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蛇人間、生まれる(2) 【長編小説】

蛇人間、生まれる(1)の続き


一三八


 僕は死んだ。


一四五


 僕は空白の平原を泳ぎ続けている。


八三


 若い頃のことを思い出している。当時考えていた種々雑多な、くだらないものごと・・・。もちろん今だからこそ、それらが単なる徒労に過ぎなかったことを知っているのだが・・・。あるいは、と僕は思う。結局のところ、人間というものは経験を通してしか学ぶことのできない生き物なのではないか? 最近ひしひしとその事実を学ばされているような気がするのだ。もちろん歳を取ったからといって、それで自動的に優れた人間になるわけではない。それはまあ、まわりを見回してみれば――そしてもちろん自分自身のことも見つめてみれば――火を見るよりも明らかなことだ。それは分かっている。しかし、にもかかわらず、若い頃には、経験が何よりも成長のかてとなる。それをどのように使うのかはその人次第だ。しかし元となる経験を欠いては、我々は何も学ぶことができないのではないか? たとえば何が不毛で、何が不毛ではないのか・・・。その違いすらも認識することはできなくなってしまうのではないか・・・?



 いずれにせよ経験が溜まり、記憶の層を厚くする。僕はそれによって、また一歩先に進むことができる・・・かもしれない。当然のことながら未来はいつだって空白のまま残されている。というかまあ、少なくとも限られた視点しか持たない一つの自我意識としての僕にとってはそうだ、ということなのだが。ウィリアム・ブレイクがかつていみじくも述べたように、我々はいつの間にか「自分自身」という非常に狭い洞窟の裂け目から世界を眺めるようになるのである。まあそれはそれとして・・・だが、僕にはとにかく未来が見えない。おそらく死ぬのだろうな、ということは分かる(「人は一人で死ぬだろう」とパスカルは述べている)。しかし「死」というものの形はまったく想像できない。暗闇かもしれないし、空白かもしれない。生まれる前にいた場所に戻ることなのかもしれないし、あるいはまったく別の種類の空間に移動することなのかもしれない。「意識」という枠組みが崩れることをその言葉は意味しているのかもしれない。「死」。・・・。



 僕は結局のところを生きることに集中することにする。今ここにいる自分。それは窮屈きゅうくつな肉体というおりに閉じ込められ、自由を求めてあえいでいる。僕にはそれがよく分かる。僕は僕でありながら、本当は僕ではない。なぜなら一秒後の自分自身を、僕は想像することができないからだ。それはそこにあるものである。でもそのときになってみないと分からない。あるいは僕はハンバーガーに変わっているかもしれない。あるいは鳥になって、空を自由に飛び回っているかもしれない・・・。いずれにせよ、ただ一つだけたしかなことがある。それはこういうことだ。



 先のことを考えたって仕方がない。



 こういったことを――いささか気恥ずかしいのだが――自信を持って述べることができる、というのは、歳を取ることの一つの恩恵だろう。若い頃には僕は不安で不安で仕方がなかった。もっと良い場所があるのではないか(そして先を見る)。かつて僕は間違いを犯したのではなかったか(そして過去を見る)。あの人は僕を嫌っているのではないか(そしてまわりを見る)。もっとずっと状況はひどくなるかもしれない(そして冷や汗をかく・・・)。僕は今ここ●●●を恐れ続けていたのだと思う。たしかにいささか退屈ではあったものの、そこにある日常生活こそが生きるべき自分の人生なのだと、どうしても思うことができなかったのだ。それで周囲に文句ばかり言っていた(心の中で、だが)。街が汚い。人々は退屈で、傲慢だ(その二つの言葉はほとんど同じ精神状態を表しているのだが)。自分が嫌いだ。未来が見えない。給料が安い。なにもかもがつまらない・・・。しかし本当はつまらなくなどなかったのだ。ドラマはすぐそこにある空間で展開されていたのだし、本当の生は(死を含んだ生は)まさにそこにしか存在しなかったのである。僕はわずかながらその事実を優れた文学や、音楽の中から感じ取っていたのだと思う。マイルズ・デイビスのデモーニッシュなトランペットの演奏。ドクター・ジョンの魔術的な歌声。バルザックの描く人間喜劇。ドストエフスキーの登場人物の卑小さ(そして異常さ)。ウィリアム・ブレイクの描く個人的な宇宙・・・。



 僕は若い頃の自分にメッセージを残したいと思う。何か真に役に立つような金言を・・・。でもすぐにそんな資格が自分にはないことを悟る。ただ一つ言えるとすれば、歳を取ったって、何かが分かるようになるわけじゃない、ということじゃないだろうか? 僕らは都合良く未来を想像するが――というか妄想●●するが――大抵はその想像は(妄想は)まとを外れている。一番大事な部分を外しているのだ。それは何だろう・・・。



