ランニングって、好きだよ
高校生が猛暑の球場で必死に動いているさまを見て、自分もなにかしなくては、という気持ちになる。お盆は毎年そうだ。暑いのに。
テレビを付けてみると、彼らの躍動には心がぐぐっと引き寄せられる。思わず右手左手両足…と動き出す。暑いのに。
今日はローテンションな午前中を過ごしたあと、昼飯を食べて本を読みつつ甲子園を観ていた。
なにかしよっか。暑いけど。
ひとりでいきなりできるスポーツは限られている。
ランニングだ。
わたしの体型を知っている人は「きっ、貴様が…ランニングを?!」と思うかもしれない。確かにそう思われても仕方がない。
高校生の頃は166cm、体重62kgだった。さらにその前、小学校の頃は陸上大会の1500mの選手にもなった。
あの頃から新生児10人分くらい人間的に大きくなった。
人間的に大きくなると、威厳が増すかわりに小回りがききづらくなるというデメリットがある。ちなみにわたしに威厳なんてない。今日も自分より27歳も年下の男の子に足蹴にされて起床した。損だらけの増量キャンペーンはもう10年くらい続いてる。
つまり、今日書くのはただ単に小回りがきかなくなったおっさんのランニング話である。わたしだったら多分読まない。
でもここまで読んだ皆さんには読んでいただきたい。2分時間を無駄にしたら5分無駄にしても変わりない。ご安心して読みすすめてください。
そんなこんなで、28歳の小太りは走り始めた。
かつて通った小学校までの行って帰って3キロほど。
はじめの一歩が、すでにして重い。もしかして、わたしはもしかして、今日すでにランニングを行っていたのではないですか。なるほど、すでに過酷なロードワークをしていたんだ、わたしは。
あまりに過酷すぎて記憶からロードワークがぬけおちてしまっていて、悲劇的に今2度目のロードワークに出かけようとしている…?!
そうか、だからこんなにきついんだ。きついのは体のなまりのせいじゃあないんだ。このクソ暑い夏の日に1回走れば誰だってそうだ。そうだよ。
違うよ。
紛れもない1回目だった。マジでなまった。
一瞬一瞬がきつい。右ひじ左ひじ交互に振って、なんとか折り返す。こんなときに限って信号は赤にならない。
こんなときに切に思う、「ねえランニングって何が楽しいんだっけ」と。
ああ、哀れな中年の入り口。気持ちに体がついていかない。けど、ちょっと楽しい。
汗はもうシャツを完全に侵食していて、はじめから水につけておいたのと変わらないくらいにビシャビシャだ。なんで今走った。今は14時だ。一番気温が暑いのっていつか小学校の時習わなかったのか。
全て忘れていってしまうね、そんなことは。
でもなんだか、やってみると楽しいから走り続けてる。ああきつい。
あの電柱まで、あの電柱まで走るんだ。
アスファルトって、こんなに走りづらかったか。
まあでも、あの電柱まで。
―電柱まで?
そういう風に「あそこまでは頑張るんだ!」って思って自分を奮い立たせる試みが、功を奏すのかは分からない。
けれど今日は思った。
「それなら、あの電柱までと言わずに、今ここで充実させればいいじゃん」と。
充実させるものは、10メートル先の電柱よりもっと近くでもいいんだよ。
イメージ的には、数学の微分とかだろうか。
瞬間の傾きを求めるみたいに、自分の意識を今ここで右脚左脚を交互に出すこと、右ひじ左ひじを交互に繰り出すことに必死になる。その一瞬一瞬に集中して、その瞬間瞬間に一工夫、二工夫をくわえて、その時を充実させる。
となれば、そこは達成の連続、あるいは失敗の連続。
ともかく「自分は今これをやるために必死になっている」ということで頭が一杯になって、不思議と手を触れる、足が動く。腹は減る。
ランニングは持久戦じゃない。無限に細かい瞬発力の戦いだ。
永遠が織り込まれたみたいな一瞬一瞬を燃やして、それがエネルギーになってわたしを動かしている。
炎天下で汗ダランダランになりながらそんなことを考えて、うれしくなった。
そっか、これがランニングの楽しさなのな。今の。
そっか、小学校とか高校の時は力任せに走って、それで十分だったけど、太って不自由になって走って気がつくこともあるのだね。
あるのだね。
そのあとめっちゃくちゃ寝た。妻子はプールで遊んでた。気づくと今日も飲みの時間だ。昨日も飲んだのに。盆だから仕方ないか。
昨日はあんなにカラオケの用意したのに、カラオケじゃなかった。
今日はカラオケです。アハハ。昨日の文もよかったら読んでね。
行ってきます。
ね、中年に向かっていっても楽しいことってある。生きてちるものだね。走ろう。ランランラン。
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