「黒き魔人のサルバシオン」1

あらすじ

 エルキュール・ラングレーには誰にも言えない秘密があった。ヒトとは異なり食事を必要としないこと。ヒトとは異なりその身体に血が通っていないこと。エルキュールはヒトではなかった。古き時代からヒトに仇なし、世界の秩序を乱す、魔人と呼ばれ忌み嫌われる種族であったのだ。

 彼の唯一の理解者だったのは、人間として生を受けた家族のみ。幸か不幸か彼女たちに拾われ、母と妹と共に生きてきた。彼が自己を自覚する以前から、ずっと。
 その生活は苦難に溢れていた。一度エルキュールが魔人であることが知れ、結果として彼は家族の故郷を奪った。それから二度と過ちを繰り返さぬよう、彼は自らを閉じ込め続けた。

 自罰の末、次第に家族にすら壁を感じるようになって来た頃、エルキュールに転機が訪れた。家族と共に移り住んだ街は魔獣の襲撃にあった。そしてその騒動を手引きしたのは、エルキュールと同じ魔人によって構成された反社会集団「アマルティア」であることが発覚して。

 

 名もなき丘の上。
 平時なら静寂に包まれているはずの彼の地は、その夜、溢れかえるほどの人々で埋めつくされていた。

 たとえばそれは、泣き叫ぶ幼子。
 あるいは、子を宥める親。
 身を震わせ叫ぶ者たちもいた。

 反応はそれぞれ異なるが、確かなのは、誰も彼もが一様に悲嘆に明け暮れ、丘の麓で盛る劫火に、果てしのない喪失を重ねていたこと。

 この者どもが住んでいた村は、僅か一晩の内に救いようもなく決定的に破壊された。
 彼らにとっては最も忌み嫌うべき宿敵によって。

「――――」

 そんな凄惨たる状況の中で一人。
 人々から少し離れたところで佇む青年だけが悲哀と無縁であった。

 飾らない灰色の髪に、鈍い光沢を放つ琥珀色の瞳。

 青年はまるで感情が抜け落ちているかのような虚ろな表情で、周囲の者たちの止めどない慟哭を、彼方で激しく燃え上がる赤を、同じく虚ろな瞳で眺めていた。

 もちろんこの場にいる以上、彼もその人々と無関係ではない。

 彼は正しく、あの燃える炎の中にあった村に住んでいたし、それで尚こうして人形のように静かであった。

 青年が残忍であるからと聞かれればそれは否であるが、青年には血も涙もないと聞かれれば、それは是であった。

 矛盾していると思うだろうか。

 だが文字通り、青年には血も涙もなかった。

 本当に彼の肉体には血が通っておらず、未だ瞬き一つすらしないその瞳から涙が零れることはない。

 はっきり言って青年は人間ではなかった。比喩的ではなく、生物学的な意味でだ。

 だから、こんな時にどんな感情を拾って、どんな表情を貼り付けて、どのように振る舞えばよいのか、青年には何一つ分からなかった。

 悲嘆、憤慨、絶望。

 短いヒトとしての生活を経て、どれも言葉の上でだけは知っている感情であるが、青年はいまだかつて己の内にそれらを感じたことがなかった。

 圧倒的に経験に乏しく、感情を抱くまでに至っていない。
 ゆえに青年は、こうして立ち尽くすことしかできないでいたのだ。

 そんな青年の内情は、もちろん周りの人間に理解できる類の話ではなかった。

 無表情に立ち尽くす青年のその姿は、傍から見る人には薄情や冷血という言葉を想起させ、人によっては自分たち住んでいた村が滅んでしまったことを嘲っているようにも見えたかもしれない。

