「黒き魔人のサルバシオン」2
「はあっ!」
鋭い掛け声とともに、エルキュールはハルバードを横に薙ぎ払う。
振るわれた刃は目前の獣型イブリス――魔獣に命中し、不快な音を奏でながら敵を吹き飛ばす。
この辺り一帯に広く生息する狼型は、ヴェルトモンドでも一般的な魔物の種であった。
リーベの狼よりも一回り大きい体躯。
禍々しい紫色の毛並みは逆立ち、犬歯は肥大化して赤く変色している。
全身を以て醜悪の二文字を惜しみなく表現した様子は、まさに魔獣と呼ばれて忌み嫌われるも納得の姿形であった。
その上で。彼奴らを魔獣たらしめる最大の要素は、これとは別のところに存在していた。
手足の先、身体の一部分。所々がリーベとは異なり、完全に物質化していない魔素の集合体で形成されており、赤黒い光が怪しく揺らめいている。
爛々と赤い輝きを放つ魔素質、胸元にある宝石のような塊は顕著だった。
エルキュールの胸元にあるそれと同じ、コアと呼ばれる魔素器官。
魔素質の中でも極めて高純度のもので形成された核のような存在である。
「グ、グ……グルルルル……」
傷つけられた狼魔獣が低く唸った。
だが傷つけられた怒りとは裏腹に、エルキュールの与えた傷はまるで何事もなかったかのように回復していく。
魔物に備わった驚異的な回復力は、大抵の損傷ならば回復させてしまう。
リーベのように安定した物質だけの肉体ではない、魔素質を多分に含んだ身体を持っているからこそ為せる芸当であった。
「……うん、やはり昨日よりも強くなっているな」
確信のこもる呟き。
ここ数年にわたって魔獣の力はみるみる力を増していることも、その数が以前とは比べ物にならないほど増加していることも。
エルキュールも話には聞いていたが、目の前の狼型はそれを何よりも裏付けするものだった。
そのうえ殺しても殺しても、湯水のように次の魔獣が湧いてくる。ここから見える景色も疾うに慣れてしまうほど。
何者かが魔獣の動きを裏から操っているのではないか。そんな不自然さを感じさせる。
「――っ!?」
ふいに背中に感じた殺気、エルキュールは思考をスキップして素早く横に飛んだ。
視界の端で元々いた場所を捉えると、二体の狼型が襲いかかっていた。
咄嗟に躱さなければどうなっていたか。
「考え事をしている場合ではなかったな」
気を取り直し、片手でハルバードを構える。
「この後には大事な用が控えている――悪いが消えてもらうぞ」
「グゥゥゥ……ガァァァァ!!」
挑発を理解するだけの知性が魔獣にあるかは議論の余地があるが、ともかく彼らは一斉にエルキュールの方へ飛びかかってきた。
エルキュールは半ば予測していたその猛攻を、後ろに跳んで回避する。
「――ダークレイピア」
攻撃を空振り隙を曝す魔獣に、エルキュールは外気に含まれる黒き魔素を使役すると闇の攻撃魔法を素早く詠唱した。
光を発する黒色の粒子が空中に集まり、やがて三つの細長い剣のような形を形成した。
黒の細剣が術者の期待に応え、空中を駆ける。
「ギャ――」
剣はそれぞれの魔獣のコアに寸分の狂いもなく突き刺さり、そのまま魔獣の体を貫通した。
魔獣たちは飛びかかった際の姿勢を保ったまま一瞬静止し、力なく悲鳴を上げる。
貫かれた体はやがて重力に導かれ地にたたきつけられる。
魔獣の首元にあったコアが、エルキュールの魔法の威力によって石が砕け散るように割れ、やがて消滅した。
コアの消失により回復能力を失った魔獣は、二度と起き上がることはなかった。
この三体を含め、討伐したのはこれで十体目。
これくらい狩れば、今日のところは魔獣が街に入ってくる心配もない。
後の事は街に駐留している王国騎士団に任せれば、全て勝手に収まるだろう。
ヌールに隠れ住んでいるエルキュールの、街に対するせめてもの貢献。
二年もの間、ここで魔獣を狩り続けた最大の理由だった。
「……違うか。貢献なんかじゃない。これは、単なる欺瞞だ」
朝焼けに涼風が靡く草原の中、エルキュールの存在だけが黒く際立っている。
欺瞞、今のエルキュールの生活をこれほど的確に表す言葉もない。
眠りを知らないエルキュールは、夜が更けた街を照らす月を、いつも取り残されたような心地で自室の窓から眺めていた。
