げにしていたのだ。
だから最初の頃はおそろしいほど、他者との関わりがなく、そこに嬉しさも寂しさも何ひとつもなかった。
始め方がそんな感じだったせいもあるのかもしれない。なぜ自分は書いているのか。そんな状況で考えるほうが逆に不思議なくらいの状態だったのだ。例えばひとりでドラクエしていたとしても、なぜ自分はドラクエしているのか、とはならないでしょう? いや、なるひともいるのか?
……まぁひとりでだらだらやっていることに対して、「何故、自分は〇〇なのか?」となると、大抵やめてしまうものです。多くのひとにとって、他者の存在に何かを続ける側面があるのは間違いないでしょう。
そして……、
明確な動機の無いままはじめた人間は、思考の迷路の真ん中で立ち止まってしまうのです。
ある時期から他者との交流を持つようになり、これは思いの外、楽しく、刺激的だった。
色々な大志や目標、夢。あるいは明確なヴィジョンとともにnoteで文章を書く人。プロの小説家になりたい、人気者になりたい、誰よりも優れたものが書きたい(研鑽を積みたい)、誰かの助けになりたい、色々なひととの交流が楽しい……。色々なひとに出会い、時に嬉しく、時に哀しく、時に苦々しくその文章に触れながら、私は自分自身に問い掛け続けていた。
自分自身に向けて、
なぜ、お前は書くのだ、と。
呪いのようだ、と思った。
書きたいから書いている、とか、小説の愉しさの共有だ、とか、過去の記事に書いたそれらの理由も、私自身は真実だ、と信じて書いている。〈信じて〉と言葉を付けるのは、自分自身が腑に落ちてなくて、この言葉を疑っているからだ。お前のそれは本心か、と。
結局ひとつに括れるようなものではないのかもしれない。それでも……。
最近は先日の作品解題だけではなく、日記やエッセイ的な以前はまったく書かなかったものを書くようになったせいか、思考は前よりもクリアになっているのかもしれません。もうすこし考えを深めてみようかな、と。
すでに見ている方もいるかもしれませんし、先日、別の記事でも載せたのですが、こんな私のツイートにこんなものがあります。
私自身がふと考えたことを何の気なしに載せたに過ぎないのですが、何人かの方が教えてくれて、それがどれも素晴らしいものばかりだったため、これを挙げてから一日の間、私は嬉しく楽しい気持ちで作品と向かい合うことができました。
そんな中、こんな返信をしてくれた方がいました。お知り合いの森本しおりさんから、
〈ちなみに、なぜふつうにベスト1を聞くのではなく、一個残して他を消す想定なんですか?〉
と聞かれて、
その時までベスト1を聞く発想がなかった私は、それを聞いて「あっ、確かにΣ(゚Д゚)」となりながらも、こんな答えを。
他のひとの考えを推測しているようで、結局これは私自身のことを言っていたに過ぎないのかもしれません。たったひとつしかnoteに作品を残せないのなら、私は〈純粋な自信作〉や〈リアクションの数〉よりも〈自分にしか書けない〉や〈自分だけの〉作品を残したい、と。
じゃあ〈自分にしか書けない〉〈自分だけの〉、って何だろうか?
つまりは個性のことではあるけれど、この言葉ってすこし癖者だと思っていて、同じ人間が存在しない以上、作者の数だけそのすべてに等しく個性があり、あるいはつねに他の誰かが書ける可能性があるものに個性がないのなら、世の中のすべての作品には等しく個性が無いような気もする……なんていう屁理屈が頭から離れなかったりもする。
つまりは、すごいユニークな作品を書きたい、とか、そんなことではないのだ、と思う。
除外した側に〈純粋な自信作〉という言葉がありますが、技巧的にうまく書けた作品、というのは満足感が強くて、とても印象に残りやすい。私もミステリを書いている時に、パズルのピースが合うと、とても嬉しい。ただ、すくなくとも私にとって書きたい小説は、心で感じたことを、頭で書くものであり(この〈心〉は人間の心情を捉える、という意味ではなく、書きたいものを思い浮かべる気持ちに近い)、必ずしもこの「うまく書けた」という満足感が、イコールで結べるとは限らない、ということです。
心に感じた物語を咀嚼して、自分自身がそれを何としても作品という形で残したい、と思った時、それが私にとっての〈自分だけの〉物語なのだろう。似たような物語がいくらでもある、とか、そんなことはどうでもいいのだ。これは自分自身の想いの話だから、他人は関係ない。
私は痕跡が欲しいのかもしれない。私自身が後悔しない、確かな痕跡。そんな〈自分だけの〉物語にひとつひとつ近付いていく――あるいは作ろうとする――ことが、私の創作への原動力の大きなひとつになっているのは間違いなさそうだ。