 ともあれ、青年の振る舞いは周囲の反感を大いに買い、注目を浴び、やがて怒りの捌け口へとなってしまった。

 呆然とする青年に対し、住人の一人であった男の拳が振るわれる。

「っ、お前の……お前のせいだ!! 村が焼かれることになったのも! あいつらがみんな死んじまったのも! お前が、魔獣どもを呼び寄せたからなんだろ!?」

 単なる怒りの捌け口としてではなかったようだ。

 青年を口悪く謗るこの男は、この幻のように儚い青年こそが、眼下に広がる災厄を招いたものだと見做したようだ。

 確かに青年はヒトではないが、傍から見るとヒトとしての形を保っている。
 魔獣のように醜く、卑しい本能に塗れた怪物とは程遠い外見。

 男の主張は、冷静さを欠いたことによる八つ当たりにしか思えないが、彼の暴行を目撃していた周囲の者も、青年自身も、男が指摘したことに異を唱えることはしなかった。

 然したる防御もせず、真っ向から振るわれる拳を受けた青年は、空中に弧を描いて吹き飛び、その身体がやがて背中から地面へと叩きつけられる。

 大の男の渾身の打撃を喰らっても青年は痛みを感じないのか、やはり無表情に夜空を見上げるばかりだった。

 その様子に男はいっそう怒りを滾らせ、男と大差ないほどの恰幅の身体を胸倉を掴んで立ち上がらせると、もう片方の腕を振り上げた。

「もうやめて……! やめてください……!」

 そして同じように拳が下ろされるだろう、そう誰もが思った刹那のこと、高く上げられたその腕を横から飛び出てきた女性が遮る。

 紫紺の髪を靡かせる、妙齢の婦人であった。

「誤解です、きっと誤解なんです! この子がそのように酷い事をするはずがありません!」

「ぐっ、リ、リゼットさん……放してくれよ! 誤解だって言われてもなあ、俺は見たんだよ! 村が襲われる直前、こいつが魔人の姿をしていたところをなあ! それから魔獣どもが一斉に現れやがったのは、こいつの魔素に惹かれたか……もしくはグルだったからに違いねえだろ!?」

 躊躇ったのは一瞬で、男は女性の華奢の手を乱暴に振り払う。

 勢いのままにその場にへたり込む女性に、男は鋭く告げる。

「それに、あんたはこいつの正体を知っていながら俺たちに教えなかった。そればかりかこいつを匿い、人間だと見なして家族ごっこに興じていたんだ! そのあんたに俺を止める権利なんてねえ!!」

 吐き捨てるような叫びと共に、男は青年が来ていた服を胸元の部分から強引に裂いた。

 より露わになる喉、首筋、そして――。

「あ……」

「ははっ! あんたがこいつをやけに隠したがっていたからおかしいと思っちゃいたが……まさか本当に魔人だったとはなあ!! おい、皆見てみろよ! こいつの胸のあたりにあるモノ、魔獣に付いてるモンとそっくりだぜ!」

 露わになった青年の胸元は、部分的には人間の肌と大差ないが、所々に漆黒に光る痣のようなものが見られ、まるで継ぎ接ぎのぬいぐるみのような奇怪な印象があった。

 それだけなら、まだ火傷か何かだと言い逃れることもできようが、問題はそこに止まらない。

 胸元の中心部、一際強い光を放つそこには、透き通るような黒で形成された塊が鎮座していた。

 胸に石が埋め込まれているかのようなそれは、もちろんヒトの身体には存在しない器官。
 黒い半透明の塊は、人間で言うところの心臓のような動きで明滅を繰り返しており、青年の非人間性をこの上なく残酷な形で周囲の者へと曝した。

 そしてその決定的な露出により、それまで虚ろだった青年の顔に初めて変化が生じた。

 誰にも見せてはいけないといわれていたモノ。この世界の敵であるという証。

 それが明るみに出てしまった事実は、劫火に耐える青年の心すらも揺るがしたようだった。

「ひっ……やっぱり本物の魔人……!?」

「なんという邪悪な光じゃ……!」

「彼の言葉は本当だったのか……気味が悪い……」

 周りにいた元住民たちは青年の露出した胸元を見ると、忌々しく眉を歪めて各々が強い不快感を示した。

 その声を耳にした青年の顔に、微かに悲しみのような表情が宿る。

 周りからの共感と、青年の鉄の面に傷をつけたことに満足した男は、青年の方を見て冷笑を浮かべた。

「見ろよ、この反応! お前はたまたま運が良かっただけだが、所詮は魔獣どもと同じで俺らの敵なんだよ! おら、同類なんだろ? 俺たちの村を焼いた責任をとってもらおうか? いいよな? お前らバケモノが最初に奪ったんだ、なにも間違っちゃねえよなあ!?」

 男は青年を殴り飛ばし、刃物を懐から取り出す。

 たとえ無抵抗であっても、刃物で魔物を殺すことは難しい。

 しかし何百何千と傷を付ければ、それも決して不可能ではないことで。

 憤怒と狂気に塗れた瞳の彼にとって、それはきっと容易く行えることで。

 周りの者たちも男を止める素振りを見せなかった。
 恨みの籠った目で地に伏した青年を睨みつける者もいれば、あまつさえその行為を煽る者もいた。

「魔人風情が人間の皮をかぶっていた上、俺たちの近くでのうのうと暮らしていたとはなあ……ああ、虫唾が走るぜ。まったく、存在が許されないゴミは駆除しないとなぁ……!?」

