「黒き魔人のサルバシオン」6

 ローブに身を包んだ男を逃してしまった苛立ちをぶつけるように、エルキュールは正面に構える大蛇魔獣――シュガールを睨みつける。

 その鋭い視線に触発されたのか、緋色と黒色の鱗と紫の魔素質に彩られた体を大きく伸ばし、シュガールは大きく口を開けて威嚇した。

 伸びた体はこの広い部屋の半分を占領し、開かれた口腔は人間を容易く丸呑みできるくらいに大きく見える。

 正直言って、今まで戦ってきた魔獣が赤子に見えるほどの威圧感だった。

 男の扱いからしても、そこらの魔獣と比べてもかなりの力を持っているのは明白である。

 しかし、数の不利からかシュガールは慎重に二人の出方を窺い、攻めてくる様子は見られない。

「へっ、魔獣にしちゃあ知恵が回るみてえだが……無駄だぜ!」

 対して二人には悠長にしている暇などなかった。決着を早めるために積極的に攻める必要がある。
 もちろんグレンもそのことを理解しており、銃大剣を振りかぶり果敢にシュガールに飛び込んだ。

「ガアッ!」

 脳天を砕く勢いで振るわれた炎の剣に、シュガールはあろうことかそのまま頭突きで抵抗した。
 その頭部は相当な強度を持っているようで、振るわれた剣とぶつかり合って膠着し火花を散らした。

 グレンの一撃は相手に効果的なダメージは与えられなかったが、全く問題はなかった。

 ――その両者の横を抜け、大蛇の後ろに回り込む黒い影があったから。

「――エンハンス」

 シュガールの体の強度では普通に攻撃しても意味はないだろう、エルキュールは火属性魔法を武器に付与してその巨大な尾を切り落とそうと、ハルバードを薙いだ。

 その斬撃は狙い通りにシュガールの尾に命中したが、傷は浅くたちまち回復されてしまう。やはり、魔獣に致命傷を与えるにはコアを狙うほかないないようだ。

 エルキュールは急いでコアの位置を探そうとするが、大蛇の外面にはそれらしきものは確認できない。

「シャアァァ!」

「――っ」

 傷をつけられたシュガールは怒り狂い、まるで地団駄を踏む子供のように暴れて尻尾でエルキュールに攻撃を繰り出した。地面を這うような急襲を空中に跳んで回避する。

 そうして後ろの敵を振り払った大蛇は、立て続けに膠着状態にあった正面の相手を頭で押しやった。

「ちっ、イカれたパワーだな……」

 シュガールの急な反撃をなんとか受け流したグレンだったが、その姿勢は崩れてしまっており、大きな隙を曝している。

 その決定的な隙をみすみす逃すシュガールではなかった。

 グレンを睨みつけるシュガールの体表面にある魔素質が、その紫の光をよりまぶしいものに変えた。

 ――魔素が力を増し光り輝くことで起こるその現象は、魔法の放出の前兆に酷似していた。

「はっ!? グレン――」

 シュガールが魔法的な攻撃を繰り出そうとしていることに勘づいたエルキュールは、グレンに警告しようとした。

 しかしそれよりも早く、シュガールの魔素質が湛えていた光を放出した。

 次の瞬間、空中に投げ出されていたグレンの頭上に紫電の雷光が一閃し、落雷の如く降り注いだ。

「ぐああぁぁっ!」

 雷撃はグレンに命中し爆発を引き起こした。煙に塗れて確認できないが相当なダメージを負ったように思えた。エルキュールは急いで彼の下に駆ける。

「シシャアッ!」

 ところがグレンの下に着く直前、エルキュールの動きを阻止しようと大蛇は短く鳴き声を上げ、電気を帯びた魔素質の球体を二人の方へ目がけて幾つも放ってきた。

「邪魔をするな、――エスクード!」

 シュガールの追い打ちを防ぐべく、エルキュールは土の初級魔法を放った。二人の目の前に、ほのかに黄色に光る半透明の障壁が展開される。

 黄の障壁は大蛇の攻撃を全て防いだが、そのことが大蛇の気を害したのか、その攻撃は激化した。
 シュガールの怒涛の攻撃はなんとか防ぎ続けているものの、攻撃の機会を失することになってしまった。

