自分を受け入れられるようになった話
2019年9月末のある日、朝8時。僕の体はベットから動かなくなる。
先輩に紹介してもらった診療所の主治医から宣告された「適応障害」の診断。
「まさか自分が、、、」
診断を受けて初めて、”うつ”の2文字が脳内を覆いこんだ。
気持ち高々に就職した自分には受け入れがたい、理想と現実の大きなギャップを突き付けられ、ありのままの姿を悟るように示されているかのようだった。
2020年5月。僕は休職から復帰することが決まった。自分のこれまでの人生は学生時代の頃と社会人になってからの数年で大きく分かれていると思う。
この文章では、僕が学生時代の時にいかに自分のコンプレックスと向き合い、行動して生きたのかを書き記しておきたいと思う。
一見、順風満帆に思えた学生時代
僕の人生は、傍から見ると”上の下~中の上”くらいには見えていたのかもしれない。
小さい頃は、人見知りでビビりな性格。海に入ることさえも嫌がり水着姿で泣きじゃくる始末。
そんな僕でもスポーツができるという取り柄のおかげで、クラスの中でも割と中心人物的な存在で生きてこられた。
サッカー王国静岡(今はそうでもないかもしれないが)の中心地で生まれた僕も、気がつけばボールを蹴り始めていた。
中学になると、勉強にも精を出すようになる。
中学3年の頃、数学のテストで出された最終問題を学年で唯一解いたことなんかもあった。
地元のクラブチームでサッカーに熱中し、当時のコーチ(後に某Jリーグチームで指揮を執ることになる)に一目置かれ、2年次から先発の座を勝ち取り東海地区の大会に出場したこともあった。
小学生の頃から好きだった子に中学卒業とともに告白して付き合ったなんてこともあった。
その時はもう嬉しすぎて大声出しそうになったのを覚えている。(半年でフラれる)
高校は地元の進学校で強豪サッカー部に所属。2年次からスタメンとして試合にも出場。
理系クラスに所属し、勉強もそこそこで得意科目は物理だった。球技大会でバスケをやれば3年連続優勝。
3年秋に部活を引退し(選手権は惨敗だったけど…)、センター試験も何とか突破し九州の某国立大学へ進学。
大学でも体育会サッカー部に所属し、トレーニング方法や筋骨格の勉強をかいつまみながらゼミはスポーツマーケティングを専攻。
彼女もできて、講義や部活、バイトの合間を縫ってデートしたりもしていた。
まさに充実の日々。
部活引退後には当時インターン経由で内定をもらった大手物流会社グループのIT企業を辞退して就活支援のNPOに所属。
一年間の就職浪人の末、都内の社員250人程度のベンチャー(っぽい中小零細)企業に就職。
教育・福祉系の新規事業のメンバーとして、営業から集客、サービス運営までとまさにベンチャー的な”なんでもやる精神”で泥臭く働いていた。
スポーツが得意だった少年が、文武両道の高校に進学し、やりたいことを見つけて単身九州に移り住み、東京の企業から内定をもらい、バリバリ働く…
一言で言うと、スポーツを軸に色んなことにも手広く挑戦し、それなりに充実してきた四半世紀という感じだったと思う。
傍から見れば。
繊細な自分はいつ形成されたのか
要するに僕はこんな感じで、一見すると順風満帆で生きてきた人っぽい。
僕が精神的に弱い人間であったのかどうか。僕のことをよく知る人からすれば、そうではないと言う人が多いと思う。
しかし、昔から繊細なところはあり、気にしいではあった。感情の表現は下手。
とはいえ、厳しい部活動や文武両道の生活、幾度となく繰り返す怪我のリハビリ、単身での九州移住など、人並み以上に苦難に出会いその都度立ち向かい乗り越えてきた。
そうして僕は怒ることはほぼなく温厚で優しい性格になれたが、昔から変わらないのは、”周りのことを考えすぎて主張を控えてしまう性格”だ。
思えば、僕が感情を表に出さないようになったのは、中学のころからだ。
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ある日曜の夜。
家族会議が開かれ、両親が離婚することを知る。
会議の直前までサザエさんが流れていた。それまでの温かい日曜の夜の雰囲気とは一変した張り詰めた空気が流れ、それまでとまったく変わっていないはずのリビングの景色が、微塵も同じとは思えないほどに殺伐とした場所に見えた。
「ある事情があって仕方なく分かれることになった。」
現実を受け入れられない。
どういう受け入れ方があるのかさえ分からずに戸惑った。その後、テレビをつけたのか、お風呂に入ったのか、どう過ごして寝たのか全く記憶がない。
「ある事情で」という表現に、両親の子どもたちに対する最大限の配慮が含まれていたことを知ったのはもっと後になってからのことだった。