 その声をよりいっそう冷たいものに変え、男はじりじりと青年との距離を詰めるが――。

「お、お兄ちゃんはバケモノでもゴミでもない!!」

 またしても、青年を庇うように小さな影が割って入った。

 先ほどの婦人によく似た容貌の少女である。
 あどけなさが残るその顔は涙でくしゃくしゃになり、堰を切ったようにでたその声は怒りと恐怖に震えていた。

 脚に宿るは今にも折れそうなほどに脆く、今まで何一つ声を上げなかったのも頷けるほどに怯えている。

「き、君はリゼットさんの――」

 しかし、たとえ吹けば飛ぶようなその身体でも。

 幼き少女のなけなし勇気は、一瞬ではあるが男の歩を止め、青年の命が潰えるのを僅かに遅らせたのだった。

「アヤ、いけない! くっ……もう、こうなったら……!」

 その一瞬だけ生まれた空白を、少女の母は見逃さなかった。

 地につくばる身体を起こして立ち上がると、狼狽えて動きを止めている男を全力で後ろから突き飛ばす。

「な……クソっ!」

 幸い、傍観していた人々と青年たちとの距離は幾らか空いていた。

 女性は泣き喚く少女と呆然とする青年の手を急いで取り、その場からから逃れるように丘の上の方へと走り出した。

 突然の出来事に、倒れた男も他の者もすぐには反応できない。

 気付けば三者の背中は遠くなり、男は逃げていく彼らを苦虫を噛み潰したような表情で見据えた。

「ちっ、クソったれ! バケモノを庇うなんて……あんたらもどうかしちまったんじゃないか!? 逃げるってのなら勝手にしろ、どうせ野垂れ死ぬだろうがな!」

 逃げる青年たちの背に男の負け惜しみにも似た声が刺さる。

 彼は追ってまで青年を殺すつもりはないようで、青年を恐れていた者たちも、その脱出を見て安堵の表情を浮かべた。

 男たちは青年に対する並々ならぬ敵意こそあったが、やはり逃げる彼らを追うものは一人としていなかった。

 ここに至るまでに憔悴していたのもあるだろうし、恐ろしい魔人と関わり合いになりたくないと考えたのかもしれない。

 もしくはこの夜分に丘を上って逃げても、決して無事には生きられないだろうという侮蔑だろうか。

 いずれにしても、今の青年達には僥倖なことであった。

 丘を登り、下り、そしてまた上り。

 そうして男たちの姿が見えなくなったころで、それまで全速力だった青年たちは足を止めた。

 意図した動きというよりも、力が無意識に抜けてしまったといったほうがいい。

 住処を失い、同じ住民で会った者たちに詰られ、ここまで駆けて。

 精神的に疲弊していた彼らは、とにかく休息を渇望していたのだ。

「ここまで来れば、ひとまず大丈夫、かしらね……」

 追っ手が来ていないことを確認すると、呼吸を整えつつ母親が笑みを浮かべる。

「お母さん……ぐすっ、わたし……」

 それまで堪えていた不安が弾けた少女は母親に思いっきりしがみつく。その目には大粒の涙が溢れ、声もしゃがれている。

「……もう大丈夫よ、アヤ。怖かったわよね……よしよし……」

 青年をかばうため、勇気を奮い立たせ男の前に立ちはだかっていたが、その実恐ろしくてたまらなかったのだろう。
 再び泣き出してしまった少女の背を、母親の手が優しく慰める。

