「黒き魔人のサルバシオン」7

 シュガールに辛くも勝利したエルキュールとグレンは、闇魔法で捻じ曲げられた空間を抜け、遺跡内部から外へと空間移動した。

「うおっとっと……ここは昼間兎魔獣を狩った辺りか?」

 ゲートで空間を跳躍した先は、暫し前に魔獣を探していた平原であった。

 エルキュールにとっては慣れたものだが、魔法での移動に慣れていないグレンはたたらを踏んだ。

「ああ、流石にここまでが限界だが」

 そう返すエルキュールの表情は硬い。それもそのはず、彼とその家族の安寧の地、ヌールの街が危機に瀕しているのだ。

 もう二度と住処を焼かれるなどあってはならないが――

 遠くの方で何かが重く響いた。振動が地面を介して二人の足元に伝わる。

 振動の源を探すために辺りを見回すと、煌々と赤く光っているのが見える。

 ヌールの街の方向である。その事実を認識するや否や、エルキュールは駆けだしていた。

「急がないと……!」

「って、オレを置いてくなっての!」

 かつてないほどの焦燥がエルキュールを支配する。これほど強く自身の感情に敏感になったのは、八年前のあの日以来だろうか。

 奇しくも、その時と状況が酷似しているものだから本当に忌々しい。

「……煙も上っていやがるな。これもアマルティアの連中の仕業か」

「――――」

 エルキュールの隣を走るグレンが眉を歪める。エルキュールの方は持て余す激情を抑えるように息を吐いた。

 走る速度を速め、徐々に視界の中で大きくなりつつある門を目指す。

 門の付近にまで近づくと、街の様子が嫌というほど目に入る。
 立派な石造りの門は表面に亀裂が生じており、部分的に崩壊してしまっている箇所もある。そこから延びている道路には、引っ掻かれた跡と何やら赤黒いものがこびりついていた。
 その痕跡の全てが、ここであった惨状を静かに物語っていた。

「惨いことしやがって……って、あいつはまさか……!?」

 不快感に堪えていたエルキュールの傍で、グレンは何かを発見したのか小走りでその方へ向かった。

 エルキュールもすぐにそのあとを追ってみると、ちょうど街の中と外を繋ぐ門のアーチ部分の真下、内壁にもたれかかる人影がいた。

「……ダメ、みてえだな」

「っ、そうか……」

 その人物は、今朝エルキュールたちが外に出るときに立ち会った駐留騎士であった。
 着用している鎧を貫通し、腹部には魔獣の攻撃によるものだと思われる赤い血だまりが広がっている。
 顔には生気が感じられなく、魂が抜け落ちた虚ろな表情だった。誰が見ようとも、もう帰らぬ人になったのだと分かる。

「ん、こいつは――」

 グレンが怪訝そうに見つめる先には騎士の男の首筋――そこにある禍々しい痣であった。
 鬱蒼とした森のような暗い緑の光を放つ痣は、ちょうどエルキュールの身体に刻まれているモノに酷似している。