「グレン、大丈夫か?」

 攻撃を防ぐことに集中しているため振り返ることはできないので、エルキュールは声だけでグレンの安否を確認する。

「……ああ、かなり痛えがな。何とか防御が間に合ったぜ」

 隣に並び立ったグレンを横目で見ると、赤く輝く光の粒子が彼の周辺に漂っていた。

 ――魔法を放出する時間はなかったはずだ。恐らく、オーラによる防御を行ったのだろう。

 大気中に含まれる魔素を魔法として放つのではなく、身に纏わせる。オーラという技術は、本来は魔法の効率を高める目的として使用される。
 外界に遍在する魔素を使役するよりも、自身の周辺に集めた魔素のほうが術者との親和性が高いからだ。

 その際に身に纏わせた魔素は、身に受ける攻撃をある程度緩和する働きもある。
 基本的な技術ではあるが、咄嗟に行ったのは流石魔法士というべきだろう。

「シャアァ! シシャアァ!」

 攻撃が効かないことに痺れを切らしたのか、シュガールは雷撃による攻撃を中断し、こちらに突進する構えをとった。

 流石にあの巨体で向かって来られたら、ここまで攻撃を防いできた障壁も破られてしまうだろう。

「――させるかよ!」

 大蛇が突進する直前、グレンは銃大剣を前に突き出した。

 すると剣身の術式が一瞬煌めき、備え付けられた銃砲から火球が放出され相手を怯ませた。

 相手が怯んだ隙にエルキュールは障壁を解除し、グレンと共に後方に飛んで距離を離す。この位置ならば、尾を使った攻撃や突進は見切れるだろう。

 しかし、その考えを嘲笑うかのように大蛇は魔素質を光らせ、雷撃による攻撃を二人に放つ。

 天から降り注いだ紫電をすんでのところで回避した二人だが、その顔つきは苦しいものである。

「ちっ……魔獣のくせに一丁前に魔法使ってんじゃねえ!」

「魔法のように洗練されたものではないと思うが……確かに厄介だな」

 人間でいうところの雷属性の魔法は、火と光の魔素を合わせることで初めて成立する複合属性の魔法である。
 魔獣風情にそんな高等な技術があるとは信じられないが、その力は本物の魔法に迫るものだ。

 幸い、躱すことに注力すれば被弾することはないが、その猛攻を前に攻撃に転じることができないでいた。グレンが負ったダメージも決して小さくなく、あまり無理ができる状態ではない。

 だが、泣き言を言っても時間は刻一刻と過ぎるもの。そろそろ決着に向けて動く必要がある。

 エルキュールは腹を括り、グレンにある提案を持ちかける。

「グレン、しばらく君一人に奴の相手をしてもらってもいいか?」

「はあ!? お前、一体何をする気だ?」

 エルキュールの無茶な要求に、迫ってきた雷の球体を切り裂きながらグレンは叫ぶ。
 それも無理もないことだろう。この状況でも厳しいというのに、さらに重荷を背負うことになるのだから。

 そのことを申し訳なく思いながら、エルキュールは自身の考えを話す。

「今から奴を倒すための魔法を詠唱する。その間、無防備になる俺を守ってほしい」

 このままシュガールの猛攻を掻い潜りながら、弱点であるコアを狙うのは時間がかかりすぎる。
 それならいっそ、高火力の魔法でシュガールの肉体全てを滅ぼしてしまう方が早い。
 危険はもちろんあるが、それよりも二人して攻撃の機会を失っているだけなのはいただけない。それなら一人が注意を引くことに専念し、もう一人が攻撃を行うというのが効果的だと思われる。

 幸いこのシュガールは気性が荒く、自身が傷つけられたりこちらが攻撃を防いだりしたときには、その体を波のように揺らし怒り狂っていた。行動を制御するのは案外容易いだろう。