「――――」

 そんな親子の絆を少し離れたところから眺めていた青年の目線が、ふと先ほど衣服を破られた自身の胸元に向けられた。

 継ぎ接ぎの肌の色と黒く明滅する塊。この状況を招いた元凶。

 果たして本当に自分のこれが、魔獣たちを呼び寄せてしまったのか、今の青年には理解できなかった。

 しかしこれがなければ、青年があの場にいなければ、あの親子と共にいなければ。
 彼女たちがあんなにも傷つき、村を追われることはなかったはずであるのも確かだった。

 青年の意識に先ほどの男の言葉が蘇る。

「……世界の、敵……生きる場所が、ない……?」

 青年の口からたどたどしく声が漏れる。それまで曖昧だった感情が、明確に彼の心に湧き上がる。

「バケモノ、魔人……存在が許されないゴミ……」

「……お兄ちゃん?」

 ぶつぶつと呟かれる声に、平静をいくらか取り戻した少女が気づき青年に声をかける。

 しかし、その声に反応する余裕が青年にはなかった。
 その内にはかつてないほどの負の感情が渦巻いていた。

 絶望、罪悪感、諦念、疎外感、未知の感情に青年の心は嬲られてゆく。

 自分の中の何かが決定的にしまったのを朧気に感じながら、青年はやがてある予感へと至った。

 この出来事は自身にとって特別な意味を持つようになるだろうと。

 逃れ難い罪として、それを背負ってこれから生きていかなければならないという罰として。

 己の自由を奪い、魔人としての立場に縛り付ける軛として。

 そうして、この件に端を発する彼らの放浪の旅は、人目を避ける生活は、約五年ものあいだ続くことになった。

「……あれから八年か……」

 幾度となく繰り返し読んだ単行本を両手に持つエルキュールの眼が滑る。

 なにも質素な自室の窓から朝の到来を告げる、小鳥のさえずりのせいだけではないだろう。

 それは追憶だった。

 エルキュールにとっての原初の記憶、忌み嫌うべき記憶のせいだった。

 本を両手でぱたりと閉じると、エルキュールはやや上を見上げてゆっくりと目を閉じた。

 中断させられた読書を再開する気もなく、ただそうして、エルキュールはいつものように心を落ち着けた。

「――というか、そろそろ出る時間だったな」

 ゆっくりと目を開けて思い出す。

 窓から見上げれば小鳥の便りにするこもなく、遠くの空が白んでいるのが分かる。

 さらに外から入り込むほのかに吹く風が、春の陽気を微かに感じさせる。

「アザレアの花も、今朝は良く咲いているようだ」

 窓辺に飾った黒い花弁、かつてエルキュールの故郷に多く生息していたそれは、今日に限っては彼の心を妙に撫でる。

 エルキュールはそれを指でちょんと突っつき軽く水をやると、身支度を整えようと部屋の奥にある姿見の前に立った。

 エルキュールにとってはもはや見慣れた自分の姿が鏡面に映しだされる。

 作り物と見紛うほどの端正な顔立ち。窓からの光に照らされた明るいアッシュグレーの髪。吸い込まれそうなほどの美麗な輝きを備えた琥珀色の瞳。

 そのすべてから、どことなく人間離れした雰囲気を醸し出していた。

 だが、そこから下に目線を移動させれば、先の人間離れした雰囲気云々という言葉は、単なる比喩表現にとどまらないものへと変わる。

 その首元には、人間にはまずあり得ない、黒く発光する痣が服の外へ顔を覗かせており、見る者に気味の悪い印象を与える。

 さらに、目線をより下に向けた先にある胸元においては、薄手の服の生地の上からでも分かるくらいに、怪しげな黒色の光が明滅していた。

 首元の痣も胸の明滅もイブリス――人類が魔物と忌み嫌う生命に特有のもの。

 人の世界で、人の街で、人の社会で、人としての生を演じるエルキュールは、そのじつ人間ではなかった。

 人間や動物などの有機生命体・リーベとかけ離れた痣やコアは、完全な物質化に至っていない魔素――魔素質で形成されている。

 そしてその存在は、エルキュールの非人間性を証明すると同時に、両者を決定的に異にするものでもあった。

 エルキュールは人型のイブリス、魔人としての在り方を否定し、その力を押さえつけることで、これまでその正体を露呈させることなく家族と共に生活してきたのだが。

 あらゆる物体を構成する要素である魔素質、その可塑性を以てしても、これ以上は人の姿を模すことは難しく、胸の中心にあるコアに至ってはそのままの状態で残すほかなかったのだ。

「このまま外に出ていたらまずかったな……」

 魔素質の自然発光は注力すれば抑えることができるが、夜通し本を読んでいるうちに、抑えている痣やコアの発光が元に戻ってしまっていたらしい。

 小さく息を吐き、意識を集中させる。すると、怪しげな光はたちまち収まっていった。それに伴って倦怠感と脱力感が全身に襲いかかるが、それに抗うように身体に力を込めて姿勢を保つ。

