「黒き魔人のサルバシオン」10

「――ったく、やっぱ何か隠していたみてえだな」

 天を見上げながらグレンは恨めしげに呟く。横を見れば、眠りにつく前までそこにいたはずのエルキュールの姿がなかった。
 もちろん通常なら大したことではない。用を足しにいったか、眠れないから外の空気を吸いにいったか、今この場にいない理由は幾つか考えられる。
 しかし、エルキュールが出ていった理由はそんな気軽なものではないとグレンは半ば確信していた。
 彼の目、彼の声、彼の態度は、あの時ヌール広場で別れたときとは明らかに異なっていた。その表情は失意や悔恨で塗れていた。明らかに異常な状態であったのだ。あのような人間が正常に行動できるとは到底思えない、得てして過ちを犯すものだ。
 だからこそ、彼の行動には注意を払っていたつもりだったのだが、流石に疲れが溜まっていたようだ。

 己の不覚に舌打ちしながらゆっくりと身体を起こし、エルキュールに掛けられたであろう毛布を脱ぎ去る。
 彼はグレンが眠りにつくのを待っていたようだが、これに関しては甘いと言わざるを得ない。結果的にグレンを起こしてしまったのだから。

 だが今はその甘さに感謝する必要があるだろう。おかげで、エルキュールの状態が想像よりも遥かに悪かったことに改めて気づくことができた。

 寝ている人々を起こさないように静かに立ち上がる。

 何も言わずに出ていったということは、きっとエルキュールはグレンが追ってくることなど望んでいない。加えて、彼と出会って僅か数時間にして立ち入っていいものかという逡巡もある。本当はこれ以上関わるのは間違っているのかもしれない。

 頭では分かっている。ならば何故グレンは今立ち上がったのか。過去に捨て去った博愛の信条でも思い出したのだろうか。いかなるものが相手であっても、嘆きに喘ぐ人を見捨てることを認めない。甘く、愚かで、馬鹿げたかつての信条を。
 その博愛が必ずしも世のため人のためになるとは限らない。それどころか、他者からの裏切りという形で自身に牙を向くことすらあることを、グレンは嫌というほど知っていた。

 それでも、今回に限ってはこの行いをやめるつもりはなかった。街をただ守りたいから魔獣と戦うと言った彼の純粋な言葉を、家族について語っていた時のぎこちない微笑みを思うと、この現状は何とも悲しく、救いがないように感じられた。それだけであの優しくも哀れな男にお節介を焼くには十分すぎるといえるだろう。

「――うだうだ考えても仕方ねえな」

 エルキュールがどこへ行ったのか、何を為そうとしているのか、会って何を言うべきなのか。考えられることはまだまだあるが、これ以上ここで足踏みをしていてはその思考の意味も露と消えてしまう。
 今は足を動かすことが先決だ。そう決断し、グレンは天幕を後にした。

◇◆◇

 ヌールとアルトニーの間に広がる平原。その一角にはひっそりと生い茂る雑木林があるのだが、一刻前まで何の変哲もなかったその地に、膨大な量の黒き魔素が螺旋状に流動していた。魔法の放出の前兆でも、ましてや自然現象の類でもない。ただ大量の魔素が結合し、莫大な闇の魔力を帯びた一塊となっていたのだ。
 もはやそれ以外の視覚情報など無いに等しい。黒光は他のすべての光を吸収し、存在を掻き消してしまっていた。

「ウォォォ……っ、ふう……ここまで、か」

 全てが闇に溶けたその中心で、徐に声が発せられた。瞬間、一帯に溢れていた魔素と暗黒の光が霧散する。
 本来の姿を取り戻した林の中、自身の力を確かめるが如くエルキュールは胸にあるコアに手を押し当てる。己の中に闇の魔素が巡っているのを感じた。

 本来イブリスはこうして魔素を吸収しなければならない生き物だが、エルキュールはその活動を意識的に封じ込めていた。無論、人間社会で生きるうえで当然の措置であるが、それ故エルキュールの体内は慢性的な魔素の欠乏に陥っていた。
 もちろんその状態で全力が出せるはずもない。これからの戦いにおいて、力を出し惜しみすることは許されないのだ。忌み嫌っていた魔人としての力をも使わなければならないだろう。来るべき時に向けて、魔素を補充しておくことは不可欠だった。