「魔物の汚染を喰らってるな……悔しいが、完全にバケモノになる前に人として生を全うできたのが唯一の救いか」

「……そうだな」

 グレンの言葉は正しい。理性ある人間にしてみれば、自身が全く別の存在になってしまうのは死より恐ろしい場合もあるだろう。

 本来なら六霊教の教えに則り、死者の身体を焼き、魔素の循環へと還してやるのがいいのだろうが、生憎とそんな時間はない。

 簡単な祈りを捧げ、二人は街内に入った。

◇◆◇

 数刻前まで平和そのものといってもよかったほどの街は魔物の襲撃を受け、すっかり日常とはかけ離れた様相を呈していた。

 混沌を絵に描いた状況の中、街中を走るエルキュールらの耳に、遠くの方から剣戟の音が刺さる。その音が響く先にはヌール広場があったはずだ。

「誰かが戦ってるみてえだ、行くぞエルキュール!」

「ああ……!」

 ところどころ亀裂が入った道を曲がると、予想通りの光景が広がっていた。

 ヌール広場の魔動鏡周辺、幾人かの市民とそれを庇うように陣形を組んだ騎士、そしてそれと相対する犬型魔獣の集団があった。

「ちっ、消えろ魔獣め!」

「――轟け雷鳴よ、オンウィーア!」

「――荒れ狂う風の暴刃、ヴェント・スカーレ!」

 騎士たちは、ある者は騎士剣術による斬撃を、ある者は複合属性である雷魔法を、またある者は速度に長けた風魔法を以て、魔獣に攻撃を繰り出す。

 しかし、民を守りながらでは思うように戦えないのだろう、次第に騎士たちの勢いがなくなる。

 有利をとった魔獣どもは背中にある禍々しい濃緑のコアを光らせ、騎士に猛攻を仕掛けようとしたが――

「させねえぜ!」

「――ダークレイピア!」

 その牙が届くより早く、エルキュールたちは魔獣のコアを的確に破壊した。弱点であるコアの消失に、魔獣どもは為すすべなく斃れた。

 突然の援軍の登場に、戦っていた騎士も怯えていた市民も一瞬呆然とした表情を浮かべる。
 しかし、それも次第に安堵に変わり、市民たちが帯びていた緊張も弛緩していった。

 魔獣の脅威が消失したことを確認した騎士たちは戦闘態勢を解き、エルキュールたちの方へ歩いてきた。

「何者だか存じ上げないが、とにかく助かったよ。礼を言う」

 先頭の長身の騎士が代表して二人に謝辞を述べた。その額に滲む汗が、魔獣との戦闘の過酷さを、事態の切迫さを表していた。

 しかし、笑顔で二人に感謝していた騎士が、不意にグレンの方を見て怪訝そうに眉間に皺を寄せた。

「君は……まさか、あの時の酔っ払いか!?」

「……げ、その節はどうも」

 騎士の言葉にぎくりと肩を震わすグレン。そういえば、エルキュールに出会う以前に騎士からお叱りを受けたと言っていたが、この騎士が相手だったようだ。

「つーか、今はそんな場合じゃねえ。おい、ここにいる住民の他はどうなってるんだ?」

 珍妙な巡り合わせを面白がっている時間はない。見たところ、ここにいるのは騎士三人、市民は二十人ほどである。

 ヌールはそこまで大きな街とは言えないが、街一人の人口は無論この程度に収まらない。ならば、残りの住民はどこに行ったのだろうか。

「正直分からないんだ……何分急に魔獣の襲撃だったものだからね。本当は多くの人を捜索しに行きたいところだが、付近の市民を守るので精いっぱいだったのさ。君たちが来てくれて本当に助かったよ」

「なるほど。……では、怪しい人影を見かけませんでしたか? 全身を白いローブに――」

 この騒ぎにはあの遺跡で遭遇した男が関わっているはずだ。そう結論付けたエルキュールが騎士に尋ねようとした瞬間、魔動鏡の鏡面が淡く光り渦のようなものが出現した。

「なんだこれは、どうなってやがるんだ……!?」

 突然の魔動鏡の起動に一同は戸惑いを隠せない。

 もしかしたら、この街の危機を察した他の街の騎士団が信号を飛ばしてきてくれたのかもしれない。

 だが、その真相は予想の斜め上――否、予想の斜め下のものだった。

 鏡面の画の背後には、舞い上がる火の粉と黒煙に塗れた街並み、崩壊した道路と街路樹。今いるヌール広場近辺よりも、数段酷い惨状に見舞われたヌールの街並みだった。

 しかし、注目すべきはそこではない。
 画の中央に、とある男性の胸像が映し出されていたのだ。

 身には白い装束を纏い、顔には銀を基調とした仮面が装着されており目元から頬の辺りまでを完全に覆っている。
 夜を閉じ込めたようなその漆黒の髪は、背景の赤との対照でさらに暗く見えた。

 身に纏う装束は、かつて遺跡で会った男が着ていたものに酷似している。嫌な予感がエルキュールの胸に広がり、コアに不快な疼きも生じていた。

「ふむ、こんなものだろうか。――オルレーヌにお住まいの諸兄姉に告ぐ。私はイブリス至上主義団体・アマルティアが幹部の一人、ザラームだ。予てより水面下で活動していたが、未だ碌な挨拶もできていなかったのでね。本格的に活動するに至って、リーベの文明の利器である魔動鏡にて話をさせてもらおうと思った次第だ、暫し付き合ってもらおうか」

