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祖父の日記 002

朝鮮から内地へ 七月三十日

朝七時すぎもう下関に着いた。出口准尉外二・三名の者と別れて 岡田君と共に下関見物に町へ出た。 
雨だというのに暑苦しくグッタリとする位だ。朝食を暗い露路の奥にある食堂で終り、 安徳天皇の御陵を参拝すべく電車に乗り亀戸 に着いた。汗を拭きながら石段を登って、日清講話談判の記念館を 見て亀戸神社に参詣した。境内で先づ蠅の啼く声に癒呼内地も夏だなあと感じて何故か無性に嬉しかった。途中街の市場を通る時美し大きな黄色いバナナの山、胡瓜、 西瓜、野菜等みどり色の全く新鮮なもの許り、その上魚はエビ、カニ、イカ、サバ等まだピチピチ はねている。よく養母と妻が下関のバナの山の話をして、ウンと食べたいというていたが、今一緒でないのがうらめしい。そうかと云って自分一人で此のバナナを買うて食べる気は毛頭湧かない。 岡田君も自分も、まだ一回も九州に行ったことがないので金干三銭を奮発してポンポン船中の人となる。窓から外を見様としても硝子戸は防諜上全部紙が貼られて見られない。そして只暑い許りの渡船である。九州は養母と妻の生れた土地である。 
門司に着いたが門司も下関と変らず忙しい、狭い、暑いだけの印象の街である。只始めて九州へ第一歩を印したという物珍らしい感じがある許り。氷水屋の青いのれんの下で床に腰をかけアイスクリームを食べたのが冷たくて美味しかった。九州と云っても只一握りの空気を僅か吸うたづけ、直ぐ此の門司を後にして午后一時汽車で広島に向う。 
広島にはもっと早く着く予定なのが随分と遅れて丁度六時すぎ宮島に着く。時間が余るので七時連絡船に乗って厳島に向う。 
宮島から厳島を見たところこれが日本三景の一かと疑はれる程みすぼらしい姿だと思はれたが、到着して見ると案に相違して美麗なのに驚くと同時に、土産物屋の多いのに尚更一驚した。此の旅が郷里にでも帰る旅であったら何か土産物をあさる気にもな ったが、何分戦争に行く途中ではどうにもならない。只有米子と静江が我々の集合地大阪で面会に来ればやる必要があるので黄楊の帯止めを二個買った。 
薄暮に仰ぐ大鳥居の偉容、千文閣の雄大さ、ところが肝心の御本殿何処かとウロウロして宝物殿を参拝しようとしたら土地の子供に笑はれた。日が暮れ初め十六夜の朧月の光りに海の面をすかしなが漸く廻廊を伝って本殿に至り参詣を終った。途中「亀福」という茶屋でエビライスを喫したが案外不味かった。 
宮島の塗物や名物の土産物を見て廻ると、フト子供の頃父から聞い 日本三景宮島の話が思出される。 
四十余年前日露戦役の出征時、若き日の父も此の自分の如く神殿 の廻廊を廻って美麗荘厳な建物に、感嘆時を久しうしたことか。 実に父子の因縁のめぐり合せにひとしお感を深うした。 大急ぎの一 時間、宮島参詣も終り、八時すぎ電車で広島の街を素通りして、人人にもまれながら集合地大阪へと、又汽車の旅の人となった。 

牧野屋旅館にて古閑班長と再会す 七月三十一日

大阪市北区高垣町の牧野屋旅館に宿をとり、昨日の汽車の疲れで仰向けに寝ていた。 突然、騒しい足音がして目を覚ますと、元成興隊にいた古閑准尉が来られたと云う声がする。その声にハットして廊下へ出て隣室をのぞくと正しく昔の儘の顔の長い、口髭の濃い元の班長だ。 
最初の挨拶は只 
「ヤア!」 
というだけで後はお互の胸中に交錯する語らずして判る気持だった。何んという偶然であろう、一別以来四年目の邂逅である。班長の奥さんの逝くなったこと、砕さんが高等工業の二年生であること、奥さんの母の死、咸興の菅野曹長の病死等、四年間の隔りを此の僅かの間に埋め様とするような、尽せぬ物語り。あれこれと汗を拭えて話しつづける昔の班長も大分老体に見える。そして熊本隊では良くも此の老兵を戦地へ送り出したのかと憮然たらざるを得ない。班長は差向った膝の前にあるお茶を、只一気に一口でグイと飲み乾す仕種、傍にある塩せんべいをバリバリと無雑作に口へほうり込む所作は全く昔と変らない。 とにかく嬉しい、懐かしいことだ。養母や妻は勿論、残留している平瀬曹長、梨本君等が知ったら驚くこと であろう。実際人間は何時、何処でどんな人に逢うか判らないもの だ。 


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