「本当はもう少し吸いたかったが、仕方ないな」

 まだエルキュールの容量には余裕が残されていたが、それ以上の吸収は避けたほうが良いだろう。夜明けが近づいていることで、外界の闇の魔素は既に活性を失ってしまった。それとは別に、朝になればあの避難所の人々も移動を開始するだろう。受け入れ先の都合もあるだろうが、あそこにいつまでも留まる道理もない。進んで危険を犯すよりは、ここで中断したほうが賢明だ。

「とりあえずは王都に行くのが目的だな……奴らの目的を考えればいつかは首都に迫ってくるはずだろう」

 王都への道のりは長い。まずは隣町のアルトニーに向かう必要がある。自身のコアと魔素質の活動を抑えたのを確認し、エルキュールは鬱蒼とした雑木林から抜け出した。

 アルトニーへと続く本道へと戻り、順調に道のりを歩んでいたエルキュール。徒歩でなくともゲートを使う方法もあったが、魔素の使用量に対し一度に移動できる距離が短いのがゲートの難点である。小さな物体ならまだしも、人のように大きな質量を持ったものを転移させるのは本来適していないため、緊急時以外は使わないのが望ましい。

 実際に、もう既に丁度中間地点まで進んだほどであり、やはりこのままで問題ないとエルキュールは歩調を速めた。このままいけば朝には到着できるだろう。

 だが――

「……?」

 それまで快調に歩みを進めていたエルキュールの足がふと止まった。前方には何もない。特に身体に違和感が生じたわけでもない。念のため研ぎ澄ませていた魔素感覚を通じ、周囲の魔素に少し揺らぎがあるのを感じたからだ。
 原因は不明だが、エルキュールの後方で火の魔素が急に活性化し始めた。魔獣である可能性も十分に考えられる。エルキュールは注意深く振り返った。

 幸いにして魔獣の姿は確認できなかったが、ある意味そちらの方がエルキュールにとっては都合がよかったのかもしれない。
 人影がこちらの方に走ってきている。赤い髪を靡かせる長身の男。その事実を認識し、エルキュールは自身の判断を呪った。

「ふう、やっぱこっちにいやがったか……!」

 先ほど別れたはずの魔法士・グレンが、エルキュールの前に止まり肩で息をする。なるほど彼が持つ力に火の魔素が反応したのだと考えれば筋は通るが、そもそも彼がここにいること自体おかしな事である。エルキュールは疑念と煩わしさが籠った目でグレンを見下ろす。

「残念だったな、お前の思い通りにいかなくて。けどな、今のお前をこのまま一人で行かせるわけには行かねえんだよ」

「――何を言っているのか分からないな。俺はただ、この先のアルトニーに早く行きたかっただけだ。あそこの設備は大したものだが、どうしても快適さに欠けている」

「そんで街に着いてゆっくり休もうって? 冗談きついぜ、こんな時間に一人で行っちまうなんてどう考えても不自然だろうが」

 エルキュールの方便を鼻で笑うグレン。どうやら思っていた以上に疑念を抱かせてしまっていたようだ。

「……お前が為そうとしていること。何となくだが、オレには分かる。お前の目に溢れている失意、後悔、そして殺気。全てを捨てて闘争に身を窶すことに決めた、そんな風に思える」

「――だったらどうしたというんだ? 君に俺を止める資格なんてない。関係のないことだ」

「お前が勝手にいなくなったら心配する人がいるだろ……! 街の奴らとか、お前の家族とか! 今お前がしているのは――」

「間違っている、もしくはその人たちを悲しませるからやめろ、か? いい加減にしてくれ。だとしても、俺は戻るべきじゃない。人と共に在っていい存在ではないんだ!」

 口をついて出た言葉にはっとする。感情的になりすぎて余計なことまで口走ってしまった。
 そんなエルキュールの言葉に、グレンは当然困惑の表情を浮かべる。

「……あの時別れてから、一体何があった? 隠さずに本当のことを教えてくれ。何がお前をそうさせた?」

「…………話したら、もう俺を説得することを諦めると約束できるのなら構わない」

「ああ、約束する」

 ここを収めるにはもう選択肢はなかった。もちろん、自身が魔人であるということは伏せるが、グレンを納得させるためにはある程度深いところまで話す必要があるだろう。

「信じられないかもしれないが、アマルティアの今回の目的は街を襲うことというよりも、俺に会うことが主だったようなんだ」

「はあっ、お前に!? どういうことだよ、それは」

「理由は……分からない。ただ、奴らはこれから世界と戦う上で俺を求めているみたいだ。今回は運よく免れたが、このままではまた同じことの繰り返しになる。実際、奴も去り際にそのようなことを言っていたからな」