 仮面の男――ザラームは燃える街の中でもかかわらず、悠々たる態度で勝手に挨拶の言葉を述べ始める。
 服装だけでなく、その声すらも遺跡内で対峙したあの男のものと寸分違わず同じであった。

「さて、我々の目的については薄々気づいていることだろうが……改めて表明しておこう。――言うまでもなく、それはリーベへの反逆だ。長いヴェルトモンド歴史において、貴様たちは傲慢にも我々を傷つけ、排し、その命を奪ってきた」

 滔滔と語るザラームの表情は完全には把握できはしないが、その語気には黒い熱のようなものを感じられる。

 ――と、そこまで聞いたところでエルキュールは我に返った。ここで静かにザラームの言葉を聞いていてはいけない。
 虚を突かれたというのもあるが、いつの間にかザラームの言葉に耳を傾けてしまっていたようだ。

「このまま奴を放っておくのはまずい……グレン、急がないと」

「つっても、こいつらのことだって放っとけないだろ」

「それは、もちろんその通りだが……」

 確かに人命が最優先なのは間違いない。ここにいる人々の安全を確保するのは必要であるし、この場にいなくとも助けを求めている人もいるだろう。

 とはいえ、ザラームの脅威が底知れないのも確かだ。魔獣だけでなくアマルティアまでも本格的に動き出したら、いよいよこの街に生きる全ての人が無事では済まないだろう。
 幸い、今のところザラームは演説に集中している。今すぐに向かえば、被害をこれ以上広げられることはないかもしれない。

 何を為すべきか迷っている間にもザラームの演説は続いていた。

「愚かにもリーベは、自分たちのためにこの世界が存在していると考えているようだが、それは他を顧みない傲りから生じた間違った思想だ。正さなくてはならない、その歪みを。守らなくてはならない、我々の生存の権利を。我々の戦いは、我々の存在が世界に許容されるまで続くだろう。今宵のヌールへの襲撃はその序章に過ぎない」

 ザラームの言葉はエルキュールの心を酷く締め付けた。その言葉に共鳴するように、エルキュールの意識から負の記憶が沸々と湧き上がってくる。

 あの日、自分はどうして心無い言葉で詰られなければならなかったのか。今こうして自身の力を押さえつけ、魔人であることを隠しながら生きているのは正しいことなのか。

 長年抑圧されてきた感情が爆発してしまうのを、エルキュールは懸命に堪えた。

 やはり、このままザラームを放っておくことはできそうにない。

「……はあ。仕方ねえな、お前は」

 エルキュールの様子に見兼ねたグレンは大きな嘆息を漏らした。それから大きく息を吸い、何かを決意したのか深く頷いた。

「こっちのことはオレに任せろ。お前はあの野郎の下に急げ」

「グレン、君は……」

「ただし、無茶はするなよ。オレたちが安全に住民を保護する間、あいつに妙な動きをさせないだけでいい」

 そう言って不敵に笑うグレン。「ちょっと!」と騎士が文句を言う声が聞こえたが、彼はそれを手で制止ながら顎でエルキュールに再度促した。

 短く礼を言い、エルキュールはヌール広場を飛び出した。

 魔動鏡に映っていた場所には見覚えがあったため、ある程度は推察できるだろう。その手掛かりをもとに、ザラームの下へ駆ける。

 かつての整然とした様子を見る影もなくすっかり崩壊した街並みは、疾駆するエルキュールの心中を表しているようだった。

 エルキュールが飛び出していった後のヌール広場にて。

「君ねえ……勝手な判断はやめてくれないか。どうして勝手に彼を行かせたんだ、今は他に優先するべきことが――」

 急展開を前にそれまで呆然としていた騎士が、グレンを窘めようとする。

 当然のことだ。

 ここにいる市民の数は二十。ここに置いていくわけにもいかないので、他の市民を探しに行くのなら当然彼らの安全を確保するのが前提となる。
 対して戦える人員はグレンを入れて四人。本当ならエルキュールにも協力を仰ぐべき状況なのだ。