 一応の論理は備えているものの、冷静なエルキュールにしては珍しい性急な選択だった。

「……それで倒せる自信があるんだな? なら、答えは一つしかねえぜ!」

 しかし、具体的な方法を話している暇などない。グレンはエルキュールの真剣な目を信じ、深くは聞かずにシュガールとの間合いを一気に詰めた。

「おら、遊びは終わりだぜ、蛇野郎! てめえの気持ちわりい体、オレが切り裂いてやる」

 威勢のいい啖呵と共に銃大剣で切りかかるグレン。

 正面からの攻撃はもちろんシュガールに致命傷を与えることもなく、またもやその頭によって防がれてしまう。

 エルキュールはグレンが大蛇の注意を引いていることを確認し、ゆっくりと頭上を見上げた。

 そこには、シュガールが降ってきた際に開けられた大穴がある。かなりの高度があるため、上階の様子は暗闇に閉ざされている。

 こんな時に何をしているのだろうと、事情を深く知らぬものが見ればそんな感想を抱くだろう。

 しかし、グレンが必死に大蛇と格闘している間も、エルキュールの目線は上階の方へ固定され動かない。
 かといって、その目の動きは上階の様子を探るわけでもなかった。

 エルキュールの琥珀色の瞳は、ただそこにある闇を映していた。

 そして徐々に、その闇に吸い込まれてゆく。

 グレンが剣を振るい、火球を放出する音も、シュガールが雷を操るときの魔素質の光も、全ての刺激が暗黒の闇に弾かれてゆき、エルキュールに残ったのは闇の魔素の感覚のみだった。

「――――」

 己の魔素感覚が完全に研ぎ澄まされたのを確認し、エルキュールは一つ息を吐く。それから周囲の魔素を我が物とするように、身辺に集めていく。

 全ての工程を慎重に、丁寧に行う。自身の魔素質の痣とコアを反応させないように、魔人としての力を外に漏らさないように。

 この状態で特級魔法を放つのは相当に無理があるが、日が暮れ始めているこの時間は闇の魔素が活性化する時間帯であるため、なんとか放出までいけるだろう。

 完全に魔素を掌握したエルキュールは、詠唱する魔法文を念じる。エルキュールは普段詠唱を行わないが、今回ばかりはそうもいかない。

 慣れれば詠唱を省略しても問題なく魔法を放てるが、放出の早さと引き換えにその分威力は低下するのは避けられない。
 今回は詠唱しなければシュガールを倒しきれないし、何より特級魔法を無詠唱で放つほどの技術をエルキュールは持ち合わせていなかった。

 全ての準備が整った今、エルキュールは対象をしっかりと視界にとらえ詠唱を開始した。

「――其は闇の牢獄、有と無の狭間の混沌……」

 手を前方に翳し、言葉を紡ぐ。
 闇の魔素がエルキュールの手元に、渦巻くように集約し魔素質を形づくる。黒く輝く魔素の流れが軌跡を生み出し、次第に魔力が高まってゆく。