 アマルティアは目的を遂行する上で周りの人間のことなど気にもかけない。奴らにとって人間は汚染の対象でしかないからだ。エルキュールという目的のついでに、アマルティアは罪もない人間に容赦なく牙を向くだろう。
 どのようにしてエルキュールの存在に辿り着いたかは不明だが、そのまま普段通りに生活するだなんてことはできるはずもない。
 エルキュールから語られた事実に流石に驚きを隠せない様子のグレンだったが、すぐにその言葉からエルキュールの真意に気づいたようだった。

「――つまり、お前はこれ以上誰にも迷惑をかけないために、そして自分を狙うアマルティアと戦うために、一人で旅立とうとしていたのか?」

「ああ、その通りだ」

 全てではないが、極力譲歩はした。これ以上語ることは何もないと言わんばかりに、エルキュールは静かにグレンを見つめる。
 グレンの方は、エルキュールの事情を理解はした素振りは見せるものの、未だ考えが纏まらないのか、無造作な髪を勢いよく掻き毟った。

「だぁーー!! ……よし、お前の事情はよーーく分かった!」

「そうか、それはよかった。じゃあ、俺はこれで――」

「だが、それでもお前のしていることは正しいとは思えねえがな」

 納得を引き出せたようだし、これで会話を打ち切ろうとしたエルキュールだったが、まさかのグレンの言葉に目を丸くする。

「……どういうつもりだ? 言ったはずだ、俺を説得することを諦めてもらうと」

「まあ、落ち着いて最後まで聞け」

 抗議の声を上げるエルキュールを片手で制し、グレンは続ける。

「確かに正しくないとは言った。もっと他にやりようがあるかもしれねえ。でもな、間違っていると否定することもオレにはできねえ。なんて言うか、こうでもしなきゃお前は苦しくてこれ以上生きていけねえ、って思っちまったんだろ」

 エルキュールの心理を的確についたような言葉に、思わず自身の口から声が漏れるのを彼は自覚した。

「お前は薄々勘付いていると思うが、オレにも思わず目を背けたり、逃げ出してしまいたいことがある。犯した過ちによって罪悪感に押し潰されそうになる。……まあ、お前は曲がりなりにも向き合おうとしているから、逃げているだけのオレとは違うが」

 何かを隠しているとは確信していたが、そこまで切迫したものを抱えているとは思いもしなかった。快活なグレンには似つかない消極的な言葉が、エルキュールを少し驚かせた。

「それと、お前と話して同時にこんな風にも思った。人間一人では、いつか愚に陥って進むべき道を間違えちまう。重圧に挫けて為すべきことから逃げ出しちまう。どんなに強い覚悟を持っていてもだ。いつか自身の判断に迷いを覚える、楽な方に流れる、言い訳を取り繕って自分を守ることに固執するもんだ。孤独だと、それが全て許される」

 いつしかグレンの言葉を真に受けていた。それくらい彼の言葉には重みがあった。まるで自身がそれを経験してきたかのような、その言葉の圧力にエルキュールは暫し呆然とする。
 このままアマルティアと戦った先に待ち受ける未来を、エルキュールは想像しないでもなかった。だがこうして人から指摘されると、その深刻さに改めて気づかされる。

「――結局、君は何が言いたい? 俺に戦うことをやめてほしいのか?」

「違えよ、お前みてえな馬鹿にそんなこと言っても聞きゃしないだろ。……オレにもお前の行く道に同行させてほしい、そういうことだ」

 まさかの申し出にエルキュールは頭を抱えた。どうしてついてくるのかも不明であるし、そもそもエルキュールは出来ればもう誰とも関わりたくなどなかった。そのことに理解を示してくれたはずのグレンのはずだが、当の本人は忘れてしまったのだろうか。

