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蛇人間、生まれる(3) 【長編小説】

蛇人間、生まれる(2)の続き



 クジラはその後も度々たびたび浮き上がってきたが――油断してぼおっとしているときが多かったが――あのときほど多くの言葉を語りかけてきたことはなかった。それよりもむしろ、ふっとやって来て、僕の心の深い部分を揺らせる。それもかなり繊細なやり方で、揺らせる。そういうことの方がずっと多かった。あるいは何も言わずに、過去の記憶を持ってくることもあった。僕はその記憶を渡されて――「はい」と――途方に暮れて、この世を生きている。果て、俺はこれをどうすればいいのだろう、と僕は思っている。これが何か重要な意味を持っている、という予感はある。でもだからといって完全に理解できる、というわけじゃない。なぜなら僕はまだそこまで成長していないからだ。こんなもの渡されても、ただ混乱しちゃうだけじゃないか。まったく。何を考えているんだか、彼も・・・。



 僕がそのとき渡されたのは幼少期の記憶だったのだが、表面には「不要品」というレッテルが貼られていた。だからこそ今まで一度たりとも思い出さなかったのだ。しかしクジラが記憶の海の底から掘り起こしてきたのだ。そして言う。ほら、こんなものがあったよ。あんたに欠けているものだ。というか、欠けているものを示唆●●するものだ。ほら、ちゃんと届けたからね。あとのことはそっちでちゃんとやってくれよ・・・。



 この言葉そのものは僕の想像に過ぎないのだが、そのようなメッセージがひしひしと伝わってくるのだ。僕は退屈な仕事を機械的にこなしながら――顔には仕事用のほほみを浮かべている――そのはるか昔の光景を思い出している。果たしてこれのどこにそんな重要なポイントが含まれているというのだろう・・・。こんなのは何ということのない、ただの子供の頃の記憶じゃないか。誰だって持っているはずだ。こんなものは・・・。



 僕はせみの死骸を手にしている。ついさっき死んだばかりの、死にたてほやほや●●●●の蝉だ。周囲にはまだ生きている蝉たちの声がミンミンミンミンと鳴っている。僕は東北の田舎にある実家の玄関の前にいて、その死骸を興味深そうにじっと見つめている・・・。



 僕はおそらくは四歳か、そこらだろう。近くに家族の姿はない。それは少々意外なことに思える。というのも僕は甘えん坊で、常に誰かが近くにいないと、不安で不安で仕方がなかったからだ(そのことはよく覚えている)。でもその瞬間、僕は一人で、死んだばかりの蝉を手に持っている。これはついさっき僕の目の前に落ちてきたのだ。外に出たら――僕は小さな子供用のサンダルを履いている。あるいは左右逆かもしれない。なんだか足が変にむずむずするから・・・――突然最期の叫びを発して(もちろんせみ的な叫びだ)、その場で死んだ。その移動の瞬間を僕は目撃したのだ。果て、これはどういうことなんだろう、と僕は思っている。こいつはさっきまでは生きていた。それはたしかだ。でも今では死んでいる。しんでいる●●●●●。僕にはその違いの意味がよく分からない・・・。



 ドクン、とそのとき大きな心臓の鼓動が鳴る。僕は慌ててそこに手を当てる。何が起こったのだろう、と思いながら・・・。左手にはまだ例の蝉を握り続けている・・・。



 そのとき誰かが話しかけてくる(ように少なくとも当時の僕には思える)。君は目をつぶってね、とその誰かは言っている。 生まれる前の状態を想像しなくちゃならない。それがつまり死んでいるってことなのだから。



 僕は彼の――おそらくは男だったからだが――言っている意味がよく分からない。生まれる前? 死んでいる? でもとにかく言われた通り目をつぶる。一緒に蝉も強く握り締める。遠くから風が吹いてくる。今まで一度も嗅いだことのない匂いが漂ってくる。お母さんはどこにいるんだろう、と僕は思う。お母さん! お母さん!