「開闢と終焉の理は、万物に定められし天意なり……」

 ここに至って、ようやく自身が危険な状況にあることに気づいたシュガールは、グレンへの攻撃を中断し、己が脅威を取り払うべくエルキュールの方へと突進した。

「ハッ! 背中ががら空きだぜ! ――ファイアボール!」

 目の前の勝負から逃げ出した臆病者の大蛇に、グレンは火球による追い打ちをかけた。
 後方からの不意打ちに、シュガールの巨大な体もよろめく。

「今だ、決めちまえ!」

 エルキュールの魔法に飲み込まれないよう、彼の後ろに下がったグレンが白い歯を見せて笑う。

 その期待に応えるよう、エルキュールは翳していた手を下ろす。

「魍魎よ、魔の輪廻へと還れ――グラヴィタス・プレッシオ!!」

 エルキュールの動きを皮切りに、それまでに構築されていた巨大な魔素質が弾け、欠片となってシュガールの方へ飛んでいった。

 それは敵に命中するでもなく、高速でシュガールの周囲を軌跡を帯びて飛び回り、やがて半透明の黒き結界を形成した。

「シシャ? シシャァ!!」

 魔法の威力に身構えていたシュガールは拍子抜けしたように鳴き声を上げ、二人の方へ攻撃を繰り出そうとする。

「シャ……!?」

 しかし、大蛇の巨体は結界の外へ突き抜けることなく弾かれてしまった。まるでその先に進むのを世界に拒まれているかのように。

 ――強大な力を持つ闇魔法は、時として空間を歪めてしまうほどの威力を発揮する。

 本来、闇というのは世界の裏側に存在するもの。

 光に照らされる物体の背後に。人々が眠りにつく夜更けに。

 その闇が、魔法として強い魔力を伴って世界の表側に顕現する。それこそが歪みを生み出す原因だと、古代の偉い学者たちは論じたらしい。

 ともかく、空間を歪めることで生じた結界は、シュガールを完全に無力化した。

 結界が作動したことを見届けたエルキュールは、小気味よく指を鳴らした。

 それに呼応して、結界内で無数の黒球が忽然と現れる。闇の魔素質で形成されたその黒球は、次第に肥大化してゆく。

「シ……シシャ、シシャアアアァァァ――!!!」

 黒球が結界内に生じた途端、シュガールが一際大きい悲鳴を上げた。

 その黒球は法外な質量を備えているのが特徴で、それぞれが極めて強い引力と斥力を持つ。
 結界の内にあるものはその混沌の力に曝され、延伸され、圧搾され、切り裂かれ、捻じ曲げられ、やがて全てが魔素に還る。

 それが、この結界に捕らわれたものの末路だ。

 黒球はなおも膨張を続け、結界内の空間の全てを黒く満たす。
 結界の外側からは見えないが、中は凄惨たる状況になっていることだろう。

「うわ……えぐいな、こりゃ……」

 エルキュールの横に並び立つグレンが、塗りつぶされる前の結界の中の大蛇の姿を垣間見たのか、苦い顔をする。

 黒の結界はやがてその役割を終え、解け、跡形もなく消失した。

 その場にはあの魔獣の姿はなく、円形に窪んだ地面が広がるのみである。

「うぐ……」

 不意に、エルキュールが胸元を抑えその場に蹲る。
 ここに至るまでに魔法を使いすぎたのもあるが、それ以上にエルキュールは、もう長らく魔素を身体に取り込んでいなかった。

 街で平穏に生活するため、魔素質の痣もコアも極力隠してきたが、それは人間の概念で言うと息を止めているに等しい。

 それ故の倦怠感と脱力感が、怒涛のように押し寄せてきたのだ。

「おい、大丈夫か?」

 グレンがこちらに肩を貸そうとするのを、エルキュールは手で制止する。

「……問題ない。少し、疲れただけだ」

「ったく、無茶するなお前も……今日出会ったばっかの野郎に命を預けるなんてよ」

「これまで共に戦ってきて、君なら十分にやってくれると思っただけだ」

「そういう訳じゃあねえんだが……」

 一片の曇りもない琥珀の瞳に、グレンは呆れて嘆息する。

「それよりも、さっきの雷撃を喰らった君の方が心配されるべきだろう」

「ん? 別に大した事ねえよ、ほれ、この通り――ぐっ!?」

 自身の無事を示すため腕を回すグレンの表情が、苦々しいものになる。

「はあ、仕方ないな。――クラーレ」

 痛みに悶えるグレンに、水属性の治癒魔法を放つ。簡単な魔法だが、これでも十分に効果はあるだろう。

 その証拠に、グレンの表情は次第に穏やかになっていった。

「ハハ、ありがとさん。……って、あまり長居できる状況じゃあなかったな」

「そうだ、早く奴を追わないと……!」

 熾烈な戦いの中で意識から抜け落ちていたが、あのローブの男をまんまと逃がしてしまったのだ。そこまで時間はかかっていないと思うが、男のあの強さを思うと安心はできない。