「馬鹿は君の方だろう。ここまで来てそんな真似、できるわけがない。どうしてそこまで俺に関わるんだ」

「さあな、自分でもよく分からねえ。ただお前の中にオレと近いものを感じたのは確かだ。それに、お前は少し勘違いしているぜ」

「勘違い……?」

「ああ。お前は誰にも迷惑をかけたくねえみてえだが、恐らくアマルティアの連中はお前を追うのと同時に、今回みたいに街を襲い、人を汚染する。だったら、奴らを確実に倒すためには相応の戦力が必要だ、違うか?」

 それに関してはグレンの言う通りかもしれない。今回はザラームらだけがヌールに来たようだが、他にもアマルティアの幹部がいるのはほぼほぼ間違いない。そうなるとどう足掻いてもエルキュールだけでは手が足りないだろう。

「だから、オレに頼れ。それで足りなきゃ、そうだな……王都の騎士団本部の奴らとか。お前が周りを不幸にしたくないのは分かる。だがそれとは関係なしに、この世界の危機に立ち向かうだけの力を持った奴らには頼るべきだ」

 グレンの深紅の瞳が、かつてないほどの熱を帯びているように見える。正直、そううまく切り替えることはできそうもない。ここまで勝手に一人で来ておいて、いざとなった時には都合よく人に頼ることは矛盾しているように思える。

 それでも――。

「――分かったよ、グレン。協力してくれないか、アマルティアを止めるために」

 襲撃後初めて見せたエルキュールの微笑に、グレンも白い歯を見せて笑う。

「……! ああ、こっちこそ頼むぜ、エルキュール」

 この判断が正しいか、はたまた間違いか、エルキュールには判断は付かない。中途半端な自分に対する嫌悪感もなお健在だ。何一つ状況は改善されているようには思えないはずだが、何故だかエルキュールを蝕んでいたはずの絶望は幾らか和らいでいた。

 来るべき世界の危機に結束した青年二人は、道の続きを歩み始める。夜明け前が一番暗い、彼らの旅路もそうであることを祈ろう。

 リーベという生物が生まれる遥か前の古の時代のこと。

 高濃度の魔素で満たされたヴェルトモンドの大地は、精霊と呼ばれる生命が住まう園であった。

 火の精霊、水の精霊、風の精霊――。

 世界の理たる六属性の魔素と対応する六属性の精霊たちは、思い思いのままにヴェルトモンドを放浪し、互いが干渉することを嫌っていた。

 内に秘める魔素が原因なのか、異なる属性を持つ精霊たちが遭遇すると常に争いが起こる。

 争いが起これば、常に力の強いものが勝ち、弱いものが淘汰されるのは、群れることを厭う精霊の間では避けられないものだった。

 勝った側は負けた側の魔素を取り込み、各精霊の力の均衡というのは次第に崩れていった。

 力を持つ者にとって、自らの害となるものを力で排除することは非常に単純かつ効果的であり、闘争に慣れた精霊たちの力はやがて、ヴェルトモンド全土の魔素を喰らい尽くさんとしていた。

 だが、類まれなる力を有した精霊であっても、未曽有の危機に瀕したヴェルトモンドを、苦難に喘ぐ弱き精霊たちを救おうとするものたちがいた。

 後の時代に多大なる影響を及ぼした六体の精霊――ゼルカン、トゥルリム、セレ、ガレウス、ルシエル、そしてベルムント。

 属性が異なるにも関わらず、六体の精霊は互いに協力することを惜しまず、そんな彼らの姿を目の当たりにした他の精霊たちの間にも、ある共通の意志が芽生えようとしていた。

 それは抗争の意志であった。強大な敵を打破するために力を結集しようという意志であった。

「――そして力を合わせた精霊たちはどうにか悪い精霊を倒し、平和になったヴェルトモンドでは、六体の大精霊の加護の下今度は仲良く暮らしましたとさ。めでたし、めでたし~」

「あ、最後の方なんかテキトーにしめただろー!」

 それまで部屋を満たしていた少女の朗読の声が止むや否や、向かいのベッドに腰かけていた少年の鋭い指摘が飛ぶ。

 不満の表情を浮かべる少年に思わず少女は苦笑する。確かに最後の部分は意図的に省略して読んだが、何も朗読に飽きたとか、いいかげんにあしらったとか、決してそういった理由ではなかった。