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しばらくして、母方のおじいちゃんが肺炎を発病し、老衰で亡くなる。中学2年の出来事である。
三人姉弟の中間子である僕は、家族の変化に敏感になっていた。
おじいちゃん子だった姉(2歳上)は多重のストレスで学校に行けなくなり不登校。毎朝のように母親とケンカ。ガラスが割れる音が響くなか、何も起きていないかのように朝食のパンと牛乳を飲み込む。
「なんでそこまで…」当時は、ただ姉の思春期のストレスも重なって辛いのだろうと思っていたが、真実は少し違った。それを理解できたのも後のことだったが。
小学5年の弟は、まだ何が何だかという感じ。泣きながら一人で家事をする母に「大丈夫?」と声をかける弟の姿が印象に残っている。
中学2年の僕は、泣きながら机で一人頭を抱えてる母親になんて声をかけてあげればいいのか、何をしてあげればいいのか、いくら考えても思いつかなかった。洗濯物をたたむくらいしかできない自分、それでも精一杯だった。
現実逃避の日々
現実から逃げるようにサッカーに打ち込んだ。幸か不幸か、厳しいサッカーの練習と学校生活、塾での勉強が現実から逃避させてくれる格好の手段だった。
月に一回程度、父親とは会う機会があった。夕飯を焼肉屋やちょっと良い中華料理屋で一緒に食べ、帰りにスーパーに寄って父親に買ってもらったアイスを食べる。父親はいつも「俺はいいよ」と断っていた気がする。
ひと段落すると今月の養育費を渡し、父親は実家へと帰っていく。
最後のこの瞬間だけはいつも、こんなにも簡単に、楽しい理想のひと時の最中と離婚している現実が一瞬のうちに眼前に現れるのかと、何とも言えない心地良くない気持ちだった。
高校になり、サッカーの試合にはたいてい父親も母親も来てくれて両親が揃う姿を見ることができた。父親に試合後に褒めてもらうのも嬉しかったし、母親が試合のたびに作ってくれる昆布とチーズが入ったおにぎりも一つの楽しみだった。
それ以上に、チームの監督が、メンバーが必要としてくれる。そのためにならリハビリも頑張れた。
サッカーが好きかと言われると、そうでもないと思う。大人になった今、サッカーをすることもほとんどなくなった。自分から興味を持ち、試合を見に行くこともなくなった。
きっと、サッカー自体よりも、その先やその周りにあるものが好きだった、必要だったから16年も続けられたのだと思う。
大学生になり、単身九州で生活を始める。癖になっていた怪我も克服し、サッカーと勉強、バイトに遊びに打ち込む日々。実家には年二回程度帰り、その度に、僕が父親に連絡を取り家族5人で食事に出かけるのが定番になっていた。良かれと思って。
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20歳になった冬。成人式のため実家に帰った僕は、独り身になって5年経ってもまだ元気でピンピンしていたおばあちゃんに会いに行った。
いつも美味しいご飯を用意していてくれるおばあちゃん。頑張れとお小遣いをくれるおばあちゃんに少し甘えていた。
おばあちゃんはいつもお小遣いを渡す時に「悪いことは絶対しちゃだめだよ。悪いことには絶対使わないでね。」と言っていた。
祖母という生き物は皆、きっと構いたがりで心配性なんだなろうくらいに思っていた。
しかし、おばあちゃんはたまに、「あんた達のおとうさんはね、人としては良い人だと思っているけどね、あんなことがあったからね。家を大変にして。ほんとに。だからあんた達にはちゃんとなってほしいんだよ。」と言うことがあった。
当時の僕は、なぜそこまで父親を虐げるのか理解できなかった。
事あるごとにまるでフォーマットのごとくその言葉をかけるため、「なぜだろう?」と疑問に思うようになっていたが、僕はいまいちその背景を聞くには勇気が持てずにいた。
大学生になり実家との距離ができてたまにしか会えないため、元気かどうか心配になることもあった。
可愛い子には旅をさせよというが(自分ではいわない)親元を離れると少しずつ大人になれるものだ。
自分の進路はどうしようかなど、自分自身の今後にも興味を持つようになった。
将来のことに頭を悩ませ始めるとともに、いつしか、「ある事情があって仕方なく分かれることになった。」という家族会議の言葉が頭をよぎるようになった。
20歳になるタイミング。良いタイミングだと思った。
「お父さんに、うちに、何があったの?」
信じていたはずの存在が揺らぐ事実
おばあちゃんから聞いた話はまさに耳を疑うものだった。
話を要約すると、借金、ギャンブル、着服の3文字。
父の家系はそこそこの大きさの製糸工場を営んでおり、家の裏には工場があった。
僕が中1の頃、会社の経理を担当していた父親は、会社の金を使い込み、ギャンブルに溺れ、数億円の借金を作ったらしい。
「……………………………。」
言葉が出ない。
(それは本当なのか?)
