「黒き魔人のサルバシオン」8

 結界に守られたヌール伯邸前――エルキュールと対峙しているアマルティアの三人は、纏っていた白の装束を脱ぎ去り、ついにその本性を晒した。

 三者三様の色ではあるが、その肌に刻まれている魔素質の痣も胸元に煌めくコアの光も、等しくエルキュールの心に突き刺さった。

「魔人……」

 無意識のうちに声が零れる。アマルティアに魔人が属しているという噂は本当の事だったようだ。
 そして、これを以てして今日だけで四体もの魔人と遭遇したことになる。その衝撃により、エルキュールは思わず地面に尻をついてしまう。

「何をそんなに驚いている? 言っただろう、貴様と同じだと。だからこそ貴様のことを念入りに調査し、迎えに来たというわけだ」

「迎え……? 何を言っている……!?」

 エルキュールのことを調査していたから、その名前も知っていたということらしい。そのことに関しては辛うじて理解できたが、ザラームはまた訳の分からぬことを言い出した。
 怒涛のように浴びせられる情報にエルキュールの思考は崩れ去り、鸚鵡返しに尋ねることしかできない。

「つ、つまり……貴方をアーウェたちの仲間に引き入れること……そ、それが今回の目的」

 ザラームの代わりにたどたどしい口調で答えるアーウェ。その声は細く、視線はあちこちに飛んでいる。
 明らかに彼女たちの方が有利であるにもかかわらず、エルキュールを前にして何故か少し怯えているようだった。

 どこか頼り気ないアーウェの補足にザラームは鷹揚に頷く。

「――そういうことだ。遺跡ではあの赤髪の男が邪魔だったんでな、こうして改めて場を整えたというわけだ」

「仲間、だと……? 何を馬鹿なことを言っている、俺がお前たちに与するとでも思っているのか?」

 アマルティアの連中の目的を聞いたエルキュールは心底困惑した。エルキュールに会いに来て勧誘する、ただそれだけのためにここまで来たというのか。

 否、そんなはずはないと、エルキュールはザラームを睨みつける。

「冗談のつもりなのか? 第一、世界への反逆のためにこの街を襲ったと、お前が自分で言っていただろう!?」

 エルキュールが思い出していたのは、あの魔動鏡での演説のことだ。あの時と今とでは、ザラームの発言の内容は異なっている。

「もちろん、それが最終的な目標であることに相違ない。ただ、それだけの大事を為すには相応の資源が必要になってくるだろう? 故に同士を増やすことが不可欠となる。魔獣を使ってこの街を襲わせたのも、そこの後ろの魔人を汚染したのも、こうして貴様と話し合いの場を設けているのも、全てその目的を果たすためだ」

 余裕がないエルキュールとは対照的に、ザラームは至極落ち着いた態度で言葉を連ねる。
 ザラームの口調はエルキュールを落ち着かせようとしているようにも聞こえ、その気遣いが却ってエルキュールの怒りを煽った。

「――貴様も分かっているはずだ。このヴェルトモンドではリーベこそが尊ばれるべき生命であり、イブリスである我々は生きることを許されない。それが何故だか分かるか?」

 仮面越しに見下ろしてくる視線がエルキュールに答えを迫る。その力強さに押されまいと、毅然とした態度でエルキュールはザラームを睨む。

「それは……お前たちのようにリーベに仇なす存在がいるからだろう。魔獣を増やし、街を襲い、リーベを汚染する……だから排除される。分かりきったことのはずだ」

 リーベの世界で生きることになって十年、エルキュールはそこで培った常識をザラームにぶつける。
 しかし、当然だと言わんばかりのエルキュールのその答えを、ザラームらは鼻で笑った。

「それはリーベである人間たちが勝手に決めたことだよ。この世界を我が物顔で占領しちゃってさぁ……ホント、図々しいよねえ?」

 ザラームの横に侍っていたフロンが薄く笑い、エルキュールに投げかけるように視線をよこす。

「……ア、アーウェたちにも、生きる自由がある……」

 フロンに続き、アーウェの方からも言葉が発せられる。その眼は依然としてエルキュールの方を直視していないが、彼女の言葉にはそれまでと比べてどこか力強い感情が込められているように思えた。

「……人間が勝手に……生きる自由……」

 二人の言葉にエルキュールは息を呑み反芻した。

 それは彼が押し殺してきた思想で、目を背けてきた思想でもあった。そんなモノはリーベの社会で生きるには邪魔になるだけだからだ。

 それを主張したところで、家族とは離れることになるだろうし、自身の命を無駄に散らすだけだ。
 だから考えないようにしていたというのに。突然突きつけられた価値観にエルキュールは戸惑う。

「本来我々には、何にも縛られず生きる権利があるはずだ。かつてのヴェルトモンドに存在した生命である精霊は、現代のイブリスに非常に近しい存在だったという。即ち、我々もまた歴としたこの世界の一員なのだ」