 駄目だ、とその誰かは言っている。僕は目を開けようとするのだけれど、まるでまぶたのりでくっついたみたいにがれなくなってしまっている。ドクン、とまた鳴る。何が起こっているのだろう、と僕は思う。



 君はちゃんと想像しなくちゃならないよ、とその誰かは言っている。それまでは目も開かないし、お母さんにも会えない。お父さんにも、友達のユイト君にもね。



 ユイト君にも●●●●●●、と僕は繰り返している(大人になった僕は「ユイト君」の顔をなんとか思い出そうとするのだが・・・まったく記憶が残っていない。彼はたしか小学校の低学年くらいのときに都会に引っ越していってしまったのだ。彼は果たしてまだ生きているのだろうか・・・?)。



 そう、誰にも会えない。ずっと一人ぼっちだ。そんなのは嫌だろ?



 嫌だ●●、と僕は思う。そしてきちんと生まれる前の状態を想像してみることにする・・・。ドクン、とまた鳴る。



 君はね、あったかいお風呂みたいな海の中にね、気持ちよく浸かっているんだよ。分かる?



 分かる●●●、と僕は思う。そしてちゃんとそういった光景を想像してみる。あったかい温度の水。僕は・・・ぷかぷかと浮いているわけじゃない。水面のちょっと下のところに、沈んでいるのだ。でもそれ以上は沈まない。息ができない。でもそれも苦しいってわけじゃない。どうしてだろうな、と僕は思う。ドクン、とまた鳴る。



 君はね、まだ生まれていないんだよ。これから生まれようとしているところ。分かる?



 うん、と僕は思う。



 君はね、まだ正確には君じゃないんだ。君の原型。



 うん。



 それでね、君のところにね、一匹のイカがやって来るんだよ。イカだよ? イカ。タコじゃない。イカの足は何本だっけ?



 十本、と優秀な僕は答える。



 そう、十本だ、とその誰かは続ける。その十本足の、透明な、大きなイカがやって来てね――ちなみにその時点では君よりもずっと大きい――君に話しかけるんだ。もしもし、人間さん。何をしているの? ってね。



 ただ浮かんでいるだけだよ、と僕は言う。



 いや、違うね、とその人は言う。君は沈んで●●●いるんだ。ただ沈んでいるだけ。その違いは結構重要だよ。まあとにかくね、そのイカは君と友達になりたかったみたいだ。なにしろイカとして生きる、というのは恐ろしく退屈なことだからね。仲間たちもみんなうたぐり深くてね、ほとんどグループというものを作らないんだ。それでそのイカは、君のことを見つけて、スルスルと泳いでやって来たってわけだ。



 友達になるくらいならいいよ、と僕は言う(ドクン、とまた鳴った)。



 ところがそう簡単にはいかないのさ、とその誰かは言う。なにしろまず種族が違っているからね。それに、君はまだ生まれてもいない、ときている。君は実際のところ今とは全然違う姿をしていたんだ。ちょうど・・・ほら、いや・・・うまいたとえが見つからないな。とにかく今とは違っていたんだよ。全然ね。



 ふうん、と僕は言う。



 そう、それでね、イカは君に一つの取引を持ちかける。そいつはね、君に未来を見せてやるって言うんだ。



 未来って何? と僕は言う。



 未来とは・・・先のことさ。これから生まれて、君がどんな人生を歩むことになるのか、イカには見えていたんだな。実際のところ海の底にはそういった生き物がたくさんんでいる。彼らは闇の中で――本当に深い闇の中で――ちょっとした光を捉えることに慣れているんだな。そしてその海は過去と未来の両方につながっているときている。彼らはいつもそのあたりをゆらゆらと揺れ動いているんだよ。実のところ。



 イカは、未来を見せてくれたの?



 見せてくれたさ、とその人は言う。というか君にはね、拒否をするという選択肢はなかったんだ。本当のところね。というのもまだ君には意思決定機関というものがそなわっていなかったからだ。君はやって来たものを受け入れる――ただ受け入れる――スポンジのような存在に過ぎなかったんだ。それで、その代わりにイカはあることを要求した。それは・・・。



 それは何? と僕は訊く。



 それは、大人になって、ある程度ものをまともに考えられるようになったら、自分と再会して、愛を分け与えてほしい、というものだった。



 あいって何? と僕は訊く。



 愛とは・・・とその人は言う。形のないものだ。流れ続けるものだ。決して枯れないものだ。すべての人の奥底に眠っているものだ。しかし・・・イカはそれを持たない。



 どうして?