「ああ。市民を守る――騎士に課せられた使命の一つ、だろ?」

「だったらどうして……」

 食い下がる騎士に、グレンは頭を掻いた。詳しく説明をしたいところだったが、時間はない。
 諦めたように息をつき、グレンは懐から何かを取り出し、騎士の連中の目の前に示した。

「そ、それは……その家紋はまさか……!?」

 グレンが取り出したのは首飾りであった。金色の細い鎖に深紅の楕円形の宝石。恐らくは火の魔鉱石を精錬したものだろう。
 それだけでも凡庸な首飾りではないことが窺えるが、その首飾りの価値はそれだけに止まらない。

 宝石の中央には剣を象ったような紋章のようなものが刻まれており、それこそが騎士の吃驚をもたらした原因であった。

「これに免じて、ここはオレの指示に従ってくれないか?」

「……ええ、理解しました。これは心強いです、まさか貴方が彼の有名な――」

「いいって、オレ自体はそう大層なモンじゃねえ」

 騎士たちの高揚を抑え、グレンはその目に真剣な色を宿した。

「とりあえず、そうだな……街の外に住民を逃がす班と、街中の逃げ遅れてる住民を探す班に分かれるぞ。っと、お前は……」

「私はソーマと言います。こちらはヘルツとティック」

 今までグレンと会話していた騎士――ソーマが手短に紹介する。金髪で小柄な騎士がヘルツ、整えられた髭が目立つ騎士はティックというようだ。
 グレンは自らの名前を名乗ると、続けてこう説明した。

「よし、ソーマとヘルツはこのまま住民を連れて街の外へ。門を出たら、念のため上空に応援要請用の信号弾を放て。まあ、あのザラームとかいう野郎の演説のせいで無用かも知れねえが……」

「ええ、承知しました」

「了解であります」

 グレンの指示にソーマとヘルツはそれぞれ首肯した。

「ティックはオレと街の捜索だ。……確認だが、お前ら以外の騎士の詳しい配属は分かるか? できればそこ以外を優先して探してえからな」

「分かるっすけど……あまり意味はないと思うっす」

 グレンの考えは尤もだったが、対するティックは芳しくない表情であった。

 意味はない、というのはどういうことか。グレンは眉をひそめてティックに説明を求めた。

 曰く、この一週間の間で多くの騎士がミクシリアに召集されたという。王都での魔人が現れたという騒ぎのためだというが、その影響で最近の騎士の配置は通常時のものから大きく変更せざるを得なかったという。

「ちっ……なんてタイミングだよ……仕方ねえ、人が集まりそうな場所から回るしかねえな」

 苦虫を噛み潰した表情でグレンは呻いた。ともあれ、今はできることをするしかない。全てが突然のことであったので、周到に立ち回ることは難しい。

「よし、お互いそれで行くぞ!」

 頭を切り替え、グレンは騎士の三人に確認をとる。その妙に洗練された要領に、三人は感心しながらも頷いたのだった。

◇◆◇

 ヌール広場を飛び出したエルキュールが向かっていたのは、ヌールの中心に位置する中央区であった。

 先ほどザラームが映っていた映像の街並みは、ちょうどこの辺りの景色だったはずだ。

 目標はそう遠くない――エルキュールは確信を抱き、ふと立ち止まった。

 ここまで来るうちに、ザラームの演説は終わっているかもしてない。そうであるならば、彼は既に移動を開始していることだろう。

 ザラームは「リーベへの反逆」とのたまいていた。その時の彼の熱が、未だエルキュールにこびりついて離れない。

 この世界に魔物の自由な権利は無いに等しい。長い歴史の中で、リーベは自らの脅威となるイブリスを排除してきた。それが自然なことだという思想が遍く流布されてきたのだ。

 きっとザラームは、徹底的にこの街を破壊するだろう。自分たちの同朋が、そうされてきたように。
 そのために自らも何らかの行動を起こすはずである。

 そう推察し、エルキュールは魔素感覚を研ぎ澄ませた。元々は魔法を効率よく使うための技術であるが、今は周囲の魔素の流れを読み異常がないかを探る。

「――ダメだ、魔獣が多すぎるのか全く分からない」

 思い通りにいかない結果に、エルキュールは歯噛みする。魔獣に備わる魔素質が発する魔素しか検出できなかったのだ。これだけ混濁としていると、ザラームの痕跡があったとしても把握することは不可能だろう。
 一体どれだけの魔獣が放たれればこんなことになるのか、想像も付かない。