 その事実を再認識し、エルキュールは焦燥に駆られた。

「脚を使うより、ゲートで行った方がいいな……今の俺の力だと、北ヌール平原くらいまでしか行けないが……」

「あの野郎も魔法で逃げやがったからな、そうでもしねえと間に合わねえだろ」

 グレンと頷きあったエルキュールは脱出のための魔法を放出する。

「頼む、間に合ってくれ……」

 その祈りの言葉をも掻き消すように、二人は暗黒の穴に吸い込まれ空間を跳躍した。

 ――時は少し遡り、鑑定屋にて。

 ヌールの外れにある鑑定屋では、店主のアランが帳簿に筆を走らせる音が微かに響いていた。

「よぉーし、今日はこんなもんかね」

 事務作業が一段落し、客がいなくなった店内でアランは大きく伸びをした。窓の外を見れば、空が赤く染まっている。もう店じまいの時間であった。

「来週には納品の手続きをしないとな……」

 主として、魔法士などから渡される魔獣の素材を鑑定するのが鑑定屋の仕事だが、それを買い取って別の業者と取引するというのもアランは生業としていた。

 あの迷惑なマクダウェル家の男も欲していたが、魔獣の素材は希少性が高く、貴族たちが如何にも好みそうな調度品や装飾品に加工されることが多い。

 魔獣が強大になった昨今においても、その需要は高まりつつある。

「……ちっ、世界が魔物に怯えているというのに、いい気な奴らだぜ」

 朝にも感じた貴族への不快感を噛み殺し、アランは勢いよく立ち上がる。

 そのまま恒例の店内の点検の作業に入る。カウンター、奥の倉庫と続き、各棚も念入りにチェックする。

 魔獣の素材を少量ながら取り入れたアラン特製の雑貨は、開店前と大差ない数がそのまま棚に鎮座していた。思わずアランの口から溜息が出る。

「こっちは全然売れてねえし……ったく、今日はいい事ねえな」

 髪を乱暴に掻きながら点検を終えたアランは、店内に備えつけられた魔動照明のスイッチを切る。

 今日はセレの月・三日――休日であるにもかかわらず、客の訪れはあまりよくはなかった。鑑定屋という職業がもともと世知辛いものであるのもあるが、明日からニースで行われる大市も関係しているのだろう。

 雑貨自体に問題があるとは考えず、尤もらしい理由を捻出したアランは、帰宅の用意を整え屋外に出る。施錠がしっかりなされたことを確認し、ようやく帰路についた。

「いや、よくよく考えれば悪いことばっかじゃなかったか」

 春の温かな陽気が残る黄昏時のヌールを歩きながら、アランは独りごちる。

 脳裏に浮かぶのは、今朝来店したエルキュールとその家族であるラングレー家の二人のことだ。
 娘であるアヤとは初対面であったが、リゼットはたまに来店してくれるいい客であったし、エルキュールに関しては、定期的に魔獣の素材を持ち寄ってくれるお得意様であった。