 どうしてかは・・・私にも分からないよ。それぞれの役割があるってことのほかはね。イカにはイカの役割があるし、君には君に与えられた役割がある。そうそう、それで未来のことだ。君はその取引に同意して――というか自動的に引き受けて――その未来なるものを見た。原初の混沌の中でね、一種の啓示としてそれを目撃したんだ。君はそれをそのままの形で記憶に留めておいた。実際のところ一瞬で終わったんだけど、君にはそれを言葉で理解するということができなかったんだ。というのも・・・そう、お分かりの通り、君にはまだ言葉というものがなかったからだ。君はゆらゆらで、ふわふわで、ぐしゃぐしゃだったのさ。それ以上でもそれ以下でもない。結局日本語を選んだけど、その時点ではまだ英語を学ぶのか、中国語を学ぶのか、タガログ語を学ぶのか、ペルシャ語を学ぶのか・・・とにかくなんにも決まっていなかったのさ。でも君はその中で未来を見た。その内容までは私には分からないよ。なにしろ君の●●未来なのだから。そして、ああ、分かった。これが未来だったんだ、と完全に呑み込んだ時点で、おぎゃあ、とこの世に生まれてきたってわけさ。



 僕は・・・このせみみたいに死ぬの?



 もちろん、とその人は確信を込めて言う。それはもう、確実なことだ。私が保証する。君は実を言えばそのときにね、自分がどのように死ぬのかまできちんと目撃していたんだよ。イカが見せたビジョンの中でね。でも生まれてからは、ずっと思い出さなかった。なぜか? そんなことをしていたら頭がイカれてしまうからだよ。安全装置が働いていたのさ。でもそれがちょっとだけ弱まったから、こうしてここに私が参上したというわけさ。



 あなたは・・・イカなの?



 違う。私はイカじゃない。イカに近いところに住んでいたことはあったが、イカではない。イカと友達であるわけでもない。私は私だ。ずっと暗闇の中で生き続けてきた。君が生まれるずっとずうっと前からね。そしてこれからもまた光の届かない領域で生きていくだろう。それはよく分かっているんだ。ねえ、君はね、死を恐れないで生きていかなくてはならないよ。分かるかい? 言っていることは?



 分かるけど・・・と僕は言う。でもやっぱり死ぬのは怖いよ。だって一度も死んだことないもの。



 ハッハ、そうだな、とその人は言う。でもさ、実を言えば、人々が死を恐れるのは死が何なのか具体的に知らないからだけなんだ。彼らはそれについて考えることもしない。分からないのだから恐れるのはまあ当然だよな。でもさ、君はある特殊な星のもとに生まれついている。イカが君を守ってくれているのさ。分かるかい? 君はこれから成長してもっといろんなことを知ることになるだろう。希望を抱いて、それが叶わずに失望して、ほとんど絶望までして・・・。でもふっと、かつて見た光景を思い出すはずだ。私が言いたかったのはそのこと。だから頑張って成長し続けるんだよ。つらかったとしてもね。やがてまともにものを見られるようになったら・・・そのあかつきには・・・未来の光景もまた、見えるようになるはずだ。ある程度までは、だね。そしたらイカがやって来るからさ、「愛」を分け与えてやってくれよ。じゃあ、そろそろ失礼するよ・・・。



 この蝉はどうしたらいいの?



 その蝉は・・・もういない。



 そこでパッと目がいて、僕は元の場所に帰ってきている。握り締めていた左手を開いたが・・・そこには何もいなかった。変だな、と僕は思う。たしかにこの中で死んでいたのに・・・。あたりではまだ生き延びている蝉たちがミンミンと力強く鳴き続けている。彼らはやがて死ぬだろう、と僕は思う。僕もまた死ぬはずだ。ドクン、と心臓が鳴った。僕はしばらくそこに立っていたあとで、そちらに走っていってしまう。その奇妙な人物との不思議な会話のことなんか、もうすっかり忘れて。そしてその記憶が今突然よみがえってきたのだ。これは本当にあったことなのだろうか、と二十代後半になった僕は思っている。クジラが持ってきたこの記憶は・・・おそらくは途中までは実際にあったことだ。その手触りは、匂いは、空気の質は・・・本物の記憶にしか再現することのできない要素たちだ。しかし目をつぶったあとのこと・・・。あの奇妙な会話は・・・正直なところ本当にあったことだという気がしない。実際四歳児があんな難しい会話を覚えていられるものだろうか? あるいは、とそこでふと思う。理解できなかったからこそ、そのままの形で記憶の奥の方に保存しておいたのかもしれない。いつか役に立つと思って。それを今、たまたま●●●●クジラが持ってきた、ということなのだろうか・・・?