 魔素感覚による探知が無意味だと分かった以上、エルキュールに残されたのは直接自分で探索するという地道な選択肢のみだった。

 エルキュールは再度脚に力を込めて走り出そうとしたが、それとほぼ同時、彼方から重い低音が空気を震わしたのを感じた。

 それだけなら家屋が崩壊した音にも思えたが、どうやら違う。その音は単発に終わらず、一定の間が空いた後再度エルキュールの耳を刺激した。

 何かの爆発音ともとれるその音に伴い、強烈な光も明滅していた。これはただ事ではあり得ない。

「あの方角は……ヌール伯邸か?」

 その先はヌールの中央にある中央区の、さらにその中心に位置しているヌール伯の邸宅の方角であった。

 当たりをつけたエルキュールは、すぐに目的へと急行する。

 道を左手に曲がると、さらに酷い光景が広がっていた。

 その道中は動かなくなった魔獣の骸や瓦礫の数々が散乱し、とてもじゃないがまともに通行できたものではなかった。

 この惨状から察するに、魔獣どもは人の多い中央区に集まってきているようだった。多くの人間を汚染することができる効率的な動きの裏に、人為的な誘導が透けていた。これもザラームの仕業なのだろうか。

 ただ、ここ一体の魔獣は既に生命活動を終えているようだ。数刻前にはここで騎士が戦っていたのは明らかだった。

 突然の魔獣の襲来で、騎士たちの統率は取れてはいないものの、この様子だと各自で出来ることを為しているのかもしれない。

 幾ばくかの安心を得たエルキュールは、悪路に構いもせず障害となるものを飛び越えて、もしくは自身の得物であるハルバードで薙ぎ払いながら突き進む。

 そうして何個目かの角を曲がると、周りの住居よりも一際大きいヌール伯の邸宅が目に入る。

 それと同時に理解する。先ほどの爆発音と思しきものの正体を。

「ウオオォォ……」

「あはあ、お兄さんすごいねえ。もうこんなに魔力を制御できるようになって……でも、知性がないのが残念かなあ?」

 邸宅の前にいたのは二つの人影。

 一つは白い装束を纏ったダークピンクの髪の少女。二つに結われたその片方を手で遊びながら、もう一人の影に対して軽口を叩いている。

 もう一つはおよそ人間とは思えない呻き声をあげ、ただならぬ魔力を湛えていた。
 その手には赤く輝く魔素の残滓が残っており、彼の横にあった家屋は煙を上げ粉々に壊れていた。恐らく、魔法かそれに準ずるもので破壊されたのだろう。

 だがそんな痛々しい光景以上に、その人影の姿形自体に問題があった。

 一般の人間よりも一回り大きい体躯に、何故かあちこちが破けている布切れが纏わりついていた。

 その肌は普通の人間とは異なり、まるで火傷を負ったかのような赤黒い痣が爛々とした赤い光を伴い蔓延っている。――魔物に特有な魔素質である。

「嘘だ……」

 人型の魔物、それを見た途端、エルキュールの口から声が漏れたのを咎めるものはいないだろう。

 エルキュールにとって、自分以外の魔人を間近で見るのはこれが初めての事だった。

 もちろん、魔獣に比べて魔人の数が少ないというのもある。
 だがそんな理由よりも、ヌールに至るまでの放浪生活においても、ヌールに住んで魔獣を狩るようになってからも、魔人が出没する場所には行かないように徹底してたから、というのが大きかった。