ヒトに近づこうと、自分と家族が住むこの街を守ろうと、殺戮に手を染めてきたが。同種である魔獣を殺すことにはやはり躊躇いがあった。
そうすることでリーベの世界の住人だと自らを騙すことに、疑問を覚えない日はなかった。
しかし。
「今日は……今日だけは、せめて明るい気持ちで過ごしてみよう」
空を見上げれば、狩りを始めたときよりも高くなった日がエルキュールを照らしている。
約束の朝食時が近づいていた。
エルキュールは踵を返してヌールの街へと歩き出す。
その背に射す温かな光に、燻ぶる苦心が浄化されるような錯覚を覚えながら。
◇◆◇
王国内では比較的自然が多いヌールの街中をエルキュールは足早に歩く。
いつもなら魔獣を狩る以外に予定もないので、図書館で魔法書や学術書を読み漁ったり武器の手入れをしたり、なるべく目立たないように過ごしていたが。
「習慣に身を任せて道を違えないようにしないと」
エルキュールの住む家は街の外れに建てられており、こことは正反対に位置している。
朝食まで時間はあるものの、余裕をもって行動するに越したことはない。
それにもし油断して時間に遅れることがあれば、少し面倒なことになるとエルキュールは感じていた。
母であるリゼットはいざ知らず、妹のアヤは遅れたことでひょっとしたら機嫌が悪くなってしまうかもしれない。
幼い頃のアヤは素直な性格であり、人情に疎いエルキュールからしても彼女のことはなんとなく理解できていた。
ところが年月が過ぎて成長するにつれ、アヤの心情を理解することが次第に難しくなっていった。
「もう十六だったか……」
その頃のヒトは、思春期と呼ばれる色々と難しい時期だと、書籍である程度は学んでいた。けれども最近はどうにも上手くいかない。
「……女性の心情の機微はやはり難しいが、これ以上溝を深めることはしたくないな」
たとえそれを除いたとしても、時間に遅れるのは一般常識的にあまり良くない。
「今度、年頃の女性が好みそうなプレゼントについて調べてみよう」と思考を締めくくり、エルキュールは先を急ごうとした。
「ん……?」
その歩みはすぐに中断させられた。
道を行きヌール広場に近づくにつれて、いつもに比べてやけに人の往来が多いことに気付いたのだ。
日ごろ周囲の目には注意を払っている彼は、周囲の目にとても敏感であった。
落ち着いて気配を消し、観察する。
人々はどうやらエルキュールが向かっているのと同じ方角、即ちヌール広場方面に流れているようだった。
「もしかして、魔動鏡に何か映し出されているのか……?」
そうだとすると、エルキュールとて様子を見に行かざるを得ない。
人々の流れに身を紛れさせ広場にたどり着く。そこには予想通りの光景が広がっていた。
三叉路に面した空間にあるヌール広場は、周縁が花壇や小さな木々によって彩られている。
中に備え付けられた木製の長椅子は、広場の中心を囲むように整然と並び
人々が次から次へと腰をおろしていた。
そしてその諸々よりもさらに内。
中心部にはエルキュールの部屋にある姿見など比にならないくらいの、巨大な鏡が圧倒的な存在感を伴い鎮座している。
青みがかかった鏡面と魔法術式が刻まれた紫紺の枠。ヌール広場の最大の特徴でもある魔動鏡だ。
オルレーヌ国内の広場にはほとんど魔動鏡は存在するが、ここまで大きさは少々珍しい。
「ふわあぁ……こんな時間に何が映るってんだぁ? まだ朝の報道の時間には早いはずだろ?」
「さあ? 緊急の知らせかもしれんな」
中年の男二人組が、そんな会話を繰り広げながらエルキュールのそばを通り過ぎる。男たちはそのまま空いている椅子に座った。
魔動鏡は文字通り魔法による動く鏡であり、市民に対しその日の出来事などの情報を伝える機能を持つ。
音と映像を伝達する魔動機械の一種で、光の上級魔法・ビジョンが付与されているためとても貴重である。
故に公共施設などの限られた場所にしかないが、それでも極めて便利な代物には違いない。
「……少しだけ確認してみるか」
先ほどの男も言っていた通り、定時ではないこの時間に映像が映されるのは稀なことだった。
空いている後方の椅子に座り、鏡面に視線を向ける。
