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「一人」を選ばなかった自分の成長。

ちょうど1ヶ月前にこんな記事を書いていた。

この投稿は、ある記事から得た印象的な言葉をまとめたもの。その印象的な言葉とは、

「人生は一人で抱え込めば悲劇だが、人に語って笑わせれば喜劇だ」

そして、

悲劇の中でやらない方がいいことは、「ひとりにならないこと」「だけど他人に期待しないこと」

の2つ。

自分は悲劇を自分ひとりで抱え込んでしまう人間だとわかっていただけに、戒めを込めて取り上げたものだった。

そんなにすぐにこの言葉を使う場面がくることになるとは、そのときは知る由もなかった。

・・・


なんだか最近自分の身の回りの変化がめまぐるしい。

自分のことで悩むこともあれば、周囲のことでつい感傷的になってしまうこともある。

「自分には何が出来たのか」とか「今後自分はどう頑張っていけばいいのか」とか「どうしてこんなことになったのか」など、すぐには答えが出ないことが頭の中で堂々巡りしていることもあった。

世の中の不条理というか現実というか、自分の無力さというかやるせなさというかに涙した夜もあった。

その時は、気づいたらやっぱり「一人に」なろうとしている自分がいた。

少し強い言い方になってしまうと、誰の声も聴きたくない、今の自分の姿を見られたくない、一人になりたい。

でも一人になっても「答え」は出ないということもわかっていた。

むしろ負の連鎖が進むだけ。

先日の研修でこんな教えがあった。

「良い結果には、良い発想が必要で、良い発想には心の安定が必要だ」

心が超超不安定なのに、良い発想なんて出るわけない。そんなとき、冒頭の言葉を思い出した。

「ひとりにならないこと」


抱え込んで一日を終えることも出来たその中で、自分は一人にならないことを選ぶことが出来た。自分の感じている「ザワザワ」した気持ちをぶつけることが出来た。

そのザワザワが解消されるかどうかなんて関係なくて、「ひとりにならない」という決断をとれただけでも成長だと思っている(自分に甘々)。

そして実際、ザワザワも解消された。


自分が一人にならないためにザワザワをぶつけた相手は、同じようにザワザワしたときに想いをぶつけてくれる。

「あ、自分が学生の頃に足りなかったのってこれなんだな」

って思う。

学生の頃、勉強を教えたり、何かの技術を教えたりっていうことは確かにあった。でも何か「相談事」をされるってなると、本当に親しい友人とか慕っている後輩とかそれくらいだった気がする。

でもそれは自分自身の立ち居振る舞いが原因だったんだなって、今なら思う。

自分が完璧であろうとしすぎたから、一人で何でもしようとしすぎたから、結局周囲と見えない距離をつくってしまっていたのかもしれない。


「弱さ」を見せない自分だったから、周囲も自分には弱さを見せられないと思っていたのかもしれない。


辛い時「一人」を選んでいた過去の自分は、周囲に人はいるけど結果的に「一人ぼっち」になっていたんだなって。その時気づければいいものを、少し大人になってから気づくなんて、なんとも皮肉なものだ。

だけど生きているうちに気づけただけでも恵まれている。気づけたら変われるチャンスだから。

・・・

「ひとりにならないこと」


きっと私の人生のキーワードになっていくであろうこの言葉。

その一方で”ひとりの時間”も大切だと思っている自分もいる。一人の時間、つまり自分と向き合う時間

そう考えるとこのnoteはとても重要な場所。

noteはいつも自分自身との対話で書かれている。自分と向き合う時間を必然的につくれている。

だから日常生活では思う存分、「ひとりにならないこと」を選択できる。なんせ根っこは、寂しがり屋なのだから。




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