「んー?」

 不注意にも漏れたその声に反応して、少女が振り返る。エルキュールは自身の失態を呪ったが、時を戻すことはできない。

「あれ、この辺りの人はとっくに逃げたと思ってたんだけど……まだ人がいたんだねえ」

 少女の目がエルキュールを品定めするかのように動く。その顔は幼さが残っており、この場には似つかわしくないように思えた。

「……いや、その服装、君もアマルティアだな?」

 魔人の存在に意識を引っ張られていたが、よく見れば少女の身につけている装束は、あの仮面の男・ザラームが身につけているのと同様だった。
 その事実を確認し、エルキュールは警戒を強めた。

「へえ、フロンたちの詳細は、まだ限られた人たちにしか知られてないはずなんだけどなあ……?」

 ただ人ではないことを悟ったのか、アマルティアの少女・フロンにも幾ばくかの緊張が走る。
 エルキュールの言葉を否定しないあたり、本当の事なのだろう。まさか、ザラームのほかにもヌールの街に来ていたとは驚きだ。

 それに対して、半ば自身がアマルティアであることを認めたフロンは、隣で虚空を見つめていた魔人の方を見やる。

「これは丁度いい機会だね。お兄さん、あの人やっちゃってよ」

「オオォォオオォ……」

 フロンの言葉を受け、魔人は緩慢な動きで振り返りエルキュールと対峙した。すると、それまで後ろ姿しか確認できなかった魔人の前面がはっきり見て取れる。

「え――」

 その姿を見た瞬間、先ほどよりもさらに細い声がエルキュールの口から漏れた。

 奇妙なことだが、その魔人の顔に見覚えがあったのだ。魔人に会うのはこれが最初だというのに、一体なぜ――

 いや、そんな思考をするまでもなく心当たりはあった。

 ただ、だからといって簡単に認められるわけもなかった。

「アラン、さん……?」

 それは、数時間前に会ったばかりの、鑑定屋の店主その人の顔であったから。

 相対する魔人の顔は、この三年のヌールでの生活で見慣れたものであった。
 鑑定屋の店主、アラン――今朝の鑑定屋での出来事は、まだ記憶に新しかった。
 ところが、今目の前にいるアランの顔をした魔人は、人間のアランとは全く異なる姿形である。

 エルキュールはもう一度彼の姿をその眼に焼き付ける。

 相変わらず、人間よりも一際大きい身体には至るところに赤い魔素質の痣が広がっており、胸元の深紅のコアが魔人の纏う布の切れ端の隙間から覗かせている。

 紛うことなき魔人なのだが、その相貌にはアランの面影がくっきり見て取れる。
 それが意味することはもはや一つしかないのだが、エルキュールはそれを直視することができないでいた。

「へーえ、名前を聞く前に魔人になっちゃったから分からなかったけど、このお兄さんはアランって言うんだね。……ふふっ、呼びやすくていい名前ね」

 必死にその事実から意識を背けていたエルキュールに、フロンは無邪気な言葉を以て真実を突きつける。

 もはや逃げることは叶わない。あの魔人はアランが汚染されたことで生まれたのだろう。
 魔物の持つ汚染能力。言葉では知っていたエルキュールだったが、その残酷さを身をもって体感させられる。

「ウオオォォ!!」

 もはやアランとは呼べない、赤き光を纏う魔人はフロンの命を果たすべく、呆然としていたエルキュールに向かって飛びかかった。

「ぐっ……!」

 完全に油断していたエルキュールは、迫り来る丸太のような太い腕によって道脇の家屋の塀に叩きつけられた。衝撃で塀の一部が音を立てて崩壊する。

「うぐ……アランさん、意識がないのか……?」

 悠々と歩いてくる魔人を見て、塀にもたれかかるエルキュールは呻く。

 願うようなその声は魔人に届くことはなかったようだ、その歩みは少しも止まる気配がない。

「あれれ、おかしいなあ。魔人の攻撃を喰らって平気でいるなんて……」

 後ろから見ていたフロンは小首を傾げる。

 確かにエルキュールが普通の人間だったならば、あの攻撃で致命傷を受けていたかもしれない。

 しかし、エルキュールもまた魔人という純粋な魔素を糧として生きるもの。その耐久力は並々ならぬものだ。
 魔素質に含まれる魔素が尽きるか、コアに損傷を受けない限り身体は再生され、その生命は半永久的に続くといわれている。

