結局は本音。
「嫌な気分にさせてしまったらどうしよう」
「こんなこと聞いてもいいのかな?」
そうやって人は相手を気遣う。
気遣って気遣って気遣いすぎて、結局何もしゃべれなくなってしまう。
気遣いすぎて気疲れしているのは、僕だ。
ある程度相手のことを把握すれば、どこまで立ち入っていいのかのラインがわかってくれば踏み込んでいけるのだが、読めないと進めない。
「気遣い」ってすごい綺麗な言葉だが、結果的には気遣いという名の「保身」だ。自分の身を守っているだけなのだ。
そんなことはわかっていながらも、なかなか変わるのは難しかったりする。頭でわかっていても行動にまで落とし込むのは難しい、とはまさにこのこと。
気遣いって相手のことを思ってやっているように感じるけど、相手は何となくそれを感じ取るものだ。
そしてお互いに「気遣い合う」。
そして気遣い合えば気遣い合うほど、溝は深まる。お互い歩み寄りたくて「気遣い」ってするもののはずなのに、それによって溝が深まるとはなんとも皮肉なものだ。
結局答えは簡単なんだ。
「本音でぶつかる」ってことなんだろうなって。
計算だとか、組み立てだとか順序なんかも確かに大事なのかもしれない。だけどそれ以前に、まずは自分のありのままの思いを伝えることが大切なんだろうな、って。
いや、最初からわかっていたし、これも頭ではわかっていても、、、、って感じだけど、目指さなきゃいけないことだから繰り返し繰り返し唱えて、頭に刷り込ませるしかない。
原点に立ち返れば、最初はお互いに相手のことはわからない。
わからないのだから分かり合えなくてもしょうがない。むしろそこで気遣って「仮面上の会話」しかしない方が、長い目で見て危険だ。
「分かり合えないことから」始めていかないといけない。
でも本音でぶつかるからといって「無頓着」ではいけない。
これはいけない、と思ったことは繰り返してはいけないし、自分の話ばかりせずに相手の話を聞いて相手を知っていくことも必要だ。
だから適度な気遣いは必要になってくる。
ただ過度な気遣いはよくない、という要はバランスだ。塩梅だ。
それはもう、実際にやってみて失敗して成功して覚えていくしかないのだろう。
そうやって本音のキャッチボールを重ねていくことでしか築かれない関係っってあるのだと思う。
本当に相手と近づきたいのなら「相手のため」と銘打った自分の保身のための”気遣い”よりも、多少の衝突はあれど”ありのまま”を伝えた方がいい。
例え最初からわかりあえなくても、ぶつかり続けていくことでいつか分かり合えるはず。
結局は本音だ。
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