ブラック企業を支える白衣の天使

30代のはじめ、渋谷の道玄坂を登りきった雑居ビルの中にある小さなベンチャー企業に勤めていた。看護師の転職サポートの事業立ち上げをやるとのことで、入社した企業だ。業界の知識もなければ経験もない状態で、人手も足りなければ、あれもこれもやらなければと、とにかく毎日10数件の電話面談をやっていた。当時は今ほど、看護師転職サービスというものが存在せず、連日たくさんの問い合わせがWEB経由からあり、それに対して、片っ端から電話をかけて対応していた。

看護師の転職というのは、時期によって繁閑差が大きく、ある特定の時期に集中して転職する。最初は特に気にもとめていなかったのだが、その繁閑の差が一般企業の転職に比べても極端に偏っている事に気がついた。
転職時期がある時期に偏るのには、一般企業への転職とは別のちゃんとした理由があったのだ。それも看護師本人ではなく、法人側の都合で。

看護師の転職は一般企業への転職マーケットとは、事情が異なり、有資格者の転職なので資格の有無やその資格属性が厳しく見られる。逆に言えば、資格さえ持っていれば多少面接での印象が悪かろうが内定を出してしまうのが実情だ。
看護師の主な転職先の一つである病院の売上は、診療報酬制度に則って決まる。
病院ではサービスの対価を医療保険制度により診療報酬という形で受け取る。診療報酬は保険医療の範囲・内容を定める品目表としての性格を持つと同時に、個々の診療行為の価格を定める価格表としての性格も持っている。その中に看護配置基準と言われる、患者何人に対して何名の看護師を配置できるかというのが診療報酬の中でも特に大きなウェイトを占めていて、看護師を雇えば雇うほど病院の売上が上がるように設計されているのだ。
つまり、顧客が増えなくても、看護師をたくさん雇えば売上が増えるようになっているのだ。

「とにかく9月末までに次の職場を決めたいんです。」
電話越しに、真剣で、転職活動をとにかく急いでいる様子が伝わってきた。
希望の条件と今までの経験をヒアリングして、転職で何を最も重視するか確認をしたときに真っ先に言われたのが上の言葉だ。

なぜ彼女がそれほどまでに急いでいるのか最初はわからなかったが、状況を詳しく聞くうちにだんだんと状況がわかってきた。今勤めている病医院では退職は半年以上前に病院に伝えなければならず、その調査用紙の提出期限が9月末で、それを過ぎた場合の退職は一切認められないとのことだ。しかも、人によっては1年半以上も退職させてもらえず、悶々とした気持ちで勤め続けているスタッフや、退職願を受け付けてさえもらえなかったスタッフもいるそうだ。
民法第627条第1項をガン無視した驚きのスペシャルなローカルルールだ。

それほどまでに今の職場の働き方に不満があるのであれば、体調を崩す前にやめてしまえばいい。まあ迷惑がかからない程度に引き継ぎをしたらいつでも辞めてもいいし、民法上はなんの問題もないと伝えたのだが、なかなかわかってもらえない。いつでも辞めてもいいのになんで辞めないのかと聞くと、

「自分が辞めたら、後輩たちに迷惑がかかってしまうから辞められないんです。」

たしかにこのロジックは、一見正しそうに見える。スタッフに辞めてもらいたくない病院側としてはとても都合のいいロジックだが、働く看護師の側から真剣に言われると、うまく洗脳されているとしか言いようがない。
結果的にこの発想が、自分たちの首を締めているのだが、閉じた世界の中ではなかなか客観的に現状を把握することができなくなってしまう。

労働環境が劣悪で、環境を改善する意思が法人には一切なく、現場で一生懸命支えているスタッフの犠牲の上に成り立っている職場が少なくない。そんな法人はさっさと潰れてしまったほうが世の中のためになると思うのだが。まあ法人が潰れるまでいかなくても、一人ひとりのスタッフが声を上げたり、大量にスタッフが辞めたり、行動を起こすことで体制が変わるキッカケにつながると思うのだが。

結果的にブラックな企業を一生懸命支え続けているのは、その経営者だけではなく転職せずに嫌な気持ちで現場を支え続けているスタッフもブラック企業の存在を支え続けているのだ。

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