 アマルティアに属するフロンは、そういった魔物の特性にも精通しているのだろう。大したダメージを負った様子がないエルキュールを見据え、意味深長な笑みを浮かべた。もしかしたら、エルキュールの正体にも心当たりが付いたのかもしれない。

 だが、その二度目の失態を犯したことに後悔する暇もなかった。ゆったりと距離を詰めていた魔人が急に動く速度を速め、その巨体で突進してきたのだ。

 二度と同じ轍を踏むわけにはいかない。迫りくる巨躯をすれ違うように躱すと、エルキュールは振り返って魔法を放出した。

「――シャドースティッチ!」

 手元に小さな黒の矢が生成され、無防備な姿を晒している魔人へと放つ。

 矢が魔人の影に重なって地面に突き刺さる。

「ウオォ……?」

 シャドースティッチ――対象の影を貫くことでその動きを一定時間止めることができる魔法だ。強力な力を持つ者には効果が薄いのだが、彼の魔人には効果覿面のようである。魔人といえども生まれたてのようなものであるから、その力を完全に発揮できていないのかもしれなかった。

 攻撃を加えなかったのは、まだエルキュールの中でアランのことを割り切れていないのだろう。魔法による妨害だけ行いそれ以上の追撃は行わなかった。

 その代わり、もう一人のフロンの方に向かって走り出し、ハルバードを横に構える。
 見た目は可憐な少女にしか見えないが、アマルティアである以上慈悲をかける選択肢などなかった。

「悪くないね。――けど、前ばっかり見ていちゃ危ないよ?」

「なに――」

 声を発する前に、エルキュールは自身の胸元が何かに貫かれたような感覚を覚えた。

 それを知覚した瞬間、今まで味わったことのない痛みがエルキュールを襲った。全身に力が入らなくなり、地面に膝をつく。

「うぐっ……う、後ろ……?」

 自身の胸元を見ると、緑の光で構成された矢が身体を貫いていた。矢尻が腹の方にあるということは、後ろから放たれたものだろう。
 幸いにも、その魔素質の矢はコアを外れていたので大事には至らなかったが、エルキュールの行動を封じるには十分すぎるほどの威力でもあった。

「ふむ……少々危なかったのではないか、アーウェ?」

「も、申し訳ございません……でも、フロンちゃんが危なかったから、つい……」

 エルキュールが痛みに喘いでいると、後ろの方から聞きなれた声とそうでない声の二種類が聞こえてきた。何とか顔だけその方へ向けると、動きを封じられているアランとは別の人影が二つ、こちらに接近してきているのが見て取れた。

 一人はその顔に銀色を基調とした仮面を付けた長身の男――ザラームである。その身に厳かな雰囲気を纏わせ、見る者を圧倒する。

 ザラームは途中、エルキュールの魔法で拘束されていた魔人を一瞥し、魔素を操り地面に突き刺さっていた黒き矢を分解した。その矢は既に術者から離れ半ば自動的に発動しているので、外部からの妨害にすこぶる弱いのだ。

 解放された魔人は、すぐさまエルキュールに襲いかかる素振りを見せるが、ザラームがこれを制止する。

 そして、いとも簡単にエルキュールの魔法を無力化したザラームの一歩後ろにも、こちらに向かってくる影があった。

 ザラームやフロンと同じ白の装束を身に纏う、華奢な少女であった。

 ウェーブがかかったダークグリーンの髪は、彼女が一歩歩みを進めるたびに微かに空に揺れる。手には翡翠の光を湛えた弓が握られていた。その色を見るに、エルキュールに傷をつけた凶器で間違いないだろう。

「ナイスタイミングだったね、アーウェちゃん! それに、ザラーム様も」

「う、うん……! フロンちゃんに怪我がなくてよかった……」

 蹲るエルキュールの頭上を、そんな二人の会話が抜けた。そのやり取りから、ザラームはもちろん、ダークグリーンの少女――アーウェもアマルティアの仲間であるようだ。
 三人、魔人と化したアランも含めれば四人目となる敵の出現に、エルキュールは暗澹とした気分が自分の内に広がっていくのを感じた。