すると鏡面は光りだし、次第に渦のような模様が現れる。ビジョンが発動する前兆だ。
「――六霊暦一七〇八年、セレの月、三日。オルレーヌ放送が最新の魔獣情報をお伝えします。本日未明、ヌール方面とガレア方面において魔獣が大量発生したとの情報がありました。当該地域にお住まいの方は十分に警戒を……」
報道員が原稿を読む姿が魔動鏡を通じて映される。
緊急の魔獣情報のようだ。
先ほども一端に触れたが、魔法による防壁と騎士によって守られた街を少しでも離れれば、そこは魔物が跋扈する危険な地だ。
最近では一般人の移動に制限が設けられ、特別な魔除けが施された馬車や護衛の者がない限り、自由に街の外へ出ることは認められない。
魔獣は数が増えすぎると、獲物を求めて凶暴さが増し、防壁を突破して街に侵入することもある。
故に魔獣情報は、今日のヴェルトモンドに暮らす人間にとって不可欠の情報であった。
だが。
「なーんだ、魔獣のお知らせだったみたいね。大したことなかったじゃん」
「ホントになー……ったく、朝っぱらから広場に来たのによー」
エルキュールから数人分離れた席から、若い男女二人組の会話が聞こえてくる。
その声はいかにも拍子抜けした、という感情を雄弁に語っていた。
「魔獣に警戒って言ってもさ、最近なら街にまで来ることもないし……」
「騎士サマと防壁が守ってくれてるもんなぁ、俺達には縁のない話だぜ……つーか、この前王都では魔人が出たんだろ? そっちの方がヤバくね?」
青年が立ちあがり、女性を連れて広場を去っていく。
エルキュールはその様子をちらりと見た後、魔動鏡に向き直った。
この間も映像はまだ続いていた。
「王都ミクシリアの騎士団本部や、対魔物専門機関・デュランダルによれば、前回の王都の件に引き続き、この件もイブリス至上主義団体・アマルティアが関連している可能性が高いとのことです」
アマルティア。
その単語を耳にしたエルキュールの、全身の魔素質が疼く。
その団体の存在が確認されたのは、いまから約十年前のこと。
魔物の活性化と時期を同じくして現れた、イブリス至上主義を謳う団体である。
名前の他はほとんど素性は知られていないが、辛うじて判明しているのは、強力な魔人で構成され、魔獣を操る力をもったリーベ全体を脅かす敵であるということ。
今朝、魔獣と戦闘していたときにも、エルキュールの意識にはその存在がちらついていた。
かつて住んでいた土地を追われ、家族ともども放浪し、このヌールに移住するまでの間。
魔獣を操るというアマルティアに関する噂は、エルキュールを頻りに不安にさせた。
もし昨今の魔獣の増加にアマルティアが関与していたら。
自分と同じ存在がこの世界に害をなしているとしたら。
そう思うたびに、エルキュールはいつもある種の罪悪感を覚えた。
「……だが先ほど戦った魔獣、それ自体には特に不審なことはなかった」
湧きたつ負の感情から逃れようと、エルキュールはあのときに問題が起こっていなかったかを確かめる。
しかし思い返してみても、アマルティアの介入の形跡に思い当たる節はなかった。
そもそもアマルティアに関しての知識は、ここの住民のものに少し毛が生えた程度にしか持ち合わせていなかった。
だからここでいくら頭を回転させたとしても答えが見つかることはないのだが。
「あの名前を聞いて、じっとしてはいられない」
不安要素はなるべく排除しておきたい。朝食を済ませたら改めて調査してみようと思い、エルキュールは腰を上げた。
思考の旅を終えてあたりを見渡せば、あれほどいた人々はほとんど散り散りに去っていた。
あの若い男女のように、魔動鏡の魔獣情報には早々に興味をなくしたようだった。
今この世界が危機に瀕していること。
それはあくまでも騎士や報道でもあったデュランダルが対処すればよいだけのことで、一般の市民にはあまり馴染みのないことだとでもいうのだろうか。
街の外に出ない、もしくは魔獣の脅威を直に知らない者からすれば、この平和は当たり前のように存在しているものに見えるのだろうか。
しかし実際、この街の平穏は何も自然にもたらされているわけではない。
その実現には騎士の活躍や、エルキュールの力も僅かながらに関わっている。
今は安定しているが、それが後にも続くと限らないのだ。