(あの父親が?)
(なんで…なんで…)
目の前の景色が一気に暗転した気がした。
これまでの思い出は偽りだったのか。今まで見てきたの父親の顔は、本質じゃなかったのか。母親にとって父親はもしかして憎い存在だったのか。家族で食事をしていたのは、母親にとって苦痛だったのか。それを良かれと思って率先して計画していた自分は自己満足で嫌な思いをさせていたのか。
(なんで両親はずっと言ってくれなかったんだろう…)
混乱し始めた思考回路は収拾がつくはずもなく。帰り道、どれだけ時間がかかったか分からない。どこの道をどう帰ったのだろうか。
もうどうでも良かった。
しばらくして、これまで記憶の片隅に追いやっていた記憶が蘇り始めた。
中学一年の頃、ケンカして母親に怒鳴る父親の後ろ姿。大学になったばかりの頃、父と二人で車で出かけた帰り道、信号ぎりぎりで出てきた対向車に怒鳴りつけた父親の横顔。
(そういうひとなのかもしれない。)
そう思わずにはいられず、そうでもしないと自分の心の落としどころがなかった。
それ以来、僕は心の中に小さな空洞を作り、そしてその闇を見て見ぬフリしながらしばらく過ごすことになった。
人間不信からの転機
それからというもの、僕は他人に対して猜疑心を持つようになった。
仲のいい友達でも、教授でも、バイト先の先輩でも、誰と接するにしても、(どうせ他人だ。)とどこかで諦めるようになっていった。
当時の彼女ともうまくいかずに別れた。上っ面の人間関係を築くようになり、深く人と関わることを一層避けるようになった。
女性とも都合のいい関係を望むようになり、そんなタイプでもないのに他大学生との合コンに何度も行ってみたり。
バイト先を塾講師からスペインバルに変えたことをきっかけに、それまで部活と講義に偏っていた生活の比重も週5のバイトに支配されるようになった。
部活に身が入らず、試合の前日に明け方まで飲みに行ったこともあった。いい加減な生活をしているのが心地よく感じることもあった。
そんな最中、人手の少なかったバイト先にヘルプで来た女の子と出会う。
大学で中・高の教員免許を取った後、小学生の先生を志して地元で家庭教師のバイトをしながら通信教育を受けている、当時の自分とは対照的なマインドを持った人だった。
ヘルプは1週間限定。ここぞとばかりに仕事中の接点を増やし、食事に誘い付き合うことになった。
自分にとって夢に向かって毎日を生活し、担当する子どもの進路に悩む彼女の姿は一途でまぶしく見えた。
そんなまじめな彼女のことが僕はもちろん好きだったが、先のことは考えておらず、いつかケンカしたら別れればいいくらいにしか思っていなかった。
腐っているのは楽だった。しかし、その中途半端な関係の溝はすぐにケンカとなって表れる。
僕は一人になりたかった。孤独にいようとした。人と向き合うことを恐れ、避けようとしていた。
それでも彼女は必死に向き合おうとしてくれた。逃げようとする僕のことを捕まえて離さなかった。
それでもなお別れようとする僕に、彼女はお別れ記念旅行を提案してくれた。記念という名前にしたのは、彼女が良い思い出で終わらせたかったからだろう。
東京の街を1泊2日で散策した。一日目の夜、泊まったホテルで一緒に寝ていると、夜中、抱き合って寝ていたはずの彼女が背を向けて泣いているのに気付いた。
自分のしていた愚かさに気付いた。人と向き合うことを避けることで人を傷つけていた。自分が失望し、忌み嫌おうとしていた行動を自分がしていたことに気付く。
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九州に帰ってから、もう一度だけ会うことになった。田舎の小さな丘の上。二人の複雑な関係とは裏腹に空は澄んでいて、いつものように星が綺麗に光っていた。
それまで濁していた過去のこと、家族のこと、人間関係を真っ直ぐに見れなくなっていることを洗いざらい話した。感情表現が下手くそが故に言葉がなかなか続かない。
彼女は、遮ることなく聞き続けてくれた。
僕は気付いた時には馬鹿みたいに泣いていた。中学のあの時から、初めてちゃんと泣くことができた。
結局、彼女との関係は修復できず、そのままお別れすることになった。それからの自分は大きな喪失感を抱え、一方で自分の気持ちに素直になれそうなスッキリした気持ちも同時に持ち合わせることができた。
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大学4年になり就職活動をしていた頃、実家で母親と二人になることがあった。当時のことについて、核には触れないように聞いてみることにした。
「父さんって、何したの?」
母親は言葉を選びながら、答える。
「借金をしたんだよ。会社の関係で。」
きっと深いことを聞いても、母親は僕が傷ついたりしないような答え方しかしないと思い、その後いくつか聞いたきり、深く言及するのをやめた。