「――遺跡での邂逅以来だな、エルキュール・ラングレー」

 エルキュールの目の前まで来たザラームが見下ろしてくる。彼の左右にはフロンとアーウェが並び立ち、同じくエルキュールの方に視線を向けている。

 ザラームの制止を受けた魔人は、エルキュールの後ろに陣取り、退路を塞いだ。

 流石にこの状況はまずい。グレンに注意されたにも関わらず、全く不甲斐ないことに逃げ場を失うほど追い詰められてしまった。

 自らの愚かさを悔やんでいたが、ザラームの発言の中で一つ奇妙なことを思い出し、エルキュールは彼を睨みつけた。

「……なぜ、俺の名前を知っている……?」

 そう、確かにこの男はエルキュールの名前を呼んだ。今となっては、家族とグレンと人間だったころのアランぐらいしか知らないはずの名前を。

 それほどまでに、自分を閉じ込めて生活してきたつもりだったが――

「そう怖い顔をするな、貴様の知りたいことには存分に答えてやるつもりだ。……だが、その前に――」

 エルキュールの当然の疑念にザラームは笑みを漏らし、手を上空へと伸ばした。その手に闇の魔素が集約するのを感じたエルキュールは身構えるが、脇の二人がそれを牽制する。

 しかし、エルキュールの懸念に反し、その魔法を彼に危害を加えるものではなかった。ザラームの手から飛散した魔素は、エルキュールたちがいる空間を囲うように上空を飛翔し、やがて大きな半球体の結界を構築した。

「ふむ、これで問題ないな。邪魔が入ることもないし、貴様も自身を押さえつける必要が無くなったと言えるだろう?」

「くっ――」

 一体どこまで知っているのか、見透かすようなザラームの発言はエルキュールを苛立たせた。

「んんー……? あ、そっか! やっぱり君も魔人だったんだね。だから、アランの攻撃を受けてもピンピンしてたんだ?」

 二人のやりとりを見ていたフロンが手を叩く。あの魔人をアランと呼んだことにも納得いかないが、それ以上にまたしても聞き捨てならない台詞がフロンの口から飛び出した。

「『君も』……というのはどういう意味だ……!?」

 もはやエルキュールの思考は濁流に呑まれたような混沌と化していた。本来ならこんな問答をしている場合ではない。
 敵に囲まれているこの状況を打破しなければならないはずなのに、エルキュールの本能がその問いを求めてやまなかった。

「ふう、質問が多いな。……仕方のないことだと思うがね」

 必死なエルキュールの態度にザラームは嘆息する。仮面の奥では呆れた目をしているに違いない。

 だが別に質問に答えないわけでもないようだ。ザラームは一つ咳払いをして――

「そうだな、先にフロンに対しての質問から答えさせてもらおうか」

 そう低く言い放ち、ザラームは横に控えていたフロンとアーウェに何やら合図を送った。

 それを確認した二人は互いに頷きあい、纏っていた白の装束を脱ぎ捨てた。

 目に入って来たのは、それまで纏っていたのとは反対色である、黒を基調とした薄手のワンピースドレス。フロンの方は暗いピンク、アーウェの方は暗い緑が、その黒を引き立たせておりシックな印象であった。

 だがエルキュールがそれに反応することはなかった。否、反応できなかった。

 外套が取り払われたことで二人の露出度も上がったわけだが、それこそが問題だったのだ。

 露わになった肌にはそれぞれ赤と緑の痣が刻まれており、胸元には薄手のドレスの内から同色の光が漏れ出ている。

「まさか……!」

「ふ、何を驚いているのかね?」

 目を見開いているエルキュールを嘲けるように、ザラームは自身も装束を脱ぎ去った。

 格式ばった黒の礼服が露わになり、その胸元にはもはや言うまでもなく黒い光が輝いていた。

「私たちは同じ存在――ただ、それだけのことだ」

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