 我々が結局のところ透明で●●●●●●●●●●●●変わり続けている●●●●●●●●、というのがその内容ではないか、と僕は最近感じ始めている。それが正しい、という保証なんてどこにもないのだけれど、とりあえず・・・。おそらく人生の真に重要な部分は、結局のところ目に見えない領域に潜んでいる、ということになるのではないだろうか? それは個人的に感じ取ることしかできない心の震えであり、魂のゆがみである。もし「世界」というものが、例外なく各個人によって捉えられた主観的な空間認識の総体だとすれば・・・我々は実に不安定な、不思議な、脈絡を欠いた世界を生きている、ということになりそうである。僕らは閉じられた形式によって認識を制限している。ちょうど狭い洞窟の穴から外を眺めているようなものだ。僕ら自身は常に動き続けているというのに・・・。



 始まりがあり、終わりがあり、中間がある。しかし中間にはそのまた中間があり、そのまた中間にはそのまたさらなる中間がある・・・。という風に、論理的に言えばそこには終わりというものがない。いずれにせよ、僕の言いたいのはほとんど一つのことだけである。結局のところそのすべてを理解することなんてできないのだから、今を楽しもうじゃないか、ということだ。絶望は希望の裏返しで、希望は絶望の裏返しだ。僕は透明で、動き続ける。認識の総体。記憶によって支えられた、三角形の頂点に、おそらくは僕は位置している。そこにいるものの役目とは・・・理解することだ。何が起きているのか、この目で見て理解すること。しかしそれは固定された、教条主義的な理解ではない。もっと全的な理解なのだ。ほら、ちょうど、ちょうど・・・ダンサーが踊ることによって「自由」とはどういう状態なのかを直感的に把握するみたいに。肉体は朽ちて滅びるが・・・意識は――あるいは――滅びないかもしれない。いずれにせよ僕は動き続ける。なにしろ昨日の自分と今日の自分とでは、ハンバーガーとコウノトリくらい意味するところが違っているのかもしれないのだから・・・。



 言語によって定義された世界は、また別の言語によって定義し直されることになる。しかしその世界もまた、もう一つ別の言語によって、別のやり方で定義され得る・・・。僕らはある意味では堂々巡りを続けているのだが、どこかの時点で、それをやめなければならない、と僕は感じている。一般的な、普遍的な真理は、手にした途端、その本当の生命を失ってしまう。僕らは・・・善を求めるべきではないのだろう、と僕は思う。僕らは僕ら●●なのだ。ほかの何者でもない、人間・・・。つか地球に生まれ、こうして世界を認識している。そして何かを求めて生き、やがては朽ち果てて死ぬ・・・。その光景を見ているのは誰だ、と僕は思う。おそらくは僕ら自身なのだろう、それは・・・。



 僕はようやく「善」と書かれた観客席から立ち上がり、独自の道を歩もうとしている。ここまで来るのにだいぶ時間がかかったが、それはまあ物理的に必要な歳月だったのだと思うことにしよう(そうしないと悲しくなってしまうから。失ったものがあまりも多過ぎたのだ・・・)。善は裏返せば悪になるし、悪は裏返せば善だ。僕はそういったラベルの貼り替えにはもうあまり興味を持てないのだ。真に重要なのは流れ、そして動き・・・。



 君はいまだに何のために生きているのか分かっていないじゃないか、と誰かが言う。そう●●その通り●●●●、と僕はむしろ積極的にその事実を認める。僕は自分自身が何のために生きているのか分かってはいない。国のためではないし、子供たちのためでもない。美しい女性たちのためでもない・・・。社会的正義のためでもないし、一輪いちりん道端みちばたに咲く野花のためでもない(その想像は心をそそるが、それでも・・・)。僕は「何か別のもの」である。僕に今言えるのはそれくらいのことだ。なにしろ明日何が起こるのかなんて、誰にも分からないのだから・・・。


 言語によって源泉を辿ろうとする試み●●●●●●●●●●●●●●●●●。さて、それがいつまで続くものか見てみようじゃないか、と僕は思う。この退屈な世界において。一見退屈に見えるけれど、本当は退屈ではない、動き続ける世界において・・・。



 無駄話はやめろ、と誰かが言っている。



 はいはい、と僕は言って口をつぐむ。そして新しい文章を書き始める。自分でもまだ形の見えていない、新しい世界を構成するはずの●●●文章を・・・。



蛇人間、生まれる(3)へと続く・・・

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