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ぼくらは言葉を食べて生きている

思考の原型は、だれかの言葉によってできている

ボリボリと食べ砕き、ゴクゴクと飲み込んでいく。喉ごしよくスルスルと胃におさめられる言葉も、奥歯に引っかかるような言葉も、体に取り込んでいく。その滋味が、栄養が、血液に溶けて、全身に広がっていくのを感じる。

その繰り返しを経て、言葉が濾過されて、思考に至るイメージの断片が残ったり消えたりして、自分だけの言語=思考世界が形成されていく。

上記のnoteに書いたように、最近、ひさしぶりに経済メディアでGlobis Capital Partnersの高宮慎一さんに取材して原稿を書く機会があった。記事はまだ公開されていないので、また改めて紹介したい。

GCP高宮さんは、間違いなくぼくの恩師の一人であり、学生時代に出会ってから現在に至るまで、多大なる影響を受けてきた。

ある媒体で取材したことをきっかけに、お声がけをいただき、高宮さんの著書『起業の戦略論』(未刊行)のライターの依頼を受けるまでになった。それから、ぼくは新卒で入社したリクルートを辞めて独立することになるのだけれど、そのときに背中を押してくれたのも高宮さんだった。

単体の取材記事はもちろん、雑誌の連載、そして書籍の執筆と、たぶんぼくは日本で一番高宮さんのことを取材した回数が多いのではないかと思う。

取材の度ごとに浴びる言葉や新しい物事の見方は、ぼくの思考の原型を形作ったといっても過言ではない。

「人・本・旅」との出会いを通じて、アイデンティティを発見する

最近、西加奈子さんの長編小説『サラバ』を読んだ。

去年末に、ぼくが書いた長編の回顧録のようなエッセイのような文章「世界を相対化する技術」で記したコンセプトーー人の世界は「人・本・旅」により更新されながら、各々の意味を探す旅が進んでいく

それが『サラバ』ではそっくりそのまま壮大な物語へ昇華されていて息を飲んだ。「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ」ーー。

イランで生まれ、エジプトと関西で育った主人公は、自分の抗いがたい運命に飲み込まれそうになりながら、実際に飲み込まれながら、自分のアイデンティティを見つめ続けて人生を歩んでいく。

異国の地で目の当たりにする日本では考えられない風景、そこで出会う人、魂を共鳴させられることの悦び。親友が開いてくれたまだ見ぬ世界、音楽や小説。カルチャーに埋め込まれた、自分を発見する楽しさ。人と関係性を切り結ぶ過程で、向き合わざるを得ない希望と絶望。

人・本・旅。その出会いの繰り返しでしか、自分の人生を相対化したり、発見することはできない。ぼくが人生を通じて感じてきたこのループを、この小説は見事に、小説を全体を通して表現している。

世界そのものが言葉で、言葉そのものが世界

「世界を相対化する技術」で、「人・本・旅」との新しい出会いによってしか、人は変われないと書いた。ただ、あらためて思い起こしてみるならば、その「人・本・旅」を触媒するのは、そのすべてを表象するのは「言葉」に他ならない。

新しい人と出会って、まず行うのは言葉の交換だ。新しい思考様式、体験は、言葉を通じて伝達される。

手にした小説で没入する物語世界も活字の集合体によって表現される。

旅を通じて目にする光景、だれかの日常、風習は、感情(≒言葉)によって、記憶の抽斗ひきだしに格納される。

言葉によって世界を記述し、言葉によって人とコミュニケーションを取り、言葉によって考えて行動をする。そう、言葉が自分の現実を作り出していく源なのだ。

その全体連関について思い至らせてくれた本を二冊挙げるのであれば、『思考は現実化する』『意志と表象としての世界』ということになるだろう。

もちろん、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」にも多大に影響を受けている。橋爪大三郎は『論理哲学論考』のエッセンスを下記のように抽出する。

①世界は、分析可能である。
②言語も、分析可能である。
③世界と言語とは、互いに写像関係にある。(同型対応している)
④以上、①〜③のほかは、言表不能=思考不能である。
「世界は、言語があるようにあり、言語は、世界があるようにある」

『はじめての言語ゲーム』(橋爪大三郎)

ここで言いたいことを乱暴にまとめるなら、世界は言葉によって覆い尽くされているし、世界そのものが言葉の総体である、という考え方だ。思考と行動の始原に、まず言葉があると思うのだ。

哲学がある人生と、哲学がない人生

千葉雅也さんの最新刊『現代思想入門』を読んだ。

新書を読んで、ここまで感動したのは久しぶりかもしれない。千葉雅也さんの著作はこれまでほぼ全て読んでる。哲学とか思想、ひいては人文学を学ぶ意味ってなんだっけ、とずっと言語化できずにいた。けれど、帯にある「人生が変わる哲学」は誇張じゃない。物事の捉え方、言葉によって人生を切り拓く術、その思考のきっかけがこの本には詰まってる。

たとえば、今著は構成の前半で「脱構築」にターゲットを絞り、三人の現代思想ーーデリダ、ドゥルーズ、フーコーーーの巨人を召喚する。それぞれ「概念」「存在」「社会」の脱構築に挑んだ、それぞれの哲学者の思考の軌跡を平明に解き明かしていく。

べつに、ただ働いて、飯を食って、排泄をして、寝るだけなら、哲学も思想も要らないのかもしれない。けれど、ぼくは哲学のある人生と、哲学のない人生を自分で選び取るなら、いつだって前者を選びたい。

ぼくらが所与のものとして疑いすらかけない社会機制のすべてには、なんらかの論理が埋め込まれている。自我にせよ社会にせよ、自分なりの頭で、自分なりの言葉で考えるには、思考の足場が必要だ。それを哲学と思想は与えてくれる。学生の頃に読んだ中山元さんの『思考の用語辞典』によって幾度も開眼する言葉に出会えた記憶がある。

自分の人生を自分で文脈づけすること、意味を見出すこと、過去や未来を参照しながら現在を生きること。それを可能にするのが、哲学であり思想であり、言葉だと思うのだ。

ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。