 滔滔と語るザラームを目にし、いつしかエルキュールは彼らに対する敵意を忘れ、その言葉に耳を傾けていた。

「だが、この世界は腐りきってしまった。愚かにも自らが万物の霊長であると勘違いした浅はかな衆愚によって。エルキュールよ、貴様の在り方はそれで正しいといえるのか? リーベに諂い自身を抑圧しながら生きる在り方が。――我々と共にこの世界を創り直す道にこそ、自由と幸福があるのではないか?」

「それは……」

 ザラームの言い分は部分的には正しいと言える。

 この先、家族と共にリーベの世界で生きようとしても、またあの八年前の事件のように住む土地を追われるのではないか。いつか家族に迷惑をかけ、不幸にさせてしまうのではないか。その危惧を抱きながら生きることは果たしていいことなのだろうか。

 様々な逡巡がエルキュールの意識を染め上げる。しかし――

「……お前たちにそれを言われる謂れはない。どう言い繕おうがこの街を焼き、人間を汚染し、この世界に不和を起こした――そんな連中に加担するなんてごめんだ」

 精いっぱいの反抗を示す。すっかり崩れ去った街並みが、後ろに控えている変わり果てた知人の姿が、エルキュールをそのように仕向けたのである。

「ふぅん……魔人のくせにあくまで人間の肩を持つんだ?」

「俺はお前たちのような悪意に染まった凶徒とは違う」

 その視線を鋭いものに変えたフロンにエルキュールも応酬する。ザラームは同じだと称したが、こんな非道を行う者と同列に扱われることなど耐えられなかった。

 もはやこれ以上話し合う余地もない。エルキュールは僅かながら回復した身体を確認し、臨戦態勢に入ろうとする。

「そう構えるな。ふっ――!」

 エルキュールが行動に転じるより数段早く、ザラームは瞬時にエルキュールとの感覚を詰めた。そのままザラームは彼の頸部を鷲掴みにすると、乱暴に眼前に持ち上げた。

 身体が宙に浮かされ、首元を強く締め付けられていることにより、エルキュールは完全に動きを封じられてしまった。

 そうしてエルキュールを捕らえたザラームは、塞がっていない方の腕で彼の着ている服の胸元の部分を引きちぎった。

 胸元に鎮座する忌まわしきコアが、八年の時を経て再び裸出した。

「――!」

 首の締め付けによって声にならない叫びが、エルキュールの口から飛び出る。

「再度言っておく、貴様は我々と同じだと。どれだけ他人から隠そうとも、どれだけ自身を騙しても、貴様に備わるコアがその証明となる。――己を美化するのはやめたまえ」

 一段と冷徹さが増した声でザラームが言い放つ。

 だが、エルキュールの方は彼の言葉に反応する余裕など無いようで、ただただ自身の露出したコアを眺めるばかりだった。

「貴様は自分が無害な存在だと考えているのか知らないが、それは思い上がりに過ぎない。所詮は、貴様も魔人。いくら目立たぬように暮らしたとて、人間とは敵対する定めにあるのだ。……八年前のエスピリト霊国での件のようにな」

「っぐ……あぁ……!」

 それはエルキュールが持つ原初の記憶。脳裏に蘇るのは、燃え上がる炎の熱、浴びせられた罵倒、傷つけられた痛み。

 その全てが現状と重なって、恐ろしいほど高い解像度を伴った追憶がエルキュールの心を蹂躙した。

 何故そのことをザラームが知っているのか、問いただすことは叶わない。彼の握力が力を増したことで、苦しみに喘ぐほかなかった。
 その琥珀色の瞳には暗い絶望の影が広がっている。

「酔狂なことではあるが、貴様が本当に人間のことを案じていたとしても、その在り方は誤っていると言わざるを得ない。貴様の存在は人間のためにはならないからだ。我々の存在を抜きにしても、貴様の周りでは此度の件のような災難が降りかかることだろう」

 ――いよいよ限界だった。エルキュールはもはやザラームの方を直視できずに目を逸らした。

「さあ、もう十分だろう。今一度答えを――」

 エルキュールの心が折れたのを確信したザラームは、エルキュールを手中に収めるべく言葉を掛けようとした。

 しかし、思わぬところからそれは中断させられる。

「……あ、あの……ザラーム様。す、少しよろしいですか……?」

 ザラームから数歩後ろに離れたところで待機していたダークグリーンの少女――アーウェだ。

「――どうした?」

 彼女の切羽詰まった表情に、ザラームはエルキュールの拘束を解放し振り返る。

 運よくザラームの手から逃れたエルキュールだったが、彼と争う気力はとうに砕け散ったようで、傷だらけの地面を虚ろに眺めていた。

 その一方、ザラームの下に歩み寄ったアーウェは彼に耳打ちをした。その手には小型の鏡のようなものが握られており、彼女はそれを示しながらザラームに何かを説明している。

「――なるほど、王都の件か。ああ、分かった。……フロン」

 やがてザラームは頷き、さらに奥の方に待機していたフロンを呼びつける。
 それまで蚊帳の外にされていたことで不満げな表情で髪をいじっていたフロンは、主の呼びかけに表情を綻ばせ、主の下に駆けつけた。

