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”七つの椅子”            絵本『ハリス・バーディックの謎』から

その椅子に座れば、どんな発想も湧いてきた。仕事で疲れていても、眠いときも、落ち込んでいるときでさえ。

彼女は詩人と名乗っている。もちろん、生計を立てるのはそれでは足りないので、他に仕事を持っている。でも基本的には自分のアイディンティは詩人であると認識していた。

詩はいつも明け方の4時から6時に生まれる。その後は朝食を食べ、仕事に行かなくてはならない。彼女にとってその2時間はいつも至福のときだった。
椅子は、木で出来ており、座る場所と、少しかしいだ背もたれには、本革が貼ってあり、何時間でも集中することができた。窓の外に広がる空が、グレーから薄いブルーに変わるまで、彼女は詩を作っていた。

彼女の詩は、詩集としては異例だが数万部売れ、それだけでもかなりの収入になった。
しかし、彼女はそれを自分の才能ではなく、愛用する椅子のおかげなのかもしれない、と思っていた。
その証拠に旅先のホテルで書いた詩は、途中で筆を折ってしまい、自分のベッドでうつぶせになりながら書いた詩は、あきらかな失敗作だった。

ある年の冬、彼女が出張から帰ると、アパートは燃えていた。隣の住人の火の不始末による火事だった。椅子も燃え、彼女は自分の家を前に泣いた。もう詩が書けないかもしれないと思って。

新しく引っ越した家の、新しく購入した椅子で詩を書いたが、恐れていたとおり、何のイメージも浮かんでこなかった。ガソリンのない車のような気持ちになり、彼女はもう詩を書くことが出来なくなり、ついでに引きこもりになった。今まで詩を書くことで何とか心のバランスを整えていたが、それが出来なくなったからだ。

あの椅子に関わるニュースを聞いたのは、引きこもりになってから3年が経つ春だった。いつものように、深夜のテレビを見ていたら、そのニュースが流れていた。海外のどこか修道院の映像が流れ、スーツを粋に着こなした男性アナウンサーが繰り返し、こう言っていた。「五つ目は結局フランスで見つかったようです」と。画面は修道院内部の映像に切り替わり、そこでは、二人の聖職者と見られる人物が、椅子に座ったまま宙に浮く尼僧を見上げていた。

彼女はこれを何かのトリックか、うその番組かと疑ったが、それは正真正銘、本当に起きたことだった。

そのアナウンサーの解説によると、椅子は中世の魔術師によって作られ、1940年以降、個人が収集していた7つの椅子が第二次大戦のどさくさで世界に分散していった。
椅子の持ち主の息子である、イタリア人のジャンフランコ氏(62歳)は、世界中を旅して椅子を探していた。
回収したもののなかには、座ると姿が消える椅子や、病の進行を遅らせる椅子などもあったらしい。

番組の最後、ジャンフランコ氏はインタビューでこう言っていた「6つめは日本にあると確信しています。その椅子は、座るとどんな人でも優れた発想が浮かび上がってくるんです。これを見ている日本の方で思い当たる人がいたら、ぜひ教えてください」

彼女はテレビを見ながら確信した。
人生の美しい時が終わったことに。歌うように詩を書き、それを読者が喜んで受け入れる、そういう幸福な期間は終わったのだ。あとは、自分で人生を切り開かなくてはいけない。彼女は詩を書くことはもうできない、でも文章を書くことは変わらず好きだった。

まだ何かできるはずだ、自分の人生は始まったばかりじゃないか。
彼女は夜明けともに眠った。それはいつもと違う短い眠りだった。

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