怯えずに毎日暮らせているなら何よりであるが、もう少し魔獣情報に対して気を配ったほうがいいのではと、魔人である立場ながら思ってしまう。
「全く、なんて呑気な――」
「やれやれ、随分と呑気な連中だな」
エルキュールが人々のそんな様子を見て柄にもなく呆れていると。
後ろから軽い声が発せられた。
偶然とは思えないその言葉に思わず振り返ってしまう。
他人との関りを極限まで減らしているエルキュールは、その自身の甘さを呪ったが、遅い。
一人の青年がエルキュールの目をしかと見据えて笑っていた。
◆
振り返ったところに、人影。
驚愕を仕舞いこんで、落ち着いて観察する。
背はエルキュールよりもやや高いほど。こげ茶の軽装の上からもはっきりと分かる筋肉は、鍛え抜かれた逞しさを遺憾なく主張している。
視線を上へ。燃えるような赤髪は無造作な伸びていて、火花が散っているかのように見えた。
日に焼けた肌も、彫りの深い顔も、オルレーヌでは珍しい。親しみやすさを感じる笑みを顔に貼り付けてはいるが、総合的に判断すると、途轍もなく怪しいものだった。
なおも注意深く視線を向けるエルキュールに、青年は肩をすくめた。
「そんなに見つめるなよ。……もしかして惚れたか?」
「失礼。そういった趣味は持っていない」
軽薄そうな、ではなく。正しく軽薄な青年だった。突拍子もないことを平気で口にしてしまうのだから。
ともかく、この青年は厄介な人物だ。不意を衝かれたこともあり、エルキュールは警戒を強めた。
「それで、俺に用があるのか?」
「ん、何のことだ? オレはただ『呑気な連中だな』と盛大に独り言を言っただけだぜ。用があるのはお前の方じゃあないのか?」
軽薄だけでなく、不誠実でもあるらしい。遠回しな物言いは眉を寄せる。
だが、確かによく考えてみれば一理あることかもしれない。
青年が心を読んで話しかけてきたなど、発想が飛躍しているのは否めない。エルキュールがたまたま同じような感想を抱いていただけと思った方が自然である。
ここは青年の失礼な態度には目を瞑ろう。そしてこの会話もなかったことに。
そう思い直したエルキュールは彼の切れ長の目を真っ直ぐに見据えた。
「いや、そうではないんだ。ただ自分も似たようなことを考えていたから、つい勘違いしてしまった。すまなかったな」
これでいい。そろそろ家族との予定の時間も近づいていることだ。エルキュールは当初の目的通りに家に帰ろうとしたが。
「……おーい」
会話打ち切って歩き始めるエルキュールに、今度は明確に、それもこれまでの態度とは打って変わった落ち込んだ声色で、青年が話しかけてきた。
「……? 今度はどうしたんだ」
「……おいおい、嘘だろ? まさか、オレが本当にお前に聞こえるくらいの声量で独り言を言ったと思っているのか? 明らかにお前の思考を読んだ、オレの洞察力が為せる粋な会話方法だっただろ!?」
自分で粋だというのも可笑しな話だが。やはり先の盛大な独り言とやらは、エルキュールに向けての発言だったらしい。
「というかよぉ、意味深にお前に向かって笑ってただろ……極上スマイルが炸裂してただろ……」
「はぁ……それならどうしてあんな嘘をついたんだ……」
エルキュールは呆れた目で青年を見つめた。家族でない人間と関わるのがここまで難しいとは。閉じこもりがちだった今までの習慣が、嫌な形で正当化されつつあった。
「お前が素直すぎるんだ。ちょっとした言葉遊びじゃないか。ダメだぜ、言葉をそのまま受け取るだけじゃあ。その裏にあるモノも読み取るのがデキる男ってやつだ。そうだろ?」
「どうして俺が窘められているのか分からないんだが……急いでいるんだ、手短に頼む」
「悪い悪い。つっても何から話せば……。まず始めに、オレはグレンっていうんだが、わけあって今はあてのない一人旅をしていてな……」
青年、グレンが真面目な顔を作ってぽつぽつと語り始める。
「つい先日、カヴォード帝国の方からから南下して来て、今はヌールに滞在しているんだが。その、なんだ、金が尽きちまって。一ガレもなくて宿代がもう払えそうにねぇんだよ」
悲嘆が滲み出る声色だった。
機能性に富んだ服装から旅人だとは思っていたが、よもや北の帝国からとは。