「はぁ……」

 首元の痣も目立たなくなり、傍から見れば人間にしか見えない姿に戻ったにも関わらず、エルキュールの表情は憂鬱に満ちていた。

 些細なことにまで気を張らないとまともに生活を送れない、厄介な自分の身体に辟易したためか。

 自らの在り方を捻じ曲げざるを得ない現状に対する不満か。それともそこまで己を封じることへの疑問だろうか。

 エルキュールの顔色にはきっとその全ての意味が内包されているのだろうが、その感情と思考の果てに彼が明確な答えを見つけたことはなかった。

 ヴェルトモンド大陸にあるリーベが建国した人類の国の一つ、オルレーヌ王国。
 王都ミクシリアから幾らか離れた、国の北部に位置する街、ヌール。

 家族と共に住むこの地のみが魔人であるエルキュール・ラングレーの唯一の居場所であり、それ以外の生き方を彼は知らなかった。

 だからと言ってリーベの国であるオルレーヌに、魔人であるエルキュールが平然と暮らしていることが周囲に知れたらどんな仕打ちを食らうか。

 過去の忌まわしい経験から察するに、それはエルキュールにとってこの上なく悲しいものになるだろう。

 故にエルキュールは自分の正体を隠し、立場を偽り、極力目立たない生活を心がけてきたのだ。

「それに、この生活はなにも今に始まったことではない」

 十年ほど前――物心がついたときから、エルキュールはリーベの世界にいた。そんな彼の傍には親愛を向けてくれる母と妹がいてくれた。

 それはエルキュールにとっては変わることのない事実。

 なればこそ、多少住みづらくてもここがエルキュールの住むべき世界なのだ。

「うん、しっかりしないと。俺を気にかけてくれる人たちのためにも」

 もはや何百と繰り返した自問に無理やり終止符を打ち、身支度の続きへ戻る。

 姿見のすぐ横にある棚を開け、首まで隠れるほどの厚手の服に袖を通す。手には愛用の黒い手袋をはめ、何度か拳を握って感覚を馴染ませる。

 肌はできるだけ隠しておくに越したことはない。押さえつけている力が抜けて痣が表出しては目も当てられないからだ。

 最後にエルキュールは黒色の外套を羽織り、最後にもう一度だけ容姿に異常がないことを確認すると、部屋にある魔動時計に目をやった。

 針は六時を指し示していた。

「――出かける前に彼女たちも起こしてやらないといけないな」
 
 エルキュールにとっては、彼が未だにこの世界に属する唯一の理由にもなっている者たちの姿を思い浮かべ、彼は静かに階下へと向かった。

 エルキュールとその家族が住む木造住宅は、平均的な王国民の住居に比べてもややこじんまりとしている。

 二階にはエルキュールが住むだけの空間と、一階には家族二人の部屋とちょっとした居間があるのみ。

 早朝のためエルキュールが気を遣って静かに下りても、数秒ほどですぐに居間へとにたどり着いた。

 魔人であるエルキュールの視界は人と比べてかなり優秀で、暗がりの中であっても普段彼らが使う木製の長テーブルと椅子の輪郭がはっきりと見てとれた。

 しかしエルキュールはよくとも、他の者にとってはそうもいくまい。

 まずは明かりをつけようと、エルキュールは部屋の天井に備え付けられた変哲もない照明を見上げると、そっと手をかざした。

 それから意識を集中し、周囲の外気に含まれている光の魔素を感じとる。

「――ライト」

 エルキュールが短く詠唱すると、その照明に明かりが灯った。

 光を灯すことができる、光属性の初級魔法。

 魔素を感じて使役する魔法は、決して誰しもが使える力ではないが、これに関してだけはその例からも外れると言っていいほど、一般的で汎用性が高い魔法だといえるだろう。

 ヴェルトモンドで生きていくならば、この程度の魔法は扱えないと苦労するからと、昔から一般の学校に通う子供ですら学ぶのが通例になっているそうだが。
 近頃の上流階級の家では魔法技術の発達により、魔動機械の照明が備え付けられるようになっており、手動で魔法を使わなくともスイッチ一つで明かりを灯せることができるらしい。