おばあちゃんが言っていたことと、事実としては相違がないことを確認した。
母さんの感情以外に関しては。
父親と初めてのサシ飲み
就職が決まった大学生最後の冬。僕は意を決して父親にメールを入れ、飲みの約束を取り付けた。
静岡駅の裏路地。
父親の案内で、どうやら行きつけらしい如何にも隠れ家のような佇まいの小料理屋に入る。
カウンターに座り、ビールとつまみをいくつか頼む。自慢のマグロ、白身魚の天ぷらなど、卒業祝いだと言って何でも頼ませてくれた。
サッカーをしていた頃の話、姉と弟の話などから就職先のこと、大学での話、父親の仕事の話と順々に進んでいく。
父親は現在引っ越し業者で力仕事をしているらしい。引き締まった体に太い上腕、年齢のためか仕事のためか分からないが記憶の中の顔よりも痩せてこけている横顔が見える。
小一時間で一軒目を切り上げ、二軒目へ向かう。
駅の逆側にある焼き肉屋。10分ほど歩く中で、街のことを教えてもらう。懐かしい感じがする。元野球部で阪神ファンだった父親。僕が小さい頃には、一緒にお風呂に入りながら変化球の投げ方や阪神の選手についてよく教えてもらっていた。
懐かしい記憶と思い出が蘇ってくる。勇気が出た。
注文したメニューを一通り食べ終えた後、口火を切った。
「あの時、何があったの?」
すると父親は、丁寧に、言葉を選びながら教えてくれた。
父親曰く、当時会社の業績が落ちてきていた最中、株主総会で父親に社長の役割が回され、業績不振の責任が降りかかってきたらしい。
これが幸せな家庭を作っていた我が家に亀裂を入れることになった。
突如責任を持つことになった父親。会社がどういう状況だったかは分からない。でも、工場で経理をしていた父親からすれば右も左も分からない状況であったはず。経営…?営業…?本当に大変だったと思う。
そんな素人にいきなり経営ができるはずもなく、一年で負債ができ経営は破綻状態。ストレスで精神を追い込まれた父親は、競馬・競輪などのギャンブル、キャバクラなどの女遊びに手を染め、会社の金を着服してしまったらしい。
父親は当時、経営が上手くいっていないことなどを母親に全然相談していなかったらしく、後に僕が成人になった頃に母親本人から話を聞いた時も同じようなことを言っていたが、その時の母さんはひどく寂しそうだった。
人を頼り、相談したりすることが下手で、自分一人で抱え込んでしまいやすいのは、似ているところがあると思う。
結局自己破産をして、母親とは離婚。実家に戻るも、3人兄弟の末っ子である父親は、兄夫婦の姑達から相当ぞんざいな扱いを受けているらしかった。
「本当にひどいんだよな…」
文句が言えない立場なのは誰よりも自覚しているはず。それを愚痴れる立場でもない。近くに住んでいるから発散もなかなかできない。
精神的にどれだけ辛いのだろうか。社会人にもなっていない自分にとっては想像を優に超えると思われた。
それに、その愚痴をここで漏らしていることが僕にとっては意味があった。
抱えた借金を相続させないように、戸籍上から外れるようにしてくれたこと、母さんに申し訳ない気持ちでいること、子どもたちが元気でいてくれてこうして会えただけで本当に嬉しいということ、赤裸々に話してくれた。
思えば、家族とこういう話をしたのはほぼ初めての気がした。
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本人から直接聞けたことで、真実がどうであろうと、僕は少し心が満たされたような、安心した気持ちになった。
おばあちゃんにとっては憎い存在かもしれない。母親にとってどういう存在だろうか分からない。でも、自分にとっては一人の父親なのだ、と。
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これから
おばあちゃんから当時の話を聞いた時、僕はきっと、不遇な人生を歩んでいる自分に堕落したくなったのだと思う。
姉が学生の頃ひどく塞ぎ込んで精神的に荒れていたのは、この事実を母親から個人的に聞いていたからかもしれない。
今、母親には新しい彼氏がいる。結婚はしていない。
僕は今、父親と会うことはほとんどなくなった。
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家族との関係は人それぞれだと思う。僕個人としては、血縁があろうとなかろうと、信頼関係があれば家族になり得ると考えている。
人と人の繋がりが薄れやすくなっている今の社会環境。だからこそ、顔を見て言葉をかけられる価値を大事にして欲しいと思う。
コロナで人の命が容易に、瞬く間に亡くなっていくことを再確認できたと思う。
この文章を読んで一人でも多くの人が、身の回りの人との関係を考え直して悔いのないように過ごしてほしいと思う。
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