魔物の脅威が拡大する情勢もあって、今の二国は穏やかな関係を保っているものの、一人で難なく越境できるほど状況は甘くない。
エルキュール微かに警戒を解いた。
「なるほど。でも、お金は恵んでやることはできない」
事情は理解できる。しかし今日初めて出会った他人に、それも信用に欠ける人物に金銭を譲るのはよろしくない。
ほとんど家族以外との交流がないエルキュールでも、その程度の常識は持ち合わせていた。
「違えっつの! ガレを恵んでほしいってわけじゃない。ほら、さっきの報道でやってただろ? 魔獣が大量発生してるってな。そいつらを狩って、金目になりそうなものを頂戴しようと思ってるのさ」
頭を掻きながら訂正、グレン背中に背負っている大剣を指さした。魔獣との戦闘に心得があるらしい。
「お前にはそれを手伝ってほしいんだ。最近は魔獣も凶暴になってるからな……回復をしてくれるだけでも構わねぇ、一緒に来てくれないか? このままじゃあ居場所がなくなっちまう」
出会ったときの軽薄な態度はすっかり鳴りを潜め、グレンは殊勝な態度でエルキュールに頼み込む。相当切羽詰まっているのだろう、真に迫った物言いだった。
「居場所がなくなる、か」
グレンの言葉を反芻する。
その言葉は、エルキュールにとって間違いなく共感を誘う言葉だった。
リゼットやアヤのおかげもあり、魔人であるエルキュールは辛うじてこの世界で生活できている。
しかし、それでもなお、エルキュールの心にはある漠然とした寂寥は消えずにあった。
この世界に生きていると、自分の存在は場違いなものに感じられるのだ。どうしようもないほどに。
引き受けてもいい。一瞬考えるが、ここでグレンに同行することを引き受けては、エルキュールの正体に気付かれてしまうかもしれないかった。
少しでも気を抜けば、隠している痣やコアの魔素質の発光が戻ってしまうだろう。それにもしも魔人としての力を使ってしまえば、グレンを危険に曝すことにもなりかねない。
危険だ。断るべきだ。エルキュールはそう覚悟を胸にして。
「……分かった。ただし、前にも言ったが用事があるんだ。その後でいいなら構わない」
引き受けることを選んだ。
◇
グレンとは後で合流する約束をしてから別れ、エルキュールはようやく家へたどり着いた。
質素な木造の二階建ての家。たった三年の思い出しかないヌール。されど今のエルキュールにとってはここが唯一の帰る場所だった。
普段に比べると濃密な朝だったからか、若干懐かしさすら覚える。
「ただいま。少し遅れたか……?」
扉をくぐると、部屋に漂ういい香りと台所から聞こえてくる料理の音がエルキュールを迎えた。
「あ……! 兄さん、おかえりなさい! ちょうどご飯が出来上がったところよ」
パンがいっぱいの平皿を両手で持って、アヤが台所から顔を出した。料理の手伝いをしていたからかだろう、いつも下ろしている薄紫色の髪は後ろで一つに結われている。
魔動鏡の件やグレンの件で遅れたことを心配していたが、ちょうどいいタイミングだったようだ。
「おかえり、エル。もうすぐだから先に座っててもいいわよー」
台所の奥からリゼットの声がかけられる。
「配膳くらい俺も手伝うよ」
忙しなく動く二人に加わって、時期に食卓に料理が並ぶ。
今朝の朝食は少しばかり豪華に思えた。
焼きたての芳香を放つオルレーヌ麦のパン。きめの細かいオムレツに、ソーセージと色とりどりの野菜。料理に堪能で、家族の健康に気を遣っているリゼットらしい献立であった。
エルキュールはリゼットとアヤに用意された二人前の食事を何気なく観察しながら、アヤ特製のハーブティーに口をつける。
リゼットが長く花屋を営んでいることもあって、アヤの植物に関する知識は相応なものだった。
「どう、美味しい? 今回のは自信作なのよ? ガレアで採れた良質なハーブを使ったんだから」
隣に腰かけたアヤが、髪先をいじりながらエルキュールに尋ねる。期待の籠った眼差し。答えは一つしかないだろう。
「うん、今日のは一段といい香りだ」
口に入れた液体をゆっくりと魔素に分解し、微笑みながら賛辞を贈る。