 確かそのことで「若者の魔法離れ」とか「行き過ぎた魔動機械化は怠惰のもと」が引き起こされるとか、エルキュールはどこかの評論家の著書を読んだことがあった。

「……でもそんなに便利なら、日ごろの感謝のしるしに買ってみるのもいいかもしれないな」

 質素な家の様子にそんなことを口にしながらも、室内に明かりが灯ったのを確認したエルキュールは、母と妹の部屋の方へ歩いていく。

 部屋の扉を前にし、エルキュールは念のため扉をノックした。

 不慮の事故があったら困るというのもあるが、やはり未だ彼の心のどこかでは二人に遠慮をしているきらいもあるのかもしれない。

 エルキュールがつまらない感傷に浸っていると、扉の向こうから声が返ってくる。

「……エル?」

 その声は細く優しさを湛えたもので、聞く者の気持ちを落ち着かせるような声質だった。

 いつもの寝ぼけた声とは一切異なる明瞭さを思うと、どうやらエルキュールがここに来る前にすでに目を覚ましていたようだった。

「おはよう、母さん。ごめん、少しうるさかったか?」

 声の主はエルキュールの母親・リゼットだった。同時に扉の向こうから足音が聞こえ、近づいてくる気配がした。

「おはよう。いいのよ、別に。いつも悪いわね、起こしてもらっちゃって」

 リゼットは挨拶を返しながら扉を開けてそう答えた。その静かな振る舞いから、妹のほうはまだ寝ているのだと察せられる。

「それこそ気にしなくていい。母さんたち――もとい人の多くが朝に弱いのは、もう嫌というほど知っているから」

 エルキュールのばっさりとした物言いに、リゼットは「あらー、そうなの」ときまりが悪いのを紛らわすようにおどけて返しす。

「……じゃあ、俺は出かけてくる」

「いつものところね? 気を付けるのよ」

 リゼットは快くエルキュールを送り出すが、直後に何か思いついたのか、「あ、そうだ」と彼を引き留めた。

 後ろから手を引かれたことに、エルキュールはくすぐったいような心地と若干の緊張感を覚えつつも、律儀にリゼットの方へ向き直る。

「どうかしたか?」

「――せっかくだから今日は一緒に朝食にしないかしら? ヌールに来てからあまり機会もなかったことだし、たまにはいいんじゃないかと思うんだけど」

「ああ、そう言えば……そうだったか……」

 共に朝食を食べよう。何気ないように思われるその提案に、エルキュールは煮え切らない態度を示した。

 自室で考えたことが心に浮かんだのもそうだが、やはりエルキュールと彼女との隔たりが彼を躊躇させてしまう。

 言うまでもなくリゼットたちはリーベに分類される人間だ。当たり前のように呼吸や食事、睡眠を行い、社会生活を行う。

 そしてそんな当たり前のことが、魔人であるエルキュールにとっては大きく違っているのだ。

 リゼットに拾われ、三人で過ごすようになって十年になるが、家族と過ごすことはエルキュールにとって嬉しくもあるものの、時に苦悩の原因にもなっていた。

 彼我の間に存在する決定的な違いを自覚させられるからだ。

 どれだけ足掻こうが、その差を埋めることは叶わない。
 そもそもの種が異なるためだ。
 リーベとイブリス、どれだけ姿を似せようとも、その在り方は全く別である。

 ヌールに移り住むようになって、家族以外の人間の姿を目にするようになって、エルキュールの内にある自意識は変化していった。

 もちろん、リーベにとって魔獣や魔人といった魔物は、忌み嫌い排除するべき敵という、ヴェルトモンドでは当たり前のように流布している価値観もある。

 本来ならば、エルキュールはこの場にいるべき存在ではなかった。
 かといって、他に行き場所もなければ、そこまでの強い動機もないというのが、彼を悩ませる一番の要因であるのだが。

「……エル、また悩んでいるのね? あの時の事を思えば気にするのも無理はないけど。……でもね、あなたが私たちと一緒にいてくれて、本当によかったと思ってるのよ。十年前から今まで、その気持ちが揺らいだことなんて一度もない。あなたは魔人であるけれど、それ以前に私たちは家族だもの」

 全てを見透かしたようなリゼットの言葉に、エルキュールはその琥珀の瞳を大きく見開く。

「それにね、あなたがずーっとそんな調子だから『兄さんが最近私に構ってくれないの!』って、アヤがうるさいのよ」

 リゼットがいたずらっぽくそう言うと、エルキュールの顔にも微笑が浮かんだ。本当に彼女の気遣いにはいつも頭が上がらない。

 昔から、彼女はずっとそうだった。

 彼女だけでなく妹のアヤも、エルキュールをずっと慕ってくれていた。

 自らが不利を被ると知っていながら受け入れてくれていたし、あの時も身を挺して庇ってくれた。

 かけがえのない存在だ。

 エルキュールは迷いを振り払うように息を吐くと――

「……分かった。用事を片付けたら帰ってくるよ」

 そう短く答え、むず痒い気持ちを隠すように足早に玄関へと向かった。

 その顔はそれまでに比べると幾分晴れやかな表情で。

「いってらっしゃい」というリゼットの声を背にして。

 その日の始まりはいつもより明るいものであった。

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