〝優しさ〟の優先順位
優しさについて考える機会は多い。
優しい人か優しくない人どっちがいいか、というとそりゃ多くは「優しい人」の方がいい。
そもそも”優しい”ってなんだろうとなるが、あえてここでは深く言及しない。相手のためを想って、、、というと「それは独りよがりじゃないか」となるし、どんな相手も受け止めることだ、、、というと「それは相手のためになっていない」となる。
つまり簡単には説明できないこと。
でもきっとみんなの中にそれぞれ「優しさ」の定義があるのだから、
「あの人は優しい」「あの人は優しくない」
という判断がなされるんだと思う。
1つハッキリと言えることとすれば、誰かの優しさが搾取されない、優しい人が優しい人でいることに誇りを持てる社会であってほしいな、ということくらい。
この記事ではちょっと角度を変えて、広義の意味で「優しさ」を捉えた場合、人はどうすれば優しくなれるのかということを考えてみたい。
基本的に人は日常で自分以外の誰かと関わることが多い。
学校、職場、家族、友人など。そういった相手に対し、関係性のある人であるほど「優しくしたいな」と思うのは至極当然だ。
私自身、現在は就労支援という仕事をしていてそれこそ”人”と関わる仕事だ。何かを説明する際の自分の言葉選びや態度、表情というのは意識を向けるようにしている。
でも優しさって、相手に対しての自分の振る舞いに意識を向ければいつ何時でも提供できるものなのだろうか。確かにそれで提供できる部分はある。だけど”それ”が最優先事項ではないとも感じている。
最優先事項って、紛れもなく”自分”なんじゃないかなって。
自分に余裕がない時って、途端に視野が狭くなる。
結果として気づけないことが多くなる。
自分に余裕がなくて、自分に優しく出来ていない時は、きっと周りに対して意識していたことにも気づけなくなるんじゃないかなと。
気持ちに余裕がある時には出来ていたことが、出来なくなる。
態度、表情、振る舞い、言葉。
いつも意識を向けているはずのものがないがしろになり、”やってしまった”後に気付く。なんでそんなことしたんだろう、言ったんだろうと。
こんなのは誰も得しない。
もっともっと自分に優しくすることが大事なのかもしれない。
これって”甘やかす”とは別で。
出来なかったことをしょうがないとするのではなく(本当に無理なことはそれでもいい)、出来たことで自分を褒めていくとか、1日を全力で頑張って「今日もお疲れ様」と自分に伝えてちょっとご褒美をあげるとか。
そんな感じで自分に優しくして自分に余裕を持たせて、
その結果相手に対しても意識を一層向けられるようになるんじゃないかと思う。
自己犠牲に伴う優しさはないからね。
優しさの優先順位、間違えちゃいけないね。
今後の記事の質向上のための資金として使わせていただきます!