地理旅#12 「ニュージーランド編~多様性先進国への"越境"」(2023.9)
6年ぶり2度目のニュージーランドを訪れて、多様性について探究して、その一端に触れてきた。わずかな滞在で触れられることなんてほとんどないことを承知の上だが、生徒にも「多様性」について考察するよう求めている以上、できる限りの洞察を試みたい。
理想郷としてのニュージーランド
ニュージーランドは1930年代には福祉国家化を果たし、かつ国民所得も高水準で羨望の的となる理想的な社会を構築した。移民や難民にもフレンドリー、公共施設にはジェンダーフリートイレが各所で見られ、公的医療も初等中等教育も無償である。
学校教育では良いところを認め、「パーソナルベスト」を伸ばすように努めている。ニューロダイバーシティ(神経多様性)も浸透し、スーパーマーケットでは自閉の人向けに照明や音響を落とすQuiet Hourを設ける徹底ぶり。
生徒の大半は「日本と比べて圧倒的に」多様性が進んでいる国だという印象だったようだ。ニュージーランド人に幸せか?と問えば、きっとそう答える人は多いだろう。多民族国家であることを背景とするローコンテクスト文化圏では「こう生きなければならない」という圧力はない、とニュージーランド人は口を揃えて話していた。
ニュージーランドの翳り
他方、多様性溢れる国家・ニュージーランドはキラキラしているかと言われれば、よく言えば牧歌的で素朴な国である一方、刺激的な娯楽や日本のような過剰なサービスは存在せず、不便と言えば不便な部分も多い。
さらに、イギリスがヨーロッパとの結び付けた1970年代以降、ニュージーランド経済にも翳りが見えている。地理的には大国から離れていても、グローバリゼーションの影響は免れることはできない。
物価も上昇し、そして税率が上がっている。医療や教育の完全無償化も崩れつつある。ブルーカラーはアジア系移民が多く、街中では生徒相手にもホームレスが容赦なく「マニー」と叫んでいた。マオリに対するアファーマティブ・アクション(優遇政策)に対して反対する白人も根強い。
2019年にはクライストチャーチでモスクを狙ったテロ事件も勃発し、直近ではオークランドで行われた7月のサッカー女子ワールドカップ開幕試合でも銃乱射事件が起こった。
近年のデータによると、人口比による若年層の自殺者や家庭内暴力、ホームレスの割合はOECDの中でも高位にある。特にニュージーランドの子どもの「精神的幸福度」は最下位となっている(ちなみに日本の子どもは「身体的健康度ナンバー1、精神的幸福度ワースト2」)。
異質の他者を認める
勤務校では「異質の他者を認める」という教育目標が浸透している。それは、生産性が高まるとかイノベーションが促進されるとか、そういう次元のものではない。異質の他者、つまり多様性を認める、ということは多かれ少なかれ痛みをともに分かち合う覚悟が必要だ。
自分の利益だけを考える人間が増えれば、いずれ分断が生まれる。資本主義という少数派が勝利するゲームにおいて、民主主義という多数派が声を上げれば、ブーメランは返ってくる構造になっているのだ。とは言え、そうやって言葉で説明して体で納得できるもんじゃない、とも思う。
why you?を問われた際、多感な10代と接している教師としての私に出来ることはなんだろうか。
越境をデザインする
越境し、違和感を自分の中に組み込み、抱き続けること。多様性への寛容さは、自分の中に他者を抱くことによって生まれる(と同時に、特段日本のTeenagerには自分自身を奪われないようなアサーションとしての自己内省も必要だと感じている)。
常識という名の正義を振りかざすことは、他者が自らを主張する余白を奪うことに他ならない。かつての僕も(そして簡単に今も陥る脆さを抱いている)正論や正解に毒され、そして時に人を傷つけてきた。
「さいとう先生って何でそんなに学校の外で活動するんですかー?」としばしば質問をいただくが、私の回答は決まっている。「一定の場所だけにいることが気持ち悪くて耐えられないから」である。もはや生理的欲求である。
井の中にいることにも気付けないフィルターバブルによって分断された社会において、越境は積極的にアンラーンをデザインする方法だ。それは世界に突きつけられた課題であると同時に、ミクロな単位としての個人にも常に求められるスタンス、在り方そのものではないかと思う。
末端の地理学徒としても直ちに構造主義を信奉する訳にはいかない。つまり「国民性だ、政治が問題だ、システム云々が悪いのだ」と思考停止してしまっては、冷笑主義に加担するばかりだ。
ニュージーランドは多様性を包摂しようと奮闘し、挑戦し続けている。もちろん、綺麗事だけで済む話ではない。誰もが痛みを抱える世の中において、声を上げ続けることで1°でも2°でもシフトできると信じたいし、信じられる人を増やしたい。
いや、本当は、かつてガンディーが訴えた通り、世界を変えるためでなく、自分を意図しない形で変えられないようにするために、学び続けるのかもしれない。
ニューヨーク大学に通う20歳の友人(というか恩人)の菊田隆一郎くんが紹介してくれた本から一節を引用して、この拙論を閉じることにする。
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