見出し画像

人生の「時間割」

ちょっとジャストアイデア(=単なる思い付き)が浮かんだので、備忘録的に残しておきたい。

それは「時間割」について、だ。

「は?」という感じになった人もいるだろう。
自分自身note999日目でこれが浮かんできたのはよくわからない(笑)
でも浮かんできた。

時間割、といえば学校だろう。
小学校、中学校、高校と時間割に従って生きてきた。
この時間にはこれを学んで、この時間にはこれを学ぶ。昼休みがあって、放課後がある。好きな教科があれば苦手な教科もある。そんなふうに、与えられたものを学んできた。

大学に入って「履修登録」というものがあった。
なんと時間割を自分で決めるのだ。

自分で決める。つまりそれは「自由」だ。
もちろんその中でも卒業単位といって、卒業するまでに取らなきゃいけない単位数があったり、必修でとらなきゃいけない科目があったりする。

それでも高校までみたいに「必ず英語を学びなさい!」と言われていたのが、「英語もそうだし、ドイツ語とか中国語とか選んでいいよ」って言われる環境になる。

学ぶものを「与えられていた」状況から、学ぶものを「自分で選ぶ」状況へ。

大学生だった当時は特段何も考えていなかったけど、冷静に考えるとちょっとゾッとする。だって「自分で選ぶ」ということはすべて自分に責任があるのだから

と同時に、高校までで「時間割」の組み立て方というのをある程度学んで、大学にいって限られた科目の中で自分で時間割を組み立てる、というステップアップを踏んでいるんだな、とも思った。

それも、その先に待つ社会に出るための準備として。

社会に出たらどうなるかっていうと、もうそれは自分の人生の「時間割」を組み立てるようなもんだと思う。ちょっと拡大解釈かもしれないが(笑)


つまり”教育”って知識を与えるのももちろんだけど、人生の組み立て方も子供の頃から教わっていたのかな?って、教育に何も詳しくない自分が言ってみる。


でも中にはずっと大人になっても「時間割」を遂行する人もいる。その1つが例えば親のレールの上を走るとか。それがいいか悪いかは人それぞれの境遇によって違うし、自分でそれを選んでいるならいいと思っている。だけどその場合は「いつ1人になるかわからない」ということも頭に入れておかなければならない。

周りには支えてくれる人がいる。
だけど結局最後に自分を救えるのは自分だったりもする。

やっぱり自分は自分の人生の時間割を誰かに決められたくはない。
自分の好きも嫌いも、得意も苦手も知っているのは自分。

学校教育で大人になるうえで必要な教科を与えられたように、自分の人生でもナイスな大人になるために自分に必要なことを与えていく。本当に自分が好きで大事にしたいなら、きっと多少の鞭を打つはずだ。

現在、就労移行支援事業所で支援員をしている。

そこでは毎日のようにご利用者様それぞれに合わせた「個別プログラム」を組み立てている。いわば個人個人にあてられた時間割のようなものだ。

今はスタッフのほうで考えているけど、ゆくゆくは自分で組み立てられるようになったらな、と思っている。

だって自分がどうなりたいのか、そのために何が足りないのかなどに気づけているのはスタッフではない。自分自身だから。

でもいきなりは難しいのはわかっている。
「はい、じゃあ考えてねー」は私たちスタッフがいる意味がない。

だから最初のうちはスタッフで時間割をつくる。小学校から高校のように。ただつくるだけにはしない。

「これはこういった目的があって、これにはこういった目的があって、、」

という意味を伝える。

なぜやるのか、なんのためにやるのか。
それが意識できるだけで学びの吸収具合も変わってくるはず。

そしてそれを踏まえて自分で時間割をつくれるようになってもらう。大学のように。そうすることで、より効果的な学びができるんじゃないかなって。

それをうまく果たした先にあるのが就職であり、復職で。社会に出て行って、あとは人生の時間割を自分で組み立てていくというわけだ。



この記事が参加している募集

今後の記事の質向上のための資金として使わせていただきます!