 その両者に繋がりがあると分かった時も心底驚いたが、いつも無口だったあの青年も家族に対してはあんな表情ができたのか、と意外に感じたのだ。

 お得意様とはいえ、エルキュールの冷淡な態度は苦手としていたアランだったが、今日に限ってはそんな印象は微塵も感じなかった。

「旦那の働きはウチの店にとっても生命線だからな……大事にしねえとな」

 まだまだアランの鑑定屋は規模が小さく人気もない。今ある優良顧客を大事にしていき、行く行くは莫大な富を得て大物になる。

 今日の出来事は、諦めかけていたその夢に再び情熱の炎を灯してくれたように思えた。

「よし! 明日から気合を入れて――」

 己に喝を入れようとした瞬間、急に世界が明るく照らされたと錯覚するほど眩い光がアランを包み込んだ。いきなりの事で息が止まり、反射的に目を瞑る。

 まるで役割を終えつつあった太陽が、その意思に反して何らかの力で空に引き戻されたかのような突発的な光だ。

 それに続き、信じられない音量の爆音が辺りに響き渡り、アランの気力に満ち溢れていた言葉を、穏やかな春の静けさを、全て掻き消していった。

「は……?」

 その音に弾かれるように前を見ると、遠くの方は煌々と赤く光っており、その上空には黒い煙がいくつも舞い上がっているのが見えた。

 ――爆発、だった。それ以上の感想は浮かんでこない。感覚が麻痺しているのだろうか。

 ともかく、何の脈絡もなく目の前に現れた刺激的な光景は、それまでの呑気なアランの思考を停止させるには十分すぎるものであった。

「あ……ああ……」

 身体に力が入らなくなりその場に膝をつく。脳が目の前の光景を否定しているのだろうか、視界は酷く歪み、心臓はかつてないほど脈を打っている。

「うあああぁぁ!! 魔獣だ、魔獣が攻めてきたぞーー!!」

 地面に情けなくへばりついていたアランの耳に、誰かの怒号が届いた。それから煩わしい量の足音も聞こえる。

「……魔獣、だと……?」

 弱々しく起き上がると、何とか気力を振り絞って今一度状況を確認する。

 先ほど爆発したと思しき方向から、人が雪崩のように押し寄せ幾人かはこちらの道に駆けてきた。
 さらに、その先の視線を向けると四足歩行の黒い影が後を追うように迫ってきていた。

 何の影か。先刻の怒号と照らし合わせるなら、十中八九魔獣だろう。

 それを認識した途端、アランは踵を返して力の限り走り出した。

「はあ……はあ……何なんだよ、これは!!」

 その問いに答えることができる者はいるはずもなく、アランの声は虚しく狂乱の渦にのまれた。

 どこへ行けばいいのか、騎士はこの事態に何をしているのか、疑問を抱かずにはいられないが、懸命に走り続ける。

 気づけば街の外に出るための門が眼前に聳え立っていた。
 ここまで来たら、一か八か隣町に移動するしかない。この先のニースならば大市の関係で警備も盤石だろう。

 足音を聞く限り、アランの後ろに幾人かこちらに向かっている人間がいるようだ。

「よし、このまま行けば――」

「あららー? お兄さんたち、ダメだよー。ここは通行止めなんだからー」

 門から外に出ようとしたアランたちに声がかけられる。それと同時に影が門の上から舞い降りてきた。

「な、なんだ……!? 人……なのか?」

「つ、通行止めって……?」

 突然姿を表した人影に、人々は一様に戸惑う。
 アランも呆気に取られて暫し立ち尽くしていたが、その人物がゆっくりとこちらに向かってくる姿を見てその表情が凍りつく。

 声の質から考えると、その人影は女性だと思われる。断定できなかったのは、その人物の服装が関係していた。

 全身を白いローブに包み込み、素顔を窺い知ることができないのだ。

 ただひとつ確かのは、その出で立ちはどう考えても尋常ではない。先ほど高所から飛び降りた動きを取ってみても、ただ者ではないことが分かる。

「お前は何者だ! そこをどけ!」

「おい――」

 アランの背後にいた一人の男が、女性の言葉を無視してその横を走り抜けようとする。
 今は緊急事態であり、ローブの女性も素性が知れない、彼女の言うことを素直に聞く理由などないが、アランは本能的に嫌な予感に駆られ走り出した男を止めようとしたが――

「ほいっと」

 男がローブの女性の横を通り過ぎる直前、急に重力の方向が捻じれたように、男の身体が横の家屋の壁に勢いよく叩きつけられた。

 気の抜けるような掛け声と、ついさっきまで男の身体が存在していた場所にあった、伸びきったローブの女性の右腕。そこまでして、ようやく男は女性に殴られたのだとアランは理解した。それほどまでに女性の動きは機敏だった。