「そうだよジェナおねえちゃん、だいせいれいたちはこの後どうなるのー? あたし、気になるよぉ……」

 少女――ジェナの視線の先では、少年の傍らに座る幼女が彼の言葉に同意して物語の続きをねだるが、その半開きの口からは涎が垂れ、少女が朗読していた最中にも頻りに目をこすったり舟を漕いでたりしていた。

 明らかに眠そうな、かつ愛らしいその様子に、ジェナは自ずと頬が緩んでしまうのを自覚した。

「ほら、見てカイル君。サラちゃん、と~っても眠そうだよ? 君たち、明日は早いんでしょ? もう部屋に戻って休んだほうがいいって」

「えぇー……ったく、おまえはホントに手のかかる妹だなー」

 ジェナの説得に余計に不満の表情を浮かべるカイルだったが、今にも夢の世界に旅立ってしまいそうな妹を放っておくことはできなかったようで、呆れながらもサラの手を引いて部屋の出入口へと歩き出す。
 寝ぼけて足元が覚束ないサラと、彼女を気遣いながらゆっくりと歩くカイル。
 そんな二人を何気なく目で追っていたジェナに気づいたということはないだろうが、扉を前にしたカイルがふと振り返った。

「そういえばさあ」

「ん、どうかしたの?」

「明日さ、おれたちについてきてくれるって言ってたけど、それってどこまでなんだ?」

「あー、そのことかぁ」

 無意識になのか目線を外して尋ねるカイルにジェナは顔を綻ばせる。
「ヌールまでは私も一緒に行くことになってるよ。……ふふ、心配しなくても、さっきの話の続きもその時に聞かせてあげるから、ね?」

「……! あ、ああ! やくそくだからな、へへっ……」

 余程あの物語が気に入ったらしく、ジェナの言葉に対しカイルは喜色満面に念を押す。それから勢いよく手を振って別れを告げると、妹ともども部屋を後にした。

「――最近の子は勉強熱心なんだなあ」

 ジェナがあれくらいの年齢の時は、今とは異なり精霊や歴史の話にそこまで興味を惹かれることもなかった。取っつきにくい物事に対して臆することもなく、なんだかんだ妹の世話をしていることからも、相当に出来た少年だと思わざるを得ない。

 カイルたちを最後まで見送ったジェナは、傍らに置いていた本の表紙を片手で撫でながらしみじみと呟いた。
 しばらくそうして本を眺めていたジェナだったが、やがてそれを手に取ると、何の気なしにパラパラと頁を捲り始めた。

 表題は『ヴェルトモンド創世記』、古代のヴェルトモンドと精霊について記された変哲もない歴史書である。

 しかし同時に、ジェナにとっては己の原点ともいえる思い出深い一冊でもある。

 これをきっかけに精霊や、魔素、魔法などに興味を持つようになったし、今の道に進むことを決意した動機でもある。とにかく、あらゆる意味でジェナにとっては特別なものだ。

 だからこそ、今日初めて出会った見ず知らずの子供たちが、この本に興味を示してくれたというのは非常に喜ばしいことだった。
 少なくとも、わざわざ難解な歴史書を分かりやすい表現に噛み砕いて説明するくらいには、ジェナを浮つかせたのは間違いない。

「来てよかったなぁ……うん、本当に」

 静まり返った室内でぽつりと零し、いたずらに動かしていた手の動きを止めたジェナは徐に椅子から立ち上がった。
 長時間座っていてすっかり凝ってしまった身体を大きく伸ばし、室内に設えられたベッドへ勢いよく倒れ込む。
 先ほどまで二人が座っていたからか、ほのかに温かさが残っているシーツを背に感じながら、天井に吊らされ煌々と部屋を照らす照明を見つめる。

 見慣れない天井だ。

 だが、『慣れない』という感覚自体、オルレーヌ各地を旅しているジェナにとってはもはや慣れたものだった。違いなどあってないようなものである。

 この宿にしてもそうだ。アルトニーにある変哲もない宿屋の一つであり、旅の中で泊まった他のものと同じく、特段ジェナの感情に何かをもたらすことなどないはずだ。

 しかし、今ジェナの目に映る光は、その光だけは、何故だかとても優しく、懐かしさすら感じられた。

 ――お母さん、お父さん……続きは……? わたし、魔法のこともっと知りたいよ……――

「あ……」

 長らく忘れていた安らぎの感覚に浸っていたジェナだったが、不意に想起された記憶に思わず声を漏らした。
 仰向けに寝転がっていた身体を無意識に起こすと、ジェナは胸の前に両手を握った。