 もっとも訊ねようと思ってもクジラはすでにそこにはいない。いるのは僕自身と、その記憶だけだ。僕は退屈な日常を生き延びながら――一見退屈に見える●●●日常をなんとか生き延びながら――そのイカと交わした「取引」なるものについて、考えを巡らしてみる。僕は当時本当にそんな取引を結んだ(あるいは結ばされた●●●●●)のだろうか? それはあるいは、あとから作られた都合の良いフィクションに過ぎないのだろうか? 本当に生まれる前の僕の意識は、温かい海の中でゆらゆら気持ちよく揺れていたのだろうか・・・。



 でも結局のところ、どれだけ考えたところで解決には行き着かない。ただ一つ明らかだったのは、例の会話が恣意しい的に生み出されたものではない、ということくらいだった。要するにあれがもしフィクションだったとしても、それなりの必然性のあるフィクションだった、ということだ。だとすると、と僕は仕事をしながら考えている(上司が目の前で何やらたくを並べている。営業上の秘訣。自分がいかにして有能な企業戦士になったのかについての遍歴・・・)。やはりあそこには、僕が本気で理解しなければならない何かが含まれていた、ということになる。そういえば僕は、イカがそのとき見せてくれたという自分の未来について、何も覚えていないじゃないか? あるいはもっと強くなって、イカと再会したときには――それがどのようなシチュエーションを意味するのか、僕には実のところまったく想像できなかったのだが(イカは人の姿を取ってやって来るのか? あるいは僕が海の底に沈むのか? それは本物の海なのか? フィクショナルな海なのか? 僕自身の意識はどうなるのか? エトセトラ、エトセトラ・・・)――もう一度見ることができるのだろうか・・・。



 でもなんにせよ、と僕は思っている。未来を見ることができたとしても、僕はそれをちゅうちょするかもしれないな。だってそんなもの見てしまったら、生きる気力が完全にがれてしまうような気がしたからだ。僕が今生きているのは、かろうじて成長を続けているからだ。というか成長しよう●●●●●と、なんとか気力を振り絞って、毎日自分に言い聞かせているからだ。そうでもしなければ、このような閉塞的な状況において――こうなったのにはもちろん自分自身の責任が大きいわけだが――簡単に命を絶ってしまっていたかもしれない。その想像は実のところ「イカ」の具体的な姿をイメージすることよりもずっと簡単である。というか毎日僕はその想念を心の底の方でずっともてあそんでいたのではなかったか・・・。自分ではなんとかそこから目を逸らそうと努力してはいたのだが・・・。



 そのような宙ぶらりんの状態の中で――というか僕の人生はずっとそんな感じではあったのだが・・・――クジラは言葉抜きにして、またしても別の記憶(たち)を持ってきた。それは幼少期の記憶であったり、高校生の頃の記憶であったりしたが・・・一つ共通点があるとすれば、「死が含まれている」ということが挙げられると思う。僕は三つ目の記憶を見たときにそれに気付いた。僕は高校の二年生で、なぜか体育館の壁に向かって、サッカーボールを蹴っている(ちなみに僕はサッカー部ではない)。それは誰か友達のボールで、しかしその友達は周囲にはいない。あるいは父親が迎えに来てくれるのを待っていたのかもしれない。僕は一人ぼっちで、西の空にはオレンジ色の夕陽が浮かんでいた。それは今まさに沈もうとしていた。木々の隙間から、僕はその光景を見ることができる。秋の終わりで、空気は冷えていた。風が吹いた。カラスが鳴いている。遠くの方で、ソフトボール部の女子たちが外周から帰ってきてキャアキャア騒いでいる。僕はそんな声を聞くともなく聞いている。サッカーボールを蹴る。僕は上手うまくはないから、狙ったところには当たらない。全然意図していない方向に飛んだりする。あ、また失敗した。僕は跳ね返ってきたボールを取りに行く。とぼとぼと・・・。