「どうしたのザラーム様?」

「詳しくは後で話す。急いで撤収する」

「えぇー……こんな中途半端なとこでやめちゃうんですかぁ?」

 意外なザラームの言葉に、フロンは目を丸くする。

「まだまだ人間は残ってるんだよー……? それにそこの魔人さんのことだって……」

「焦る必要はない、いずれ目的は達せられる。さあ――転移の準備を」

「……はーい。ほら、アーウェちゃん、やるよ」

「う、うん、分かった……!」

 不承不承納得したフロンは、アーウェの方へ寄りその手を握る。それからお互い目を閉じ意識を集中させた。

 瞬間、闇の魔素が周囲に満ち溢れる。それは二人を中心に徐々に広がり、やがてザラームとエルキュールの後ろにいたアランの周囲を覆った。

 この魔素の流れは闇魔法ゲートのものだろう。何故かは知らないが、先の会話を考えるとここから脱出するつもりのようだ。

 そこまで分かっていたエルキュールだったが、アマルティアの三人が、魔人と化したアランが消えていくのを悲痛な面持ちで眺めることしかできなかった。

 肉体的にも、そして何より精神が疲弊しきっていた。

「今回はここまでにしよう、エルキュール。だが覚えておくがいい。魔人としての至福は、我々と共に歩むことでのみ得られるものだと。――では、また会おう」

 ザラームの言葉が終わるころには、ゲートによって彼らの姿は跡形もなく消えてしまった。

 地に伏したエルキュールと悲惨な街並みだけが惨めに取り残された。

◇◆◇

 それからどれだけの時間が経ったのだろうか。

 力なくエルキュールは立ち上がり、周囲の状況を把握しようとする。

 この一帯を覆っていたザラームの結界は、彼の退却に伴って消滅したようだった。以前まではあった魔獣の咆哮や家屋を焼く遠火も、今となっては少し収まりつつある。

 次いで、エルキュールは自身の身体を確認する。

 外套の表面は、煤や土埃に塗れてすっかり汚れてしまっていたが大したことではない。
 問題は、その内に纏っていた黒衣だ。胸元の部分が破れ、コアが露出してしまっている。

 鈍った頭では考えがまとまらないが、ひとまずこれをどうにかしなくてはと、本能的にエルキュールは悟った。

「おーい、術が解けたみたいだぞー!」

 遠くの方で発せられた声に、エルキュールはぎょっとした。恐らくこの未曽有の危機に奔走していた騎士の声だろう。その声に続くように足跡も聞こえてきた。

「くっ……」

 今の状態で人に見られるわけにはいかない。未だ痛む身体を庇いながら、エルキュールは声のした方向と反対の方向へと逃げ出した。

 エルキュールがアマルティアと対峙していた一方、ヌール広場にて騎士の協力を得たグレンは、崩壊した街に逃げ遅れた市民の捜索をしていた。

 あれからしばらく経ったが経過としては順調で、幾人かの市民を救助することが出来ている。

 そして、今この瞬間にも――

「危ねえ――!」

 目の前でまさに倒壊しようとしている家屋の下、転んで足元を挫いたと思しき女性とそれを心配そうに見つめる少年がいるのをグレンは発見した。

 その光景を目撃するや否や、グレンは考えるよりも早く親子に降りかかっていた瓦礫に向けて、銃大剣に備わる銃砲から火球を放出する。

 火球の威力により、瓦礫は親子に直撃する前に塵と化した。そのことを確認したグレンはひとまず胸を撫で下ろし、彼らの無事を確認する。

「大丈夫か? 怪我とかしてねえか?」

 グレンに声を掛けられたところで、ようやく窮地を脱したことに気づいた二人の緊張が緩む。
 少年の方は堪えていたものが弾けたのか、女性に抱きつき胸に顔を寄せて咽び泣いていた。女性は泣き出してしまった少年の背中を優しく撫でて宥める。どうやら二人は親子であるようだった。