 先ほどとは打って変わった張り詰めた表情は、何かを堪えているようにも見える。

「……いけない、もっと気を引き締めなくっちゃ……!」

 だがそれも束の間ことだった。

 景気づけに両の頬を叩き、今一度思い出す。ここまで来た意味を。何を為すべきかを。

 今日の邂逅はあくまでも仮初に過ぎない。彼らとの約束を果たせば、またあの修行の日々が始まるのだから。

 ぐっと拳を握り、少女は改めて決意を固める。

「私はジェナ・パレット。六霊守護を任せられた身として、今よりもずっと強くならないといけないんだから……!」

「すみません! 特盛パフェ一つ!」

 アルトニーにある宿の一角、宿泊客が食事に舌鼓を打ちながら談笑している食堂にて、カウンターに控えていた男の一人に向かって威勢よく注文を伝えるジェナの声が響いた。

 快活な笑みを浮かべるジェナとは対照的に、カウンターの男はそんな彼女の不釣り合いともいえるほどの元気の良さに辟易したのか、苦笑しながらそれに応じる。

「嬢ちゃん、確かさっきもここに来て注文してなかったか? 特盛パフェもそうだが、カヴォード産牛肉のステーキ定食やガレア風サラダ、他にも――」

「あーあー! それ以上はもういいですから! きょ、今日は特別なんです! たくさん食べて気合いを入れようかなと……ほら、腹が減ってはなんとやらとも言いますし!」

 男の口から発せられる料理名に顔を青くしたジェナは大声でそれを遮ると、言い訳がましく早口でまくし立てた。

 確かに男の言う通り食事は既にとっている。十分に――否、一般女性の平均と比べると些か多いといえる量をとっている。

 しかし、先ほど宿の一室での一件で改めて覚悟を決めたジェナとはいえ、厳しい修行の前に当分の間食べられなくなるであろう好物を食しておきたい欲求には勝てなかったのだ。

「糖分だけに――ね」

「……何を言ってるかさっぱりだが、承ったぜ。すぐ用意すっからそこで待っててくれ」

「……はい」

 パフェを目の前にして舞い上がってしまった自分を省みながら、男のそっけない対応にジェナは弱々しく返した。

 だが、今だけはこうして気分を高揚させておく必要があるのも事実だった。

 ジェナが担う六霊守護の任務、精霊の聖域を守るという使命を全うするには、体力も魔力もさらに強くなる必要がある。
 魔法士試験を経て、上位職である魔術師の称号を賜ったジェナであっても、現状のままでは未だ力不足であるのは否めなかった。
 だからこそ、こうして修行の旅をするよう命じられたのだ。

「そう、明日のクラークさん達からの依頼が終わったら、すぐにでも――」

「おや、僕たちがどうかしましたか?」

「え……? って、うわぁ!?」

 心の声がいつの間にか漏れていたことと、急に声をかけられたことの二重の驚きによって、ジェナは情けない叫びをあげる。

 気が動転しながらも声がした方へジェナが視線を向けると、随分と物腰の柔らかそうな出で立ちの男女が、珍妙な姿勢で固まった彼女に微笑んでいた。

「えっと……流石に奢ってもらうのは気が引けるというか……さっきもご馳走になったから申し訳ないといいますか……」

 注文した品を受け取り席に着いたジェナだったが、その顔は喜色というより戸惑いに満ちたものだった。

 別に品に問題があるわけではない。目の前には待望のパフェが鎮座している。背の高い透明の容器に、色とりどりの果物とクリームが織りなす美しい縞模様は、それはそれは素晴らしく綺麗に映えていた。
 これこそがリーベが生み出した最高の芸術だと、ジェナはこれを食すたびに感動を覚えるのだが、今回に限ってはそうではないようだった。