 そのとき影が揺れた。一瞬だけ、揺れたのだ。間違いなく。僕は目を閉じて、また目を開ける。すると空気の質が異なっていることが分かる。肺いっぱいに息を吸い込む。スーと吸って、ハーと吐く。同じことを二度繰り返す。そうすると、少しだけ、心が落ち着いたことが分かる。また影を見る。それは、いつも通りの僕の影だ。もう揺れたりはしない。僕はなぜか冷や汗をかいている。何かがおかしい、と思う。ボールを取りに行く。それは数メートル先に転がっている。僕は・・・。



 ドクン、と心臓の鼓動が鳴る。僕は一瞬だけ立ち止まる。恐怖が全身を駆け巡る。僕は何も見なかったことにして、ボールを拾い上げる。そしてそれ以上は、ボールの壁当てをやめてしまう。こんなことをしているからいけないんだ、と僕は思う。早く帰らなきゃ。そろそろ迎えに来てくれるはずだ・・・。



 記憶はそこで終わっている。僕は今だからこそ分かるのだが、そのとき感じたのは、紛れもない死への恐怖だったのだ。安定していた世界が揺れて――それがおそらくは影が揺れたことの意味だったのだが――僕は一瞬足場を失いかける。自分が誰だったのか分からなくなる。この日常が、実は当たり前のものではないかもしれない、と思う。でもすぐにそんなことを考えた自分を恥じる。僕は勉強をしなくちゃならないし、いずれは大学に行かなくちゃならない。女の子のことも考える必要がある・・・。余計なことを考えている暇なんかないんだ。大丈夫だって。みんなそんな風にして生きているんじゃないか? あんまりシリアスになっちゃ駄目なんだって・・・。



 ということは、と今になって僕は思う。当時から僕は、死を受け入れるポテンシャルを持っていた、ということになりそうである。もっともこれは僕だけが特殊だったと言いたいわけではなくて、きっと誰にでもそういった記憶は埋まっているものなのだろう。あるいは子供の方がそういった、偏見にゆがめられていない光景をたくさん目撃しているのかもしれない。なにしろ彼らの世界には、十分な言語的な説明がほどこされていないからだ。彼らはそこにあるものをそのもの●●●●として眺めているはずだ。だとすると・・・そこにある死をもまた、まさにそのままの形で受け入れているのではないか・・・。



 しかしながら、子供であることの問題点は、その受け入れたものを理解することができない、というところにある。高校生の頃の僕にも無理だったし、おそらくはその数年後だって無理だっただろう。今だからこそ少しは理解できる。僕は死と向き合っていたのだ。いや、向き合わされて●●●いたのだ。あの風の中には、匂いの中には、影の中には、死が含まれていた。それはたしかなことだ。それは世界そのものの死だったのかもしれなかったし、あるいは僕の個人的な死の反映に過ぎなかったのかもしれない。いずれにせよ死は死だ。それは粒子となって空気中に偏在していたのである。僕はそれを吸い込み、そして吐き出した。僕はあの瞬間真の意味で生きていたことになる。なにしろ死を受け入れていたのだから・・・。しかし、その本当のありよう●●●●を、きちんと理解できたわけではなかった。僕はむしろ安定した世界観の方を取ったのだ。



 さて、クジラは僕に何かを求めている、と僕は思う。何か、非常に重要なことだ。僕がこれから生き続けていくにおいて、非常に重要になってくる何かだ。それは何だろう? 死を恐れるな●●●●●●、ということだろうか? たしかに僕は何かを受け入れつつあった。完璧に受け入れたわけじゃないけれど、徐々に徐々に、諦めて、見るべきものを見ようと努めつつある、ということだったと思う。要するに僕は別の人間になることを放棄したのだ。もちろんまだ何割かは演技的なところが残っている。ふらふらと彷徨さまよって、キョロキョロとあたりを見回して・・・そして尊敬すべき先人の真似をしたりすることもある。とことん退屈で仕方がなくなってしまうこともある。それでもなお僕は、この世に存在しない理想を抱くことをやめ始めていたのだ。それは大きな変化だった。一見シニカルにも見えるのだが、必ずしもそうではないことを僕は知っていた。あくまで現実を受け入れて、その中でやれることをやっていこう、という姿勢を取ろうと努めていたのだ。僕はいい加減自分が演技に耐えられない人間であることを悟りつつあったのだと思う。出口を閉じることも簡単だ。台詞せりふを辿ることも簡単だ。昨日の自分を踏襲することも簡単である。しかし、そこにはどうすることもできない退屈さが待っている・・・。


蛇人間、生まれる(4)へと続く・・・

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