「ええ、おかげさまで何ともありません。……本当になんとお礼を言ったらいいか」

「礼はいい。当然のことをしただけだっての。――おい、ティック!」

 女性に気安く返したグレンは、整えられた髭が特徴的な騎士――ティックに声をかける。彼は後ろから幾人かの騎士を引き連れグレンを追いかけてきていた。

 ティックのほかの騎士たちは、ここに至る途中で合流したヌールの駐留騎士たちだ。

「グレンさん、速いっす。――っと、これは」

 あまりのグレンの速さについていけずにぼやいたティックだったが、彼の傍らにいる親子の存在に気づき、その表情を引き締める。

「ああ……大した怪我はないみてえだが、母親の方は少し脚が悪いようだ。誰かに介助を頼めるか」

「そうっすね……じゃあ君たちに頼んでもいいっすかね?」

 グレンからの要請を受け、ティックは彼の後ろに控えていた騎士の二人に声をかけた。その騎士は快く了承し、親子を安全な場所に連れて行こうとする。

「本当に、ありがとうございました……!」

「う……ぐすっ、ありがとうお兄ちゃん!」

 親子は去り際にもう一度グレンに謝辞を送り、騎士に連れられ街の外へと向かっていった。

「ふう……これで十人か。ティック、他の騎士の状況はどうなってる?」

「そうっすね、一班は約二十名の市民をアルトニー方面の郊外へ避難誘導したみたいっす。先刻、二班が目撃したという黒の結界はまだ継続しているみたいっすね」

「そうか。となると、結界の中は後回しだな……」

 ティックの報告をグレンは冷静に受け止める。

 ここへ来る途中、市民だけでなく幾人かの騎士と合流することができていた。
 その際、騎士の間で用いられている連絡用の魔動通信機を融通してもらえたので、グレンはより多くの騎士を組織できるようになっていた。

 現在グレンたちがいるヌールの西側は、先の報告を聞く限り順調に救助が進んでいるといえる。後は隣町のアルトニーへの連絡が出来れば上出来といった調子だった。

 しかし、ヌールの中央区方面に正体不明の結界が貼られたらしく、その方面の探索は難しい状況になっている。いかにも怪しい結界、十中八九アマルティアの関与があると考えられるが、外側から手は出せないのが全くもどかしい。

「――はい、なるほど……そうっすか。分かりました、連絡しておくっす」

 グレンが脳内で情報を整理している内にも、別の騎士からの連絡を受けていたティック。小型の魔動通信機を片手に頻りに頷いていたかと思うと、グレンの方に向き直った。

「三班のほうから連絡っす。ニースの方面を捜索していた騎士によると、ニースからの応援が駆けつけてくれるみたいっすね」

「……ふうー、そうか。それならそっちの方は何とかなりそうだな。アルトニー方面はオレたちが担当したから……そうなると、残すは結界の中の中央区付近か」

 ティックからもたらされた情報に表情を和らげたグレンだったが、それで全ての問題が解決されたわけではなかった。

 依然として結界の中は探索できないでいたのだ。それ以外の場所は市民も幾人か保護できたが、閉ざされた中央区にも逃げ遅れている人々がいるかもしれない。

 それに加え、もう一つグレンの頭を悩ませる事があった。

 単身ザラームの下へ赴いたエルキュールの事である。一応市民や騎士の動向のほかに、彼についての情報にも探りを入れていたが、そのことに関する情報は全く知ることができないでいた。

 確証はないが、エルキュールの居場所も結界により隔離された中央区にあるのかもしれない。

「クソ、やっぱり中央区が鍵か……」

「そうっすね、しかし二班から報告があったのはしばらく前の事。今なら状況が変わって――って、んん?」

 怨恨の籠った声色でぼやくグレンに相槌を打つティックだったが、何かに気づいたように空を見上げた。

「グレンさん、あそこを。あの一帯を覆っていた結界が弱まってるみたいっす」

「あ……?」

 ティックに示された中空を見れば、そこにある黒の結界の光が薄れているのが辛うじて分かった。
 それから間もなく、その結界を構成していた闇の魔素が粒子状になり、泡沫のように消滅した。

「――思った通り消えたっすね。渡りに船っす」

「ああ、これで道が開けたみてえだ……つーか、お前よく分かったな?」

「はい、魔素感覚は良いほうっすから」

 人懐っこい笑みを浮かべティックが答える。

 なるほど、ヌール広場にいたあの三人の騎士の中で、最も高位の魔法を放出していたティックであったが、予想以上に魔素に関する才があるらしい。

 魔法が苦手なグレンと相性がいいということでティックを同行させたが、その判断が意外なくらい功を奏した。

「――グレンさん!」

 障害が消え、これより中央区へ向かおうと考えた矢先、丁度その方から騎士が走ってきた。

「グレンさん、結界が――!」

「ああ、分かってるぜ。――よし、お前らオレの後に続け!」

 わざわざ結界の件を伝えに参じた騎士に頷き、グレンは後ろに控えていた騎士たちに声をかけ、中央区への移動を開始した。

◇◆◇

 中央区はヌールの街の中でも一際入り組んだ地形が特徴の区域である。

 この街を訪れてからまだ一週間であるグレンにとって、この複雑な地形を一人で探索するのは骨が折れたことだろう。

「なあ、ティック。住人が避難しているとしたらヌール伯邸が一番可能性が高いって話だったな?」

「はい、あそこはこの辺りで最も頑強な造りをしてるっすから。――っと、この道は左っすね」

 ティックの先導に続くグレン。やはり彼を連れてきて正解であった。

 ――騎士を引き連れて中央区へと到着したグレンは、すぐに騎士を散開させ手分けして捜索をするように命じた。

 というのも彼の結界が消失したのと同時に、街を蔓延っていた魔獣のほぼ全てが姿を消したという報告を受けたからだった。

 詳しい原因は知らないが、その報告を受けた騎士曰く何らかの魔法によるものだという話だ。

 ともかく魔獣の脅威が薄まった今、戦力を集中させるよりも機動力を確保したほうが断然いい。
 魔獣のほかにも、火事や家屋の倒壊などによる危険に晒されている住民も数多くいるはずだからだ。

