「なんかやだ」を「なんでやだ」に。
「んー、なんかやだ」
そんな感覚になったことはないだろうか。
ちなみに私はある。
多くの人が、特に子どもの頃は抱いたことがあるんじゃないだろうか。
もしかしたら今抱いている人もいるかもしれない。
なんかやだから駄々をこねる。不機嫌になる。
子どもの時はその「なんかやだ」に理由ってあんまり必要なくて、駄々をこねると結構それが受け入れてもらえる人もいたんじゃないだろうか。赤ちゃんなんてまさしくそうだろう。
それくらい子どもの頃って甘やかされていたんだと思う。もちろんそれが通用しないこともあるだろうが。
ただ大人になるにつれ、段々「なんかやだ」は通用しなくなる。
「いやいやいや、もう子どもじゃないんだから」
そんな風にあしらわれることもあるだろう。
ただ私は考える。
”大人になっても、「なんかやだ」の気持ちは大事にしたい”
と。
「なんかやだ」ってその人の心の中から出てくる本質的な部分だと思う。本当に思っていることで、それが具体的に言語化出来ていないだけで。
そこの感情に蓋をしてしまうと、いずれ自分の本当の気持ちってわかんなくなってくる。きっとこれは嫌なことがわかんなくなるだけじゃない。自分が好きなことはなんなのか、やりたいことはなんなのか、やりたくないことはなんなのか、そもそも自分という人間はなんなのか。そのレベルまでわかんなくなってくる気がする。
そういった意味で「自分」を見失わないためにも、「なんかやだ」に目を向けることは大人になっても大切で。
ただ、だからといって駄々をこねていいというわけではない。
それこそもう「大人」なのだから。
自分の、あなたの「なんかやだ」だけを採用していたら、それ以外の誰かがあなたのやらなかったことを引き受けなくてはいけない。
特に働く場面なんかそうだ。
相手は良くも悪くも家族ではない。組織だ。
だけどここで話は逆戻りするが、「なんかやだ」を無視はしたくない。
この2つの葛藤とどう向き合っていくか。
そこの1つの終着点が、
「なんかやだ」を「なんでやだ」に
言語化していくこと
だと思っている。
私たちはもう子どもじゃない。
考えることが出来る。言葉にして伝えることが出来る。
受け取る側も態度で示されるだけじゃどうしたらいいかわからないけど、言葉で説明されることでまだ対応策が取れることだってある。
お互いにとっての緩衝材としても「言葉にする」って大切だ。
そして「なんでやだ」を言語化していくことは、今後の自分の行動の指針にもなっていく。
「なんかやだ」を「なんでやだ」を事前に言語化しておくことで、「なんかやだ」の状態を未然に防ぐことが出来る。未然に防ぐことが出来れば、悩む必要もなくなってくる。
「なんかやだ」の気持ちはこれからも大事にしていきたい。
だけど「なんかやだ」だけで押し通そうとしない。
「なんでやだ?」と自分に問いかける。言語化する。
自分で解決できるものだったら解決をしていく。解決が難しそうだったら、あらかじめそういった状況にならないように対策をとる。
そういった部分でどんどん大人になっていきたい。
自分のことを自分で管理し、自分の言葉で説明できるように。
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