私が死んでも私の作品は残る、なんて文豪みたいなことは欠片も考えていない。
もっとちっぽけで、でも結構大それたものだ。
私は知りたいのだ。私が、私だけの物語を書いたことを。私は気付きたいのだ。私が、私だけの物語を書けることに。きっとその願いは叶わないまま、私は消えてしまうだろう。叶って欲しくないのだ。叶ったら、もう自分は何も書かなくなるだろうから。
だから私のnoteに残したい一作は、つねに暫定王者だ。
まだまだ納得なんてしきれていない。
勝手にひとの気持ちは推測はできませんが、おそらく私に素晴らしい作品を紹介してくれた方々も、これからを見据える中で、今ある中から、里程標のひとつとして挙げてくれたのだろう、と思います。きっと、まだ、みな、道半ば。
私だけの作品が確かにあるのかもしれない、と思わせる痕跡でも構わない。私は自分のためにそれを残したい。その痕跡が、確かにあった、という事実に気付いてくれるひとがいたら、こんなに嬉しいことはないだろう。
動機も、いまだに不明瞭な中で、すくなくとも今、答えのひとつとして出せるのが、これでした。
今からふたつの問いを投げます。
Q「もしnoteにたったひとつの記事しか残せなくなったら、どの記事を残すか? あなたの里程標となる一作を教えてください」
Q「何故、あなたは書くのですか?」
これは企画でもなんでもありません。アンサーするもしないも。それをどういう形で書くのかも。すべて自由です。
ただ、すこし考えてみませんか……?
という、今まで私と一度でも繋がってくれた不特定多数の方へ、と宛てた手紙みたいなものです。繋がり、というのは、やり取りを交わした、という意味ではありません。この文章を読んでいる方も、私と繋がってくれた方です。
日記っぽく始まったので、最後も日記っぽく終わらせることにします。
手紙、と言うと、なんとなく私は嶋津亮太さんを思い出します。第三回の教養のエチュード賞が開催されるみたいですね。第一回の時、それまで私は何人かの小説書きの方と数度やり取りするくらいしか、周囲との関わりがなかったのですが、クマキヒロシさん経緯で賞のことを知り、でもサポートを閉じている私には参加の資格がないなぁ、と思いつつ、賞の要項を読んで、このひとは私の作品をどう読んでくれるだろうか、と思い切って、サポートのことを伝えた上で参加した記憶があります。快諾してくれた嶋津さんはなんと心の広いひとだろう、と思ったものです。
今回応募するかどうかは決めていませんが、応援者にはなろうと決めています。
私にとって、あくまでも賞は副次的なもので、そのお題に沿って自分が何を書けるのか、とか、どんな素敵な作品に出会えるのだろうか、とか、そういうもののほうが大事だったはずです。
これは教養のエチュード賞のことではなく、一般的な話として読んで欲しいのですが(教養のエチュード賞は、優劣ではない、と嶋津さんの力強い言葉があるはずです)、
賞や競い合う企画は、自分が参加者となると、そこに〈競い合う〉〈勝ち負け〉という観点が生まれます。優劣を決めることが、悪いと思ったことはありませんし、そもそも私の中にも優劣は存在しています。誤解が無いように言っておきますが、優劣と価値は別物です。相手にそんなつもりはなかったとしても、透明性の強い場所で行われるやり取りの、自分自身の心のコントロールは意外と難しいものです。
大切なのは、優劣の決められるその場が、今の自分にとって本当に必要なものなのかどうか、ということです。今、私が(あなたが)、noteで何を書きたいのか、何をしたいのか。
企画やコンテスト(私設、公設を問わず)は多いですよね。note以外も使っているひとは、さらにその量が増えます。良いか悪いか、あるいは参加するかしないかを判断するのは各人の自由です。
だけど……、
その判断する前に一度、
Q「もしnoteにたったひとつの記事しか残せなくなったら、どの記事を残すか? あなたの里程標となる一作を教えてください」
Q「何故、あなたは書くのですか?」
を考えてみると、おのずとよりよい答えが浮かんでくるのではないでしょうか?
でも、そうか~第三回か~、教養のエチュード賞は面白い作品が集まるから読む人間としても楽しみなんだよな~(読む時間があるだろうか、という問題はあるけれど……)。池松さんを知ったのも、この賞がきっかけだし、あの人も、あの人も、あの人も……教養のエチュード賞きっかけで知ったんだよな~、他にもいっぱいいるけど(ただ自分の交友範囲の狭さを伝えているだけ、ともいう)。
ひどくだらだらとしていて、やたらと長い日記になってしまいました。
通知が一切届かない形にしたのは、無理して読ませる内容の記事ではないよな、という判断からです。