 その丸っこい瞳は煌びやかな料理を映しておらず、向かい側に座る一組の男女を凝視していた。

「はは、その節はこちらの方が助かりましたよ。元気が有り余って仕方ないあの子たちとも懇意にして頂いて……今はすっかり眠ってしまいましたが」

「ええ、主人の言う通りですわ。それに、魔獣の心配をせずにニースへ向かえるのもジェナさんのお陰ですもの」

 夫婦そろっての感謝に頬に血が上っていくのを感じながら、その人好きする笑顔を前にジェナは彼らと出会った時のことを思い出さざるを得なかった。

◇◆◇

 夫婦――もといその子供を含めたクラーク一家との出会いは今朝にまで遡る。

 昨晩ここで宿泊したジェナは食堂で朝食を済ませ、受付で手続きをしたのち宿を後にすると、兼ねてから訪れようと決めていたヌールへ向かおうとしていた。
 
 別にヌールの街自体に何かあるわけでも、この旅に具体的な目的地があるわけでもない。
 ただ、各地を流離う中で魔獣を狩ったり、時には寂れた雑貨屋などを巡って古い魔法書を漁ったりと、とにかく己を鍛えることばかりしてきたが、それだけでよいものかという焦燥がジェナの中には渦巻いていた。

 そんな折に、訪れた雑貨屋の店主からヌールにまつわるある噂話を聞いたのだ。
 彼は情報屋としての顔も持ち合わせており、曰く――

『ヌールでは騎士ではない何者かが魔獣を討伐しているらしいな。というのも、あちらの鑑定屋から最近よく魔獣の素材が流れてくるんだ。魔獣の素材なんてそんな簡単に手に入る代物でもねえから、それとなく聞いてみたんだが……すこぶる有能な協力者がいるんだとさ』

 とのことだった。その奇特さに興味を惹かれたジェナはさらに情報を要求したが、結局のところ「仏頂面な黒づくめな男」という情報しか聞き出せなかった。

 であるならば直接会いに行けばいいと、よく言えば単純明快な、悪く言えば短絡的な考えの下、ヌールへ出発したのだが。

「六霊暦一七〇八年、セレの月、三日。オルレーヌ放送が最新の魔獣情報を――」

 不意に耳をついた機械的な音声に、思案を巡らせながら歩いていたジェナは足を止めた。
 周りを見渡せばいつの間にか広場に出ており、先ほどの音声はそこに設置された魔動鏡によるものだと気づく。

 この朝の時間帯に放送があるのはいつものことであるので、特に気にも留めずに再び歩き出そうとしたジェナだったが、ふと魔動鏡に群がる人々の声にどよめきが混じっているのを聞いて不安に駆られた。

「あの、すみませーん、何か良くないことでも……?」

 堪らず近くにいた家族連れの壮齢の男に声をかける。長身の背丈に良く映える礼服を着こんだその男は青ざめた顔をしており、見ているだけで心が痛んだ。

「ああ、それが……ガレアからヌールにかけて魔獣が大量発生しているという情報が入りまして……参ったな、これではニースへの道も恐らく……」

 ジェナの呼びかけに反応するも、男はどこか心あらずな様子で、ぶつぶつと独り言を繰り返していた。
 近くでは男の連れと思しき妻が、周囲の不穏な様子に怯える子供を慰めていた。
 その様子に、流石に黙って見過ごすのも気が引けると思い、ジェナは身につけていた鞄からあるものを取り出し、男に見えるように掲げるとこう告げた。

「えっと、何か困っているんですよね? 私、実はこういう者で……相談に乗れると思うんですけど……」

「そ、それは……!? まさか魔術師の記章!? まさか、貴女のような若い方が――って、いえ! そのようなことはさておき、先ほどの言葉、本当ですか!?」

 黄金色の意匠があしらわれた記章、それを所持している目の前の少女が魔術師であると認めると、それまでの憂鬱とした表情が嘘のような興奮した態度でジェナに詰め寄った。そんな男の変貌ぶりに妻と子供も気づいたのかこちらに寄ってくる。

「は、はい! だから落ち着いて、事情を話してみてくれませんか?」

 たじろぎつつジェナがそう答えると、ようやく男は平静を取り戻したようで、呼吸を整えてから話し始めたのだった。

◇◆◇

「――あら、ジェナさん? 召し上がられないのですか?」

「あはは、すみません。改めて力になれて嬉しいなと思って……一日無駄になっちゃいましたけど、ニースでの大市に間に合いそうでよかったです!」

 クラーク夫人の指摘に、黙りこくって見つめてしまったことに気恥ずかしさを覚え、ジェナは早口に捲し立てるように答えた。
 それからパフェを一匙掬うと、見せつけるように頬張った。

