見出し画像

『詩的日本酒論考』#1

明けてゆく。

暗かった恵比寿の空が白んでゆく。さっきまで身体を覆っていた熱が消えてゆくのを感じる。たぶん街の風に溶けて、もうどこかへ運ばれてしまったのだろう。熱は消えたのだが、その代わりに腹の底にある思いが湧いてくる。身体を巡ってゆく。それが言葉になり、脳裏に浮かぶ。

「日本酒が、酒が見せてくれる世界の表現はもっと大きなものでいいはずだ。」

この数か月間、自分の頭の中を占めていた疑問が氷解した瞬間だった。日本酒にさらにのめりこんだ2018年の終わり頃から感じていた疑問。それは「自分が書きたい日本酒レビューってこういうものなのだろうか。」というものだった。

日本酒を飲む、味を感じ、確かめる。それと同時に味を言葉にする。この一連の流れを繰り返すこと、もうなかなかの回数こなしてはいる。そう、「こなして」いる。この酒はこういう感じで、こんな香りがして、後味はどうで…。日本酒の多様性をもっと表現したいと感じていながら、やればやるだけ首が締まっていくような感覚がしていた。書いている時の高揚感と、終わった後の寂寥感。一日に何度も投稿する日はその繰り返しで更に嫌悪感が増している日もある。自分でやりたくてやっているはずなのに、そんな風になるなんてアホみたいだな、と何度も思う。

でも、また「何か書かなきゃ。」という思いに駆られるので、書く。
なぜだろう。酒がうまいから?それを伝えたいから?

答えは否。そうではなかった。その根底にあったのは「その酒をレビューすることで誰かに注目されたい。」という我欲だった。貴重なお酒をレビューすれば、その味について大袈裟かつ分かりやすく書けば、自分に注目が集まると思っていたのだ。

(やっている時は不思議と気が付かないのだけれど、我に返り今回想するとその欲は強かったように思う。書くことで注目されたいとか、そこの蔵のすべてを掴んだような感じに浸りたいとか…挙げればキリがない。)

そういう思いに対するアンチテーゼとして、冒頭の「日本酒が、酒が見せてくれる世界の表現はもっと大きなものでいいはずだ。」という言葉が出てきたのだと思う。

日本酒は飲むものであり、味わうものである。だからそれを何らかの形で表現するとしたら、当然味を正確に記述する。できる限り正確に。

だけれども、ここで言う「正確さ」とは何だろう。誤解を防ぐために述べるが、私は酒の味をできるだけ科学的につまり成分的に解析することは必要であると思う。でなければ私は恵比寿に行っていない。(下記の記事参照)

ただ、自分でも他人でもいい、誰かが酒を飲んでいるシーンを振り返ってみてほしい。酒がその誰かの口に運ばれるまでにどういう流れがあっただろうか。

その酒は、誰がついでくれたのだろう。
その酒は、どこで買ってきたのだろう。
その酒は、どのように保管されていたのだろう。



誰がどう作ったのだろう。どんな人なんだろう。どういう考え方を持って造って売ってるのだろう。だれがそれをどう伝えてるのだろう。そういえばそのお酒の横にあるアテ(おつまみ)は誰が作ってここまで運ばれたのだろう。

持ってある器は?酒の器は?

今その人はどういう気分で飲んでいるのだろう。
誰と飲んでいるのだろう。
境遇は。環境は。

その空間は暗いだろうか。明るいだろうか。
もしかしたら器に注がずラッパ飲みかもしれない。

宴会かな。それとも、一人静かに?

その日は疲れているだろうか。
病気はしていないだろうか。
直前には何を食べただろうか。
このあと何をするのだろうか。

こんなふうに数えだしたらキリがないくらいに、その酒は前後左右さまざまな流れの中に身を晒している。「ただその酒を味わう」なんていう状況は、この世の中のどこにもない。ただテイスティングをするにしても、前後が全く空白でいきなり純粋に「その酒を味わう」なんてことは、ない。

 

そういう前後の状況、環境、酒を取り巻く状況すべて含めて「その酒がもつ味わい」なのではないだろうか。

それを表現し、さまざまな状況で飲まれ楽しまれる様子を味とともに描き出すことで、遠回りではあるが段々とその酒自体がもつ性格が浮かび上がってくるのではないか。

とても時間がかかる方法ではある。けれども、何かを知ろうとした時に、答え(ここでは「あるお酒や酒蔵の本質」のようなもの)がほしいあまり性急になるのは、つまりある程度のところで「この酒はこういう感じだ。」と断定してしまうのは、事の本質や深みを捉え逃してしまう恐れがあると思うのだ。

酒が見せる世界というのは、それくらい大きく豊かで素晴らしく、一筆入魂しただけでは届かない深みがあるものなのではないだろうか。

もっと長い時間をかけて、お酒がゆっくりと新酒の青冴えした様子から濃ゆい黄金色へと熟成していくのを眺めながら気長に気楽に辛抱強くその世界を描いていってもいいのではないか。

ひとまずのオープニングに私が言いたいことは以上だ。

一言でまとめるとしたら、次のようになる。

1. 酒の味とは、その成分とその酒を取り巻く全ての環境状況を加味したすべてである。

どういう風に進んでゆくのか書いている本人もわからないが、一度上記のように思ってしまい何らかのインパクトを受けてしまった以上この方向で進まなければもったいない。

興味のある方は、お付き合いいただければ幸いだ。
並行してその時の考え方に基づいた酒の詩を投稿していこうと思うので、そちらも見ていただけるとさらに嬉しい。

不安しかないが、ともかく酒を飲み、考えて筆をすすめていきたいと思う。

乾杯!

酒と2人のこども達に関心があります。酒文化に貢献するため、もしくはよりよい子育てのために使わせて頂きます。