「ぐ、ぐふっ……」

 殴られた男はめり込んだ壁に磔にされながら、惨めに血を吐いた。

 突然の暴力にどこからか悲鳴が上がる。アランだってそうしたかった。爆発といい、今の状況といい、気が狂いそうだ。

 無闇に声を上げて目をつけられてはいよいよまずい。

 恐ろしさで歯が鳴るのを噛み殺し、奇跡のようなものが起こってこの悪夢から解放させてくれと願うばかりであった。

「あっちゃー……ごめんねえ、痛かったよねー?」

 幸か不幸か恐怖に震える人々には反応せず、女性は自分で殴った男を自分で心配し、そのローブの頭巾を取り払いながら彼に近づいた。

 二つに結われたダークピンクの髪は、さながら気品ある薔薇のように美しく、その横顔にはあどけなさが残り、「女性」というより「女の子」と形容した方が相応しい。

「んふふ、でも大丈夫だよ! フロンはいい子だから、無駄な殺しはしないんだ。すぐに治してあげるからねー?」

 もはや気を失っているその男が殴られた腹部を優しく撫でながら、ローブの女性――フロンは嬉々とした表情で語る。

 その一連の行動は支離滅裂で、言っていることの意味も分からず、アランの理解の範疇を越えていた。先の暴力も相まって、アランたちは恐怖で震えることしかできない。

 それから満足げに頷いたフロンは、こちらをちらりと見て不敵に笑う。

「もちろん、君たちも忘れてないよー? えいっ――」

 この状況では憎らしいほど可愛げのある声で上空に放たれたのは、禍々しい赤い光を帯びた弾丸のようなものだった。

 空高く上る色の線は、まるで騎士の用いる信号弾のようで――

 もはやそれは確信めいた予想だった。視線が勝手に門の方を向く。

 目に入ってきたのは、まるで軍隊のような陣形を組んだ犬型魔獣の集団。魔獣というのはこんなに統率のとれた行動ができたのだろうか、似つかわしくない行儀の良さを発揮してぞろぞろと街に入ってくる。

 恐らくはフロンの放ったあの光線、それが関係しているのだろう。

「あはは、今日も可愛いねえ……よしよし。うん、それじゃあ始めよっか」

 フロンは自身のすぐそばにまで来た魔獣の頭を、ペットを可愛がるかのように撫でる。その間に魔獣どもの行進は終了していたようで、それを確認したフロンは満足そうに頷くのだった。

 こんな状況にもかかわらず、「あれだけの数の魔獣がいればさぞかし儲かるだろうなあ」などと、考えている自分は恐怖で頭がおかしくなってしまったのだろう。

 そんなアランの腐りきった思考とは別に、その身体は目の前の脅威から逃げるため後ろに走り出していた。こちらは存外まともなようだった。

「むぅ……そっちに逃げたって、どうなっても知らないよー?」

 フロンの言葉の意味を解釈する前に、赤い飛沫がアランの目の前で湧き上がった。
「ひぃっ――!!」

 アランが尻もちをついてしまったのも当然だろう。その飛沫はアランの前方にいる人が、後ろから迫っていた魔獣に噛みつかれたことによるものだったから。

 たちまち、アランの股間が湿った感覚に曝された。恐怖のあまり、大の大人が失禁してしまったらしい。

「あれ? あはは、お兄さん大丈夫ー? ふふ、あははは!」

 後ろから迫ってきていたフロンがアランの失態におかしそうに笑う。尻もちをついたまま後退ることしかできないアラン。

「でも心配しなくていいよ。お漏らしなんて、二度としない身体にしてあげるから」

 続けてフロンは、アランの胸元に手を伸ばしてくる。何をするつもりか、などという考えを巡らせる余裕があるはずもなく、アランはとにかく懸命にもがく。

「な、や、やめ……」

 情けなく哀願するアランに、フロンは微笑みを絶やさずに言葉を紡ぐ。

「痛くするわけじゃないよ? ただ、そうだねえ……次に会うときは……フロンたちは同じ目的を持った仲間同士になる、それだけだよ」

 フロンの指先がアランの胸元に触れた瞬間――それきりアランの意識は戻ることはなかった。

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