 ――相変わらず素晴らしいの一言に尽きる味であった。昨日も食べたけれども。今日の朝と昼にも食べたけれども。

「本当にその通りです。ジェナさんが同行を申し出てくれなかったら、明日の商談には間に合うことは叶わなかったでしょう」

 その食べっぷりにさらに気をよくしたのか、クラークは笑みを濃くして語る。

 クラーク一家はアルトニーから西に向かった先にあるガレアで農業を営んでいるらしく、ニースで大市が開催されるついでに向こうの商人と取引する予定があるのだと聞いた。
 そんな時に不運にも魔獣の騒ぎが重なり、一般人の街道の通行が制限されニースへ向かうことが難しい状況になってしまったとか。
 幸いにして途中のヌールまで行きさえすれば制限も受けないので、途中まで同道するとジェナが申し出た結果、ここまでよくしてもらうことになったのだ。
 予定していたヌール行きが一日ずれることになったが、カイルやサラとの交流はジェナにとっても嬉しい経験だった。
 だからこそ、ここまで世話してもらうことに抵抗を感じてしまうのだが――

「ふふ、こうしているとカイルやサラにお姉さんが出来たみたいで何だか微笑ましいわ~」

 この夫婦はずっとこの調子を崩さないものだから、ジェナも変に指摘するのもよくないと感じていた。

 それからパフェを食べ終えるまでの間、ジェナとクラーク夫妻は世間話に花を咲かせた。ジェナの旅のこと、カイルたちが『ヴェルトモンド創世記』に興味を持ってくれたこと、ニースの大市についてのことなど。

 そして、宿の窓から見える外の景色に夜の帳が降りた頃。

「宿泊客の皆さん! 御寛ぎのところ申し訳ありません、アルトニー騎士隊の者です!」

 既に自室に休みにいった客が大半で閑散とした食堂にて、突如として入口の扉が大きな音を立てて開いたと思いきや、数人の騎士たちが必死の形相で転がり込んできた。

 その様子があまりに迫真なものであったので、周りの客たちはどうしたのかとそちらを凝視し、奥の方に控えていた支配人も姿を見せる。
「そんなに慌てた様子で……一体何の騒ぎです?」

「ああ、この宿の支配人ですね! いいですか、心して聞いてください。ほんの少し前の事です、広場の魔動鏡に異変があり……ヌールが、魔獣の襲撃に遭ったと」

 息を整えながらもたどたどしく発せられたその情報に、支配人はもちろん、ジェナやクラーク夫妻、他の客にとっても俄かに信じ難いものであり、瞬く間に動揺が伝染する。

「ヌールの詳しい様子は未だ不明ですが、応援要請用の信号弾がヌール上空に確認できました。我々はすぐに規則に則り応援に駆けつける所存です。念のため、こちらでも支援物資の提供と難民受け入れの準備をお願いしたく……!」

「…………」

 騎士の連絡の声が響く中、朧気ながらようやく事態を理解したジェナだったが、その他の客の慌てふためく様は尋常ではなかった。中にはパニックに陥る者もおり、騎士や宿の従業員が懸命に宥めていた。

「あの、これは夢ですよね……? つい隣の町で魔獣なんて……」

 かつてアルトニーで立ち往生していたときよりも遥かに血色の悪い顔でクラークがぽつりと零す。
 その言葉には激しく共感したかったが、そこまで楽観的になれるほど状況は甘くなかった。

 先ほどから光魔法・ビジョンでヌールの街の様子を探ろうと試みているが、魔素が混沌としているのかうまくいかないのだ。
 誰かの魔法によるものか、魔獣が持つ魔素質によるものなのか、どちらにしろヌールが危険な状況にあるのは容易く想像できた。

 十五年前に端を発する魔獣の活性化、ここ数年の間は騎士団等の組織の活躍もあり、直接被害を被ることは避けられていた印象だったのだが。

 今、この瞬間を皮切りに、得体の知れない何かが動き始めてしまったと、この不吉な知らせにジェナは半ば確信していた。

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