 そのような判断の下、グレンはティックの案内を頼りにヌール伯邸を目指していた。
 未だ中央区で市民と遭遇することはなかったが、そこに避難している可能性は大いにある。

「見えてきたっすね……って、あの破壊痕は……?」

「ああ、確かにひでえが……それよりもこの感覚は……」

 角を曲がり、ようやく目当ての場所の手前に差し掛かったのだが、二人の表情は芳しくない。

 ヌール伯邸は健在だった。その豪奢な風貌はこの非常事態においても変わることはなく、これまで目の当たりにした惨憺たる様と比べると傲然とすら思える。

 そのような感想を抱かせるのも、その横にある家屋が酷く損傷し道の脇の塀が崩れているせいもあるだろうが。

 しかし、そんな光景はもはや見慣れたもの。この場における異常とは物理的なものではなかった。

「そうっすね、この魔素の残滓は……どうやら、何か強力な魔法が使われたみたいっすね」

 グレンの呟きにティックも同意する。騎士を率いて街を奔走していたグレンだったが、これほどまでに魔素が濃い地域はなかった。

「間違いねえな。魔素感覚が鈍いオレですら感じるほどのモンだ。それに、この身の毛がよだつ感じ……魔物が放つ魔素に似ていないか?」

「――! グレンさん、それはまさか」

 グレンが投げかけた問いに、ティックは目を丸くする。やはり、彼の魔法の才は相当なものであるようで、グレンの意図にいち早く気づいた。

「魔獣が魔法を使うことはほとんどねえ。そして、この気味悪い魔素が本当に魔物が原因なら、これはひょっとすると」

「――魔人、っすね」

 二人を目を見合わせ表情を硬くする。人型の魔物である魔人は、知能の面でリーベの人間と似ており、魔獣と違って魔法を操ることができるのが特徴である。

 この禍々しい魔素は恐らく魔人によるものである。先ほどのように強力な結界は魔獣には放出できないだろう。

 魔人がこの街にいるという事実は、グレンの警戒をより強固にさせた。

「アマルティアに魔人が紛れていたのか、それとも住民が汚染されちまったのか……クソ、この状況じゃあ分からねえ以上、考えるのはやめだ」

「――とりあえず、各地の騎士に魔人の存在に注意するよう連絡したっす。まあ、魔獣がいなくなったとはいえ、念を入れておくに越したことはないっすからね」

「助かるぜ、お前は騎士にしては中々柔軟だな」

 魔人の痕跡を前にし、自らの判断で連絡を行ったティックに礼をいうグレン。厳格な上官であれば、彼の判断を咎めたかもしれない。

 しかし、グレンはそうはしなかった。というのも、その行き過ぎた頑固さがグレンが騎士を嫌う最大の理由であったからだ。

「けど、ここに来るまで魔人には出くわさなかったし、騎士からのそれらしき報告もねえ……何か妙なんだよな」

 痕跡こそあるものの、その実体は確認できない。一抹の不安がグレンの心に芽生えるが、そこに拘泥している場合ではない。

「って、考えるのはやめだって言っただろうが。ティック、ヌール伯邸に急ぐぞ。――警戒を怠るなよ」

「了解っす」

 短く言葉を交わし、二人はヌール伯邸の門をくぐり玄関の前に立ち寄る。

 そして、平均的な住居よりもいくらか大きい扉に手をかけ、戸を引いて中に入り込んだ。

 警戒を保ち、ヌール伯邸へと足を踏み入れたグレンとティック。

 その内部は照明が落とされており薄暗い。このままでは探索の効率が悪い。そのことを速やかに察知したティックは、素早く光魔法を放出した。

「――照らせ、ライト。よし、これで明るくなったっすね……といっても、流石に魔法を使いすぎたのかいつもより光が弱いっすけどね」

 ティックの手元に集まった光の魔素が玄関を仄かに照らした。

 しかし、彼の言う通り球体の光量は平均よりも低い。北ヌール平原の遺跡にて、エルキュールが放出したライトはこれよりも輝きが強かった。

「確かに、魔獣との戦闘もあったからなあ……」

 住民を助ける一環として、グレンたちは魔獣との戦闘もこなしてきた。そろそろティックの集中力も切れ始めているのかもしれない。

 彼のそんな様子を目の当たりにして、ふとグレンの脳裏にあることが浮かんだ。

 ヌール広場で別れて行動しているエルキュールのことである。

 彼もこの街に至るまでに相当な数の魔法を使っていたはずだ。無茶はするなとは言ったものの、やはり少し心配であった。

「まあ、あいつならうまくやるか……」

 逸れた思考を意識の外に押しやる。
 未だ玄関に突っ立っていたグレンは、ようやく内部の捜索を開始しようとしたが、突如として奥の方で扉が開く音が聞こえたことによってその動きは遮られた。

「き、君たちは……!?」

 その扉の音に二人が反応したのと同時に、何者かの声が発せられた。
 声の主は男性のようだが、ライトで照らされているとはいえ薄暗い室内では声の主の相貌を確認することはできなかった。

 得体の知れない人物の登場に身を固くするグレンとは対照に、その声を聞いたティックは安堵したように相好を崩した。

「その声は……隊長っすね!?」

 それから歓声を上げると、ティックはその人物の下に駆け寄った。

「おお、ティックか!? 無事であったか!」

 隊長、と呼ばれた男はティックの姿を認めると、豪快な笑みを以て彼に応対する。 その様子から隊長の男が味方であると判じたグレンは、ティックに続いて彼に近づいた。

「――と、そちらの赤髪の彼は?」

 自分に近づいてきたもう一人の影に、男は怪訝そうな表情を浮かべた。
 彼にしてみれば、見ず知らずの人間が自分の部下と行動を共にしているという奇妙な状況である。その当然の反応を前に、グレンは手短にこれまでの経緯を説明するのだった。

「なるほど、貴方があの紅炎騎士の家系に連なる者でしたとは……お目にかかれて光栄ですな」

 柔和に笑う顔には所々に皺が刻まれており、この街で出会った騎士の誰よりも年を召しているように思えた。年の項は四十半ばであると考えられるが、その精力は十分に漲っており熟練な騎士と呼ぶに相応しい程であった。

「某はニコラス・バーンズ――このヌールに宛がわれた騎士を束ねる騎士隊長であります」

「ああ、よろしく頼む。……まあ、オレはそこまで大した存在じゃあねえから、気軽に接してくれ」

 本日二度目となるそのやり取りに、グレンは億劫そうに答える。こんなように人に敬われるほど、グレンは自分のことを大層な人物だとは考えていなかった。そして、グレンのその態度は己の家に対しても一貫していた。

 ――家も、騎士も、自分自身も、その賞賛に見合うほど優れたものだろうか。

 逸れた思考を切り替えるべく、大きく咳払いをしたグレンはニコラスに質問を投げかける。

「それより、ここにいるのはあんただけなのか? ……というより、騎士であるあんたが何でこんなところにいるんだ?」

 騎士隊長ともあろうものが、外で指揮も執らずにこの薄暗い邸宅にいるというのは、おかしな話だった。

「そうっすよ! 魔獣が攻めてきたというのに、隊長とは連絡が取れなくて……今まで一体何を……」

 グレンの指摘に便乗してティックも不満げに声を上げた。二人の指摘にニコラスは申し訳なそうに眉を下げると、彼が出てきた奥の方の扉を示した。

「それについては済まなかった。事情を説明する故、奥の部屋に来てくれぬか?」

 奥に何があるのか。目を見合わせたグレンとティックは、その誘いを断るわけもなくニコラスの後に続いた。

 ニコラスに導かれて来たのは極めて広大な部屋であった。

 部屋の真ん中には、横長のテーブルと椅子が連なりその上に燭台が一定の間隔で並んでいる。
 また、天井には巨大な照明器具が吊り下げられているのだが、そのいずれも明かりを灯してはいなかった。

 それ故、部屋の様子の全貌を詳しく知ることができなかったが、その調度品の配置からして食堂であることは間違いなかった。

 グレンが部屋を見回している内に、ニコラスは部屋の隅の方に移動し壁に備え付けられたスイッチを押した。

 それと連動し、天井の照明に光が灯される。流石上流階級の邸宅と言うべきか、魔動機械の照明を有しているらしい。

 現代の魔法学の粋によって照らされた室内を改めて見てみると、部屋の奥の方に結構な数の人がいることが確認できた。

 各人は老若男女の隔たりなく、互いを慰めるように寄り添い塊を形成している。恐らくはここに避難してきた住人たちだろう。
 数は結構な数がいて、グレンたちが探しても中央区に人が見当たらなかったのも頷ける。

 この分なら、グレンたちの目的は半分は達成できたといっても過言ではないだろう。グレンが住民の集団を眺めていると――

「騎士隊長さん! 明かりをつけても大丈夫なんですか? 外はもう安全だということですか!?」

 その中の一人、とある青年がニコラスの方に詰め寄ってきた。その声色、その表情、その身に纏うボロボロな服装が、彼の経験したであろうことの痛切さを物語っている。
 痛々しいほど彼の様子に、ニコラスは宥めるような口調でゆっくりと言葉を連ねる。
「ええ、峠は越したように思えますな。少なくとも、ここの明かりを点けたところで魔獣が寄ってくる恐れは消えたと言えましょう」

 ニコラスの言葉に男だけでなく、後方で耳をそばだてていた住民の顔にも喜色が広がる。

 弛緩した雰囲気が場に醸し出されるが、ニコラスは表情を固くしたままこう続けた。
「ですが、未だ油断はできませんな。外に出るにはもうしばらくお待ちください、こちらの方々と今後の方針等を話し合いますゆえ。……状況は良くなってることに違いないので、心配なさらず」

 ニコラスの言葉に男は気を楽にし、それから礼を言って後ろの住民の輪に戻っていった。

 男を見送ったところで、グレンはニコラスの方に視線を戻した。

「あいつらはあんたがここまで連れてきたのか」

「その通りです、グレン卿。――ささ、どうぞこちらにおかけを。某の話をお聞かせしましょう。ほれ、ティックもここに」

 グレンの言葉に大仰に頷き、傍にあった椅子に腰かけるように促すニコラス。先ほど畏まらなくていいと言ったはずだが、彼の態度は依然として変わらない。

 柔和な雰囲気を持つニコラスだが、案外頑固な一面もあるようだ。グレンは諦めたように顔を振り、彼に示された席に腰を下ろした。

「今の外の状況についてはさっきオレが話した通りだが……あんたは今の今まで何をしていたんだ? ティックが言うには連絡が付かなかったみてえだが……」

 座席についたグレンはテーブルに肘をつき、向かい側に腰かけるニコラスに切れ長の目を向けて尋ねる。

「はい、順を追って説明いたしましょう。あれは昨日の事です、ここヌール伯邸においてマクダウェル家のご子息様とヌール伯が会合をなさったのですが――」

 行儀よく背筋を伸ばして座るニコラスは、記憶を探るように上空を見据え緩やかに語りだした。

「某も護衛のために同席をしたのですが、ヌール伯のご厚意で紅茶をご馳走になりまして――と、そこまでは良かったのですが、紅茶が運ばれてくる際にメイドの方が少しドジを踏んでしまいましてな、某の方にもかかってしまったのですよ」

 昨日のヌール伯とマクダウェル家との会合の件は、グレンも噂に聞いていた。この時期に会合とは珍しいと思っていたので記憶に残っていたのだ。

「ヌール伯のメイドにしては珍しいっすね……。まあ、とにかくその時に魔動通信機に何かあったということっすか?」

 ニコラスの隣の席に座っていたティックが、彼の発言の真意を汲み取る。

「ああ、そうなんだ。通信機に不備があることは会合の後に気づいたのだが、生憎と替えのものが無くてね。とはいえ、休日である明日にでも暇を見つけて修理に出せばいいと思い、当時はそこまで深刻に考えていなかったのだ」

 一つ息を入れたニコラスは、「まあ、それこそがこの体たらくに繋がってしまったのだが」と、自嘲的に続けた。

「――連絡が取れなかったのは分かった。それで、今日の話だが……連絡が取れないなりにも、あんたはこの辺りで独自で救助活動をしていた、そういうことか?」

 「騎士たるもの常に魔獣の警戒はすべし」とはいうが、この街においてはその脅威も薄まっていたのも事実。ひとまず連絡を取れなかった原因について納得したグレンは話を進める。

「ええ。襲撃の際、まずは人の多く集まるこの中央区を守るのが先決だと考え、急いで駆けつけたのです。……しかし」

「しかし?」

 それまで落ち着いていたニコラスの態度が、ここに来て崩れる。額に滲んだ脂汗を胸元から取り出したハンカチで拭い、ニコラスは深呼吸をする。

「某の力不足が招いたことではありますが、救えない方々もおりました。ここにいるのは全体からすればほんのわずかな住民たちであります」

「隊長、それは――」

「……うむ、途中で魔人と化したものと遭遇してな……連れていた住民たちの安全を確保するには、泣く泣く殺めるほかなかった」

 自らの手を見つめながら悲嘆の声を漏らすニコラス。

 彼は自身を責めるように首を垂れるが、魔獣と同様に魔人も汚染能力を持つといわれている。被害の拡大を防ぐためにはそうするしかなかったのだろう。

 自身の守るべきだったものを自身の手で殺すというのは、騎士にとっては耐えがたいものだろう。話を聞いていたグレンもティックも、思わず拳を握る。

「――あんたはただ守るべきものを守ろうとした。街が滅茶苦茶になっても、自分のしていることに不安を覚えても、そのために自分の感情を律して為すべきことを為したんだ。十分過ぎるくらい立派だったと思うぜ、力不足なんかじゃねえよ……!」

「グレン卿……かたじけない」

 気づけばグレンはその場に立ち上がっていた。そうでもしないと、この街を破壊したあのザラームとかいう男に対する義憤を襲え切れなかったのだ。

 彼のその情熱に、ニコラスはその禿頭を深々と下げた。

「……って、悪いな、話の腰を折って。クソ、ガキの頃じゃあるまいし」

 少し熱が入りすぎたようだ。こんな熱血漢の性格は過去においてきたはずだったが、元来の気質はそう易々とは変えられないようだ。

 今は一刻も早く情報を共有しなければならないというのに。グレンはばつが悪そうに頬を掻いて着席した。

「住民を守りながら、某は辛くもこのヌール伯邸に辿り着いたのです。ここの安全を確保したところで、再度外へ探索しようとも思ったのですが――」

「結界、か」

「はい。丁度そのタイミングで謎の結界が貼られ、また奇妙な爆発音のようなものも聞こえましてな。住民の方々が酷く怯えてしまいまして、ここを離れるのはよくないと判断したのです」

 そう言うことならこの現状にも納得だ。話は終わりだと言わんばかりに、グレンは再度立ち上がった。

 その後の出来事ならグレンもよく知っている。とりあえず、これでニコラスと中央区の事情は概ね把握できたといえるだろう。

「話してくれて助かった、そろそろ他の騎士も捜索も終わった頃だろ。……っと、そうだ、もう一つ。人を探しているんだ、全身を黒い服に包んだグレーの髪の男なんだが……知らねえか?」

 立ち上がったグレンは思い出したように尋ねたが、ニコラスはその首を横に振るばかりで良き返答は得られなかった。
 グレンは溜息を漏らしそれ以上追及することはよそうとしたが、それでもなおニコラスは肘を顎において思案を巡らせていた。

「何か気になることがあるのか?」

「ええ。すみません、その方の行方は存じ上げませんが、行方不明といえば、少しおかしな点があったことを思い出しまして……」

「おかしいって、どこがっすか?」

「ヌール伯の姿が確認できないのだ。某が来た時、ここは既に無人で照明も落とされていた。てっきりご自分で避難されたか、騎士の誰かが傍について避難させたものだと思っていたのですが……それにしては内部が妙に整頓されていて、今日の昼時までに限った話だが、彼がこの街を発ったという記録もなかったことを思い出しまして」

「それって結構まずいんじゃないっすか!?」

 ニコラスの追加情報に、ティックは悲鳴にも近い声を上げた。確かに、街の統治者であるヌール伯が行方不明というのは非常事態であろう。
 グレンが聞く限り、騎士の中で彼を保護したという情報はない。それならば、ヌール伯はどこに行ったのだろうか。

「すぐに他の騎士にもこのことを知らせるぞ!街の捜索だけじゃなく、外出記録も改めて確認する必要があるな……」

 街と市民の問題はある程度は片付いたことで緩みかけた顔が一瞬にして強張る。ここに来て浮上してきた新たな問題に、グレンは頭を回転させて策を練る。

 その間通信機を片手に連絡をとっていたティックが、一段落したのかグレンの方に向き直った。

「グレンさん、アルトニーとニースからの応援が到着したみたいです。中央区の方も建物の損傷は激しいようですが、住民の何人かは保護できたとのことです」

「ああ、分かった。とりあえず街の外側の方は問題なさそうだな。中央区にいる騎士にここまで来るように伝えてくれるか? いつまでもここにはいられねえ。街の外に避難させるんだ」

「了解っす!」

「オレたちはヌール伯の行方も含めて住民たちの生存の確認をするぞ、それでいいかニコラスさん?」

「承知しました……!」

 冷静に素早く方針を共有したグレンは騎士の到着を待っていたが、その顔色は優れない。

 ヌール伯の行方が知れないというニコラスの言葉が頭から離れないのだ。今の今までヌール伯の存在が頭から抜け落ちていたが、彼の存在を考えると今の状況が不可解に思えて仕方がなかった。

 このオルレーヌでは、統治者に任ぜられた貴族はその地域において大きな権力を持つ。
 それこそ、グレンが今こうして行っている騎士の組織や住民の保護は、統治者に課された重任であるはずだった。

 だが実際にはその責務は果たされていない。

 考えられるのは三つ。一つはヌールにはいるがその責務を全うする余裕がないという可能性。
 しかし、これほど長い間騎士からの目撃情報がないのは少し不自然だ。

 もう一つは、そもそも襲撃当時に既にこの街の外にいたという可能性だが、その場合これまで連絡がないのはおかしい。このヌールの惨状は、隣町はおろか王都にまで知られているだろう。

 そして、三つめは――

「ちっ、悪いように考えても仕方ねえだろ……」

 大きく舌打ちをし、おぞましい考えを思考の外に追いやる。

 今は一人でも多くの住民が安全にこの夜を明かせることを祈ろう――グレンは心を落ち着かせるようにそっと瞳を閉じた。

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