魔人であるエルキュールは消化器官を有していないが、食物に含まれる魔素をコアの活動に充てることで疑似的な食事は可能である。
最初はヒトを模倣するための行為であったし、味覚も曖昧であるが。アヤが淹れてくれたハーブティーはそれでもかなり気に入っていた。
「ふふ、よかった。 兄さんが喜んでくれると私も嬉しい……から」
「大袈裟だな、ただの食事だろう?」
そう言いながらも、嬉しそうなアヤの姿を見ると、エルキュールの心にも温かな感情が広がる。
「よかったわね、アヤ。最近はこんな風に過ごすこともなかったものね……」
「そうね、母さん。兄さんったら、この街に引っ越してきてから、前に比べて私たちのこと避けてたから……」
「……それは」
落としてしまわないようそっとカップを置き、目を逸らす。
早朝にもリゼットに似たようなことを言われたが、アヤもそのことを気にしていたようだ。
「兄さん? もしかして、まだあの事を気にしているの?」
「……当然だ。俺があんな事件を起こさなければ。力を無闇に使わなければ。アヤたちは故郷を追われることもなかった。安穏な暮らしができていたはずだ」
沸々と、忌まわしい記憶が蘇る。
アヤたちから故郷を奪い、魔物が地を放浪するのを強いた。他ならぬ、エルキュールの咎である。
「でも……! 私はそのおかげで救われたのに、兄さんは必要以上に自分を責めすぎなのよ……!」
妹が痛烈に訴えるも、エルキュールの表情は依然として晴れなかった。八年前積もった罪悪感は、言葉だけでは決して浄化できない。それが最も気を許した相手のものだとしても。
「……はいはい。二人とも、暗い話はそこまで! アヤ、エルを心配する気持ちは分かる。でも今こうしてここに座っているということは、少しは前進してると思うのよ」
暗い雰囲気を変えるように、リゼットはことさら明るく振る舞う。無理に作った笑みは、唇の端が細かく震えている。
優しく、不器用。そんな母の姿に、子供たちもひとまずは矛を収めた。
「……うん、母さんの言う通りね。兄さんもごめんなさい、せっかくの機会だったのに」
「……気に病まなくていい。俺もいい加減、断ち切らないとな」
同じ屋根のもとで暮らしているのに、中途半端に関りを避けるのはよくないだろう。
残りのハーブティーを勢いよく口に流し込んで、エルキュールは思考を切り替える。
それからはめいめい不安を掻き消すように、楽しい話に花を咲かせた。
「あ、そうだ。エル、私たちこの後は久々に隣町の市場にまで買い物に行こうと思ってるんだけど。せっかくの休日だし、あなたも付き合わない?」
暫く経った頃、リゼットが思い出したように手を叩いた。
ここまでの流れから、今ならエルキュールも乗ってくれるのではないかと思ったか。その表情は明るい。
「ん、ああ。それなら別に――」
構わない。エルキュールも二つ返事で了承しようとしたが、寸前に気づく。今日に限ってどういう訳か先約があることに。
「いや、今日はこの後に人と会う約束があったんだ。すまないが、今回は一緒に行けない」
せっかくの誘い、先ほどの気まずさを挽回する機会だというのに。
あるいは二人をがっかりさせてしまうだろうか。
エルキュールの胸に様々な葛藤が広がってゆく。
ちらとリゼットの方を見る。失望しては、ない。むしろ。
「まあ! ついにエルにも友達が!? もしかして女の子かしら!?」
かつてない盛り上がりを見せていた。「ああ……大精霊様、感謝いたします……」などと古の精霊への感謝すら示す感動ぶり。
「はあ……? そうではなくて、ただ――」
想定外の反応に戸惑いながら、今度はアヤの方に目を向ける。
「お、女の人!? そ、そっか、兄さんが……。あぁ、でもどうしよう、まだ心の準備が……うぅ……」
こちらもこちらで大仰な反応。「おめでとう、兄さん」ぎこちない笑顔で、無理に祝いの言葉を述べる始末だった。
「だから、そうではなくて――」
二人の反応に気が遠くなりそうだったが。エルキュールはどうにか事の顛末を話し始める。
結局、話は理解してもらったが、エルキュールにしては珍しい約束の件は、暫